【 #ゲンロン友の声|038】原発に不安を感じます

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webゲンロン 2025年9月2日配信

不安について質問させてください。

私は新潟県に住んでいますが、来年5月には県知事選挙があり原子力発電所の再稼働を知事がそれまでに判断をし、県民にその信を問うと発言しています。隣県である福島での原発事故もあり私自身不安があります。また、福島在住の友人たちはどれだけ安全だと数値で示されても、原発事故後の不安は解消されないようです。友人たちは14年経った今も、何かあると当時の様子を繰り返し話します。

事故以来の政府や公の情報の出し方などもあると思うのですが、このような不安はいつか何かの形で解消されるものでしょうか? それとも、この不安と寄り添ってゆく方法を探すべきなのでしょうか? また友と話す際の補助線になるご意見がいただけたら嬉しく思います。(新潟県・50代・男性・会員)

 ありがとうございます。重要な質問だと思います。

 東日本大震災以降、ぼくも原発について自分なりに考えてきました。そのうえでいまの意見を簡潔に記しますと、「原発は本来なくすべきだが、現状では頼るのはやむなし」というものになります。

 こう書くとあまりに浅いですが、いろいろ考えたうえでの結論です。最近は倫理的(エシカル)という言葉が流行りです。その点でいえば、原発はけっして倫理的存在とはいえません。なぜならば、放射性廃棄物、いわゆる「核のゴミ」の安全な処分方法が確立していない以上、原発は未来の世代に負担を押し付けることでしか成立できないものだからです。ぼくたちは、いわば、未来からエネルギーを前借りし続けている。そんな技術が倫理的であるはずがありません。

 けれどもここで重要なのは、倫理的でないからといって、では即時に廃止すべきかといえば、必ずしもそうも言えないということです。人間の活動にはさまざまなモードがあります。すべての活動の是非が倫理に照らして判断されるわけではありません。人間は、倫理とほかのメリットをつねに秤にかけ、ときに倫理よりも快楽や経済的利益を優越させています。たとえば、ぼくたちの多くは、動物の生命を奪うことが倫理的でないことを知っていても、関係なく肉食を続けている。いいとか悪いとか以前に、人間とはそもそもそのような生き物なのです。

 それゆえ、問われるべきは、原発が倫理的かどうかといった本質論ではなく、原発が非倫理的で「ないほうがいい」存在であることを認めたうえで、そのうえで稼働するメリットがあるか否かという問題になります。そしてぼくは、この問いに対してはイエスと答えます。なぜならば、一方には気候変動のせいで化石燃料にこれ以上依存すべきでないという現実があり、他方では新興国の台頭に加え、データセンターの増加やAI社会化による電力需要の急速な上昇があるからです。これは世界共通の状況ですが、日本も基本的には変わりません。要は、人類はまだまだ電気を必要としている、そして現在の技術水準においては、その需要を満たしてくれるのは、悲しいかな原発しかないわけです。以上の現状認識については、じつは10年ほどまえにポリタスに寄稿したことがあります。そのときからぼくの立場はあまり変わっていません。

 というわけで、ぼくたちは当面は原発と共存するしかない。では、質問者さんが感じているような不安にはどう接するべきでしょうか。ぼくは、それについても、いまの話と同じように、まずはぼくたち人間が矛盾から逃れられないことを認める、そこから出発するべきだと思います。

 原発はなくてはならない存在です。しかしそれは不安な存在でもある。とくに日本ではそうです。専門家が原発はいくら安全だといっても、日本は想定外の災害に見舞われている国です。地震もあれば火山もあります。実際に東日本大震災ではチェルノブイリに次ぐ規模の事故が起き、広大な土地から多くの住民が避難を強いられた。それで再稼働や新設に対して不安を抱くなというほうが無理です。

 しかし、ここでふたたび考えてもらいたいのは、ではぼくたちは人生から完全に不安を排除することができるのか、という問いなのです。言うまでもなく、人生は不安に満ちています。もう少し学問的にいえば「リスク」という言葉になりますが、人生はそもそもリスクに満ちている。就職すること、結婚すること、子供をつくること、すべてがリスクですが、それでは就職せず、結婚せず、子供をつくらないからといってリスクゼロかといえばそうでもありません。車に乗れば交通事故のリスクがあるし、外出すれば感染症にかかるリスクがある。ひとに会えば傷つくリスクもあります。しかしそれでもぼくたちは生きている。車に乗り、外出し、ひとと会う。なぜならば、リスクゼロは人生の目的ではないからです。リスクをゼロにしたいならば、反出生主義の人々が主張するように、そもそも生まれないしかない。しかし、ぼくたちはそもそも生きているからこそ、反出生主義だって考えることができるのです。

 というわけで、原発はリスクの高い存在であり、稼働に対して不安を感じるのはしかたないけれど、それもまた、原発が生み出す電力によってぼくたちが多少とも幸せに近づけるのであれば許容してもかまわないという結論になります。むろん、ひとによっては、原発のリスクはあまりに大きく、絶対に許容できないと感じるひともいるかもしれない。その感覚はわかります。なんといっても、ぼくたちは福島第一原発事故を経験した国民です。だから議論は必要でしょう。しかし、原則としては、だれかが不安に感じるから、リスクがあるからというだけで、原発を許容しないという結論にはならない。結局のところすべてはバランスであり、程度の問題です。原発は後世に負担を残すし、重大事故を起こすリスクもある。しかし生活の質も確実に上げてくれる。そのどちらに重きを置くのか、個別に判断するしかありません。そして、その判断を主体的にする行うということこそが、結局のところ、原発問題について「責任を取る」ということなのだと思います。

 ただ、以上のうえで記せば、日本政府については、ぼく個人としては、いろいろな事情があるのはわかるとしても、あの重大な原発事故を起こした国として、短期的にはふたたび原発依存を高めざるをえないけれど、長期的には脱原発こそが国是だぐらいの方針は打ち出してほしいと思っています。たとえそれが夢物語にすぎないとしても、そういう夢を語ることこそが、福島第一原発事故を起こした国の国際的な責任でもあるような気がするのです。そしてできれば、国民に対しても、なんとなく原発新設へと方針を変えていくのではなく、あんなに大きな事故のあと原発に頼らねばならないのは残念だ、しかしこれしかない、かわりにつぎに事故が起きたときには、こんどは民間企業に事故処理の責任を押し付けたり、避難計画を自治体に任せたりするのでなく、国家としてきちんと国民を守る、だから不安でもついてきてくれ、といった強い約束の言葉を発してほしいと思うわけです。けれども、残念ながら、それこそが、ぼくたちの国では夢の夢のような話なのでしょう。それにはひとりの国民としてぼくも苛立っています。

 そして最後に。念のため付け加えておきたいのですが、ぼくはこの回答で原発は非倫理的な存在だと幾度も記しましたが、それはあくまでも現行の核分裂炉について言っています。原子力科学や原子力技術そのものを非倫理的だと主張しているわけではありません。それどころか、ぼくは、最近いろいろな場所で語っているとおり、今後予想される人類規模の電力逼迫と気候変動問題を打破する切り札は核融合しかないと考えています。そのための研究や投資はじゃんじゃかすべきです。しかし、その話はまた別の機会にしましょう。(東浩紀)

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家、作家。ZEN大学教授。株式会社ゲンロン創業者。博士(学術)。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。

2 コメント

  • TM2025/09/22 16:50

    倫理的な価値基準もしくは合理的な価値基準、1つの定規で推し量って決めることは、身も蓋も無いことを言うと、楽で快楽的だと思う。そのことに自覚的になったのは自分の場合東さんの書いたものに出会ったからだった。 きっと出会ってなければ、今も自分に都合よく2つの定規を使いこなして、ただ世界を切断する心地よさに囚われていたかもしれない。 一方で自分自身そうだったからこそ、というか今も油断するとそうなのだが、1つの定規で単純化する心地よさの存在を知るが故に、それを信望する人に違う定規の可能性を提示する難しさを感じている。 「原発は本来なくすべきだが、現状では頼るのはやむなし」という1つの場所に至る過程の複数のベクトルの重なり。それはこの文章を読めばとてもよくわかる。 福島を思い出せ。原発は災害リスクが高いのは明らかであり、絶対的に廃止すべき。 その直線的思考は本来平坦ではない現実を無視して描かれる非現実的な線であって、本当に今を真剣に考えているとは言えないのではないかと思う。 でもやっぱり直線は楽だし、凸凹の基線が単純化される心地よさもあり、曲げてはならない唯一無二の信念を実現しているなんてカッコいい物語性も宿してしまう。 それに抗って複雑で負荷の高い思考を共有する。 ゲンロンが日々取り組まれているのはその難題だと思う。 ただ直線的な思考が他のベクトルと底の見えない分断を生む一方、この複数のベクトルを内包した文章は読むと直線的な誰かのベクトルとも接続する可能性に満ちていると思う(もちろん複数性が逆に直線信仰の逆鱗に触れるかのせいもあるが…)。 多くの人がこの文章をどうやったら読むのか。難題の焦点はもはやそこにまで絞られているのだし、そこへの実践は既に進み、私は実際そのおかげで読んでいる。 最近自分自身もどうやったら直線的な思考の人と対話できるんだろう?と考える日々であり、どうにか自分の立場からできる難題への解法を探している。

  • おかひじき2025/10/01 12:11

    原発再稼働の話題は、12歳の時に震災を経験し、その影響を受けた当事者としての視点と、今後の日本社会を見据えるメタ的な視点を持つきっかけとなった大きな出来事です。 原発事故を経験した一員として、「再稼働などありえない」という感情がある一方で、今の生活者として、電力不足や電気料金高騰、資源問題への現実的な解決策として再稼働に賛成する自分がいるのも事実です。 この二律背反する考え、特に後者の合理的な判断を下す自分に対し、果たしてそれは許されるべきものなのか、地元を離れた人間として「冷酷な人間」だと周囲に思われないだろうか、といった葛藤を感じています。 おそらく他の問題についてもこれからも悩むのでしょう。しかし、それで良いのだと、東さんの回答から言ってもらえたような気がしました。

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