【 #ゲンロン友の声|037】ぼうっとする時間を持てません

インプット量とそのコントロールについて、質問(相談)させてください。
私は講師業で、執筆もしており、読書(特に世界文学系の小説)が大好きです。海外で結婚し、子育て、事業経営といろいろないい経験を経験しましたが、つねに日々のアウトプット以上のインプットをしてきました。知的好奇心が旺盛と言えば一見いいことのようですが、実はインプット依存症なのではないかと思っています。人と会っていない時、教えていない時、何かを書いていない時は、ずっと本を手にして何かを読んでいるか、耳にイヤホンを入れて何かを聞いていないと、一時間も過ごすことができません。ぼうっとする時間など、持つことができないのです。そんな時間に価値はないと、潜在的に思ってしまっているようです。
SNS、YouTube、ポッドキャストをはじめ、Kindle、Audibleとどこにいても何かの学びにアクセスできてしまう環境は、ある意味、地獄です。
もちろんものすごく苦しんでいるわけではなく、自分で好んでそういう環境にアクセスしているのですが、こんなに日々インプットに埋もれていると、いつかどこかで人としての営みに無理がきてしまうのではないかと思います。
知りたい、学びたいという欲求に支配されるのではなく、うまく調和していくには、また適度にアウトプットしていくには、どのようにしたらいいでしょうか。アドバイスがいただけると嬉しいです。よろしくおねがいします。(海外・40代・女性・非会員)

ご質問、ありがとうございます。
わかります。ぼくも同じ傾向があります。ぼくはアウトドアのキャンプ写真を見る(見るだけ)のが好きなんですが、ああいうのって、絶景の山とか湖とかのほとりで優雅にコーヒーを飲んでいるじゃないですか。ぼくは憧れつつも、絶対にできないと思う。その場にいたら、ばしゃばしゃ写真を撮りまくるか、あるいはGoogleマップで山の名前でも確認し始めると思う。ぼおっと自然に包まれるとか、夢のまた夢です。
というわけで質問者さんの気持ちはすごくよくわかるのですが、他方でそれが問題だろうかという気もします。本やネットに没頭するあまり家族とか友人を無視してしまう、それで問題が起きているというのならともかく、ひとりならばだれに迷惑をかけるわけでもない。実際、質問者さんもべつに苦しんではいないと書かれている。
推測するに、きっとおそらく、質問者さんは、もっと抽象的な不安、つまり、なんとなくインプット依存症は「まとも」じゃないと感じていて、それで質問を寄せられているのではないでしょうか。ぼくはその不安もわかります。いつも本を読んでるとか、ネットを見てるとかいうのは、どこか人間として歪な印象を与えるものです。アウトプットがなく、インプットばかりだとますます歪な感じがします。まさにそういう自己嫌悪を抱く人間を標的として、さきほど記した「絶景の山とか湖とかのほとりで優雅にコーヒーを飲んでいる」ようなリア充写真は生産されている。ぼくもそういうのを見ると、静かに自分を見つめ直す、そんな休日を送りたいとか思わないわけではありません。
でも、それも考えてみればひとつの情報ですよね。「情報に踊らされない、自分で時間を管理している人生こそが本当の人生」という情報。だとすれば、そんな情報にふたたび踊らされ、インプットを強引に抑えたところで本質的な解決になるわけもない。ひとは素直がいちばんです。「知りたい、学びたいという欲求」が強いのであれば、そしてそれに身体がついてくるