【特集:コロナと演劇】暗闇のなかの演劇──東京芸術祭ワールドコンペティションにむけて(5)|ブレット・ベイリー

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ゲンロンα 2020年10月9日配信
 東京芸術祭ワールドコンペティション関連企画「コロナと演劇」。今回は、南アフリカを拠点に劇作家、演出家、舞台美術家、インスタレーション・アーティストとして世界的に活躍するブレット・ベイリー氏による寄稿だ。
 ベイリー氏は1967年、南アフリカ共和国生まれ。ケープタウンを活動拠点とするパフォーマンス集団「Third World Bunfight」の芸術監督であり、アフリカ諸国のみならずヨーロッパ、オーストラリアなどで作品を発表、多くの賞を受賞している。また国際的な演劇祭で審査員を務め、東京芸術祭ワールドコンペティション2019にも審査員のひとりとして来日した。
 現在、世界的に見ても深刻なパンデミックを経験している南アフリカ共和国。アフリカ大陸の全感染者の約半数が集中し、世界で5番目に感染者が多い。本寄稿でベイリー氏はアーティストとしてのとまどいや不安を正直に吐露しながらも、「この暗闇を理解し、応答するためにアーティストはなにをすべきか」と問い、みずからがコロナ禍で紡ぎ出しつつあるプロジェクトを語る。それは日本の読者にとっても、暗闇に灯るろうそくのように希望を示してくれるはずだ。
 
 8月末の今日、ケープタウンから40キロほど離れたわたしの暮らす農場は、凍てつくような寒さに包まれている。周囲の山には雪の冠がかかり、空には雨雲が重くたちこめている。わたしはお湯の入ったボトルを膝に乗せ、パソコンからSpotifyを通して流れる音楽を聴きながら、机に向かっている。この5ヶ月間というもの、わたしはほとんどの時間をこの椅子に座って過ごしている。話し相手といえば、いまはソファで寝ている黒猫だけだ。

 外では、つまりこの農場を囲う柵のむこう側の不安定な世界では、多くのひとが職を失い、ストレスと空腹を抱えて生活している。ときには産業ごとビジネスが崩壊し、人々はいつにも増して不確実性と不安、そして絶望に直面している。人種差別の歴史が生んだ凄まじい社会的格差はもはやこの国の代名詞となっているが、それもパンデミックによってますます悪化の一途をたどっている。

 ここ南アフリカでは、世界的に見てもかなり厳しいロックダウンが敷かれた。酒とタバコの販売は5か月にわたって完全に禁止され、つい先週解禁されたばかりだ。感染率は世界で5番目に高い。これまでに約61万人の感染者が出ていて、これは人口の1パーセント強にあたる(一方、日本の感染率は0.04パーセント程度だ)。

 この期間の雰囲気を音楽にたとえるとしたら、甲高い音が絶えずキンキンと鳴り響ける一方、重苦しいベース音が悲痛に訴えかけてくる、そんな音楽になるのではないかと思う。中音域はあまり鳴っていない。

 ニュースでもっぱら話題となっているのは、パンデミック対策という名目で政府や民間企業が動かす多額の金銭をめぐる腐敗だ。与党議員が友人や親類に様々な契約や入札を都合し、何億ドルもの金が個人口座に吸い込まれていった。
 もう何年もまえから、この国の経済状況は芳しくない。ウイルスが広まる以前からすでに、失業率は30パーセント近かった。将来の展望も暗い。限界が近いという雰囲気だ。

 友人の年老いた父親が2週間前、ウイルスにより命を落とした。シャワーで転倒して足を骨折した彼は、入院先の病院でコロナウイルスに感染したのだった。入院後6週間が経って友人がやっと面会を許されたときには、彼女の父はすでに意識不明となっていた。彼は、その翌日の晩に亡くなった。わたしは先週、やっとその友人に会うことができた。わたしは彼女をきつく抱きしめた。この5ヶ月間で、誰かを抱きしめたのはそれがはじめてだった。わたしの母は、高齢者のための居住区で生活している。周囲から隔絶された区画のなか、手入れの行き届いた土地に並ぶかわいらしいコテージのひとつに、彼女は暮らしている。その区画では既に10人が亡くなっている。いま、母を抱きしめるのはあまりに危険だ。わたしは、何ヶ月も撫でてもらえずにいる猫のような気分でいる。

 わたしは元来、社交的なほうではない。パートナーはギリシャにいて、わたしはひとりで暮らしている。友人に時折会うことはあっても、劇場やレストランに足を運ぶことはめったにない。人間よりも自然に囲まれて過ごす時間のほうがずっと長い。ここ数年、わたしの人生はおおむね4つのフェーズを繰り返しているといっていい。まずリサーチをして、新しいパフォーマンス作品を執筆する。つぎに、それを稽古する。作品ができたら海外ツアーだ。そしてたまにはバケーションをとる。

 ロックダウン下の生活は、「リサーチと執筆」期の過ごし方と大きくは変わらない。異なるところがあるとすれば、いまは社交の義務や圧力から解放されたという点だろう。1日2回瞑想をし、広がり続ける庭で土に手を汚し、ポッドキャストを聞き、料理をし、読み、書く。さながら冬ごもりか、執筆旅行でもしているような気分だ。わたしは恵まれている。この国に暮らす大多数の人々と違って。

 もちろん、自分の仕事の先行きは心配だ。わたしの劇団はとても小さく、所属しているのはわたし自身と、22年間にわたって作品の制作業務、マネジメント、そしてプロデュースを担当してくれている友人のふたりだけだ。出演者や技術者は、その都度のパフォーマンスやインスタレーションの必要に応じて雇用している。多くの同業者と同じように、パンデミックのせいで上演がいくつもキャンセルされてしまった。最新作はフランスのアヴィニョン演劇祭の国際プログラムで上演されるはずだったが、いまだ日の目を見ない。いまは劇団が積み立ててきた貯金を食いつぶしている。果たして劇団は存続できるだろうか。

 しかしこの期間より以前から、南アフリカにおけるアートシーンは、長らく苦境にさらされてきた。特にインディペンデントの非商業的な作品に対しては、政府からも民間からも、投入される資金は多くない。わたしは過去10年間で、海外では75会場で上演をしてきたが、自分の故郷ではわずか4度しか作品を上演をしていない。端的に言って採算が取れないのだ。
 ウイルスの発生以来、南アフリカのアーティストは苦境に立たされていて、いくつかの劇場は閉鎖に追い込まれてしまった。おそらく日本でもそうだと思うが、演劇やパフォーマンスの領域で活動しているアーティストの多くが収入を得るために、そして、実存的な表現欲求を満たすために、オンラインに創作の場を移している。わたしがキュレーション委員会の議長をつとめる、毎年7月開催の南アフリカ国立演劇祭も、今年は開催の場をオンラインに移し、ロックダウンが始まった3月終わりごろから、6月半ばまでのあいだにつくられた作品をいくつか取り上げた。しかし、わたし自身の創作の核はあくまで儀式と祭祀だ。つまり、没入体験である。コンピューターの画面上で観られるバーチャルな舞台は、わたしの作品のプラットフォームにはなりえない。

自宅の外観
 

 ではわたしは、コロナ時代の身体的距離への制約のなかで、アーティストとしてどのように作品をつくれば良いのだろうか? この不安と緊張、そして当惑に対して、どのように応答すればよいのだろうか? 世界中で多くのアーティストが直面した問いだろう。

 このエッセイには、この期間にアートや演劇、コミュニティ、そして人間関係について考えたことや思いを書いてほしいと頼まれている。大仰な哲学は持ちあわせていない。しかし、自分が取ったアプローチをそのまま紹介することはできる。

「ニュー・ノーマル」の生活様式にも慣れてきたころ、わたしは、いま、南アフリカの人々が必要としているもののなかで、わたしが提供できそうなものはないだろうかと考え始めた。まずはリストをつくってみることにした。


・パフォーマンスによって生計を立てているアーティストなどのための雇用
・人々が集まることのできるイベント
・人間同士の有意義なつながりをつくり出すこと
・自分の身体で誰かと出会うこと
・アーティストも一般のひとも参加できる特別ななにか
・自然とアウトドアへのアクセス
・癒し
・複雑で困難に満ちた現代社会を理解する助けになるような作品


 そして、このリストについて考えつづけていると、あるひとつの場面が思い浮かんだ。小さな一団が、星が散りばめられた真っ黒な夜空の下、自然のなかに集い、キャンプファイアを囲む。そして炎を見ながら、語らう……
 こうした場面に居あわせることには、魔法のような、ある種儀式的な効用がある。悠久のときを超えて、先祖とつながることができる。われわれを包む時間と空間の途方もなさに思いを馳せることができる。そして、煙の匂いを身にまとって平凡な日常に戻ったときには、魂が豊かになり、想像力に満ち溢れている。

 こうして、光のないときに人々が集う小さな焚き火として自分の作品を考えてみることで、とるべき指針があきらかになった。

 いま、自身が暮らす農場の周りの自然のなかに、わたしは何本かの通り道をこしらえている。道沿いにキャンプファイアを4つずつ用意し、アーティストや作家、語り手、音楽家、歴史家、夢想家といったひとたちに、キャンプファイアのホストを務めてもらう。ホストは、あらかじめ用意した30分の上演を、一晩のうちに4度繰り返す。みずからの詩作について話し、そして朗読を披露する作家。ギターを抱えた作曲家。かつてこの地を歩いた先住民の宇宙観について語る人類学者。みずから物事を考える人々が、アイデア、記憶、歴史、物語について語らう……すべて「アンプラグド」だ。テクノロジーはいっさい使わない。ホストたちは「パフォーマンス」について対価を受け取り、緊密で、不可思議で、肯定的なときを過ごすことができる。

 小さなグループに分かれた観客が、夜、焚き火から焚き火へと道を歩いていく。火の灯る場所ごとに止まって30分過ごし、お互いのことを知る。人生と芸術の可能性について、今一度語らい、感じ、そして想像する。このプロジェクトを実施するための財源を、民間の財団の出資により得ることができた。雨季が終わる11月なかばから数週間にわたって、このプロジェクトは実施される。そして日ごろ文化芸術に従事し、いま、苦しい生活をしているひとたちが、収入を得ることができる。

 このプロジェクトは気に入っているし、真心をこめてつくったものだ。しかし一方で、日々変容しつづける人生の不条理に芸術を通して応答したいという、個人的な衝動からくるものでもない。

 昨年、まだパンデミックが始まるまえ、わたしはギリシャ神話のオルフェウスの物語を翻案することに着手した。オルフェウスは半神の吟遊詩人で、理性を生み出し、美しい音楽を奏でることで宇宙の理を解き明かす存在だ。彼は殺された妻を取り戻すために黄泉の国へと赴くが、これは失敗に終わる。そして彼岸から戻った彼の音楽は、すっかり別物になってしまう。喪失の悲しみと闇をひたすら芸術に込めるようになるのだ。彼はある意味、上演芸術家の原型と言えるだろう。

 世界がウイルスによって分断され、恐怖、孤独、病と死に包まれるなかで、この作品の射程も変わり始めた。いま、作品の根幹にあるのは「芸術家の社会における役割とはなんなのか?」そして「この強烈な暗闇を理解するため、わたしたち芸術家はどのような歌を歌えばいいのか」という問いである。社会における芸術家の責任を考えることにつながる問いだろう。

「オルフェウス」はわたしがこれまで取り組んできた、神話と現代の出来事、儀式と演劇、夢とわれわれが生きる現実との交接を探る試みの延長線上にある。繰り返しになるが、わたしが目指すのは、冷たく、暗く、風の吹きすさぶ長い夜に人々が集まる小さな焚き火を、創作を通じてつくり上げることだ。

オルフェウスが来る前
ここに音楽はなかった
歌もなく
しらべもない
嬉しいときや悲しいときに口ずさむものはなかった

ただ銃声と嘆きの声があった
歯先をすり抜ける鋭い呼気とうなり声とがあった
恐怖がジリリと冷徹に高鳴り
カラカラと響く笑い声
いつまでも止まないブンブンと気だるい羽音
けれど音楽は?

あったのだとしても、聞こえたことはなかった
彼が音楽をもたらした
彼がわたしたちに歌を教えた
そしてわたしたちはゆっくりと理解し始めた


 いつ、どのようにしてこの作品は上演されるのか? それはまったく分からない。かなりの柔軟性をもって、屋内でも屋外でも、典型的なブラックボックスでも野外の円形劇場でも上演できるように、作品を考えている。翻訳を容易にし、国外でも上演しやすくするために、ひとりの登場人物がすべてのセリフを発するように書いている。国外で上演を検討してくれている団体とは、さまざまな町にわたしが滞在して、地元のパフォーマーといっしょに上演をつくることも提案している。アーティストとして生き延びるためには、さまざまな条件に適応できなくてはいけない。

 パンデミックはいつか過ぎ去る。当然、変わるものもあるだろう。しかし人間はしぶとい生き物だ。壊滅的な戦争や疫病、政変や災害のなかを、これまでも何千年と生き延びてきた。傷口はやがてまた塞がる。踊り子はその足で大地をふみ鳴らし、歌い手は天までその声を響かせ、音楽家はハーモニーを奏でる。そして俳優は言葉と仕草、そしてそのエネルギーをもって、意味をかたちづくる。

 わたしたちは座って瞑想する。呼吸し、観察し、なんとか重心を保とうとする。

 5ヶ月前、世界が閉じられていくなかで、わたしは周囲の丘の葡萄畑が、赤と金に染まりゆくのを見た。そして黒々として葉のない冬が続く。しかしまた何週間か経てば、地球の軸が再び傾くにつれ、新しい春の緑に覆われるに違いないのだ。(2020年8月27日)

自宅からの眺め
 

翻訳=山田カイル(抗原劇場/Art Translators Collective)
構成=石神夏希、ゲンロン編集部
 
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*「コロナと演劇」第7回として掲載予定でしたレミ・ポニファシオ氏による寄稿は、事情により掲載されないことになりました。お待ちいただいた読者のみなさまにお詫び申し上げます。(編集部)  
【東京芸術祭ワールドコンペティション】
ウェブサイト:https://tokyo-festival.jp/

主催:東京芸術祭実行委員会[豊島区・公益財団法人としま未来文化財団・フェスティバル/トーキョー実行委員会・公益財団法人東京都歴史文化財団(東京芸術劇場・アーツカウンシル東京)]

東京芸術祭ワールドコンペティション2019年度受賞作公演

「東京芸術祭ワールドコンペティション」は、2019年から新たに始動した、東京芸術祭のプログラムです。昨年度はコンペティションを開催し、アジア、オセアニア、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカの5地域と日本の推薦人により選ばれたアーティストが東京に集い、6つの作品を発表しました。最終日には、舞台芸術を評価する新たな「尺度」をめぐって審査員たちによる白熱した議論が交わされ、2作品が受賞作に選出されました。

今年は、本コンペティションで最優秀作品賞を受賞した、戴陳連ダイ・チェンリエン[北京、中国]による『紫気東来―ビッグ・ナッシング』と、観客賞を始め多数の賞を受賞した、ボノボ[サンティアゴ、チリ]による『汝、愛せよ』の2作品を映像上映・映像オンライン配信の形式でお届けいたします。「2030年代に向けて舞台芸術の新たな価値観を提示し、その提示方法が技術的に高い質を持つ」と評された作品を、改めてご覧いただく貴重な機会となります。この1年、大きな社会の変化を経て上演される作品が、皆さんの新たな議論のきっかけとなれば幸いです。

<映像上映>
料金:前売り・当日 1演目500円

『紫気東来―ビッグ・ナッシング』
演出・出演・舞台美術・照明・音響プラン:戴陳連/北京、中国
日時:11/6(金)-11/7(土)13:00/16:00/20:00
   11/8(日)13:00/16:00
会場:東京芸術劇場 シアターイースト
関連記事:【特集:コロナと演劇】これは私たち共通の物語──東京芸術祭ワールドコンペティションにむけて(4)|戴陳連
https://webgenron.com/articles/article20200925_01/

『汝、愛せよ』
作:パブロ・マンシ/演出:アンドレイナ・オリバリ、パブロ・マンシ(ボノボ)/サンティアゴ、チリ
日時:11/6(金)-11/8(日)17:30
会場:東京芸術劇場 シアターウエスト
※ソーシャルディスタンスを保ち、客席数を減らした状態で開催します
※未就学児童の入場不可

<映像オンライン配信>
料金:1演目500円

『紫気東来―ビッグ・ナッシング』
演出・出演・舞台美術・照明・音響プラン:戴陳連/北京、中国
日時:11/6(金)-11/8(日)13:00

『汝、愛せよ』
作:パブロ・マンシ/演出:アンドレイナ・オリバリ、パブロ・マンシ(ボノボ)/サンティアゴ、チリ
日時:11/6(金)-11/8(日)17:30

※映像上映と同じ内容となります(当日24:00まで視聴可能)
※『紫気東来−ビッグ・ナッシング』の戴陳連によるレクチャーパフォーマンスも無料配信予定

 各プログラムの詳細およびチケット情報などは、東京芸術祭ワールドコンペティションのウェブサイトをご覧ください:https://worldcompetition2020.tokyo-festival.jp/

ブレット・ベイリー

劇作家/演出家/舞台美術家、サード・ワールド・バンファイト主宰。南アフリカの劇作家、演出家、デザイナー、インスタレーション・アーティスト。南アフリカのみならず、海外ツアーも広く行なっており、国際演劇フェスティバルの審査員も数多く務めている。2001年にはスタンダード・バンク・ヤング・アーティスト賞の演劇部門 を受賞、2007年にはプラハ・カドリエンナーレにて舞台美術の金賞を受賞した。2014年にはUNESCO国際演劇 協会の ワールド・シアター・デイへ向けたメッセージを執筆。2019年、フランスの芸術文化勲章シュバリエを受勲。Third World Bunfight  portrait by Andreas Simopoulos
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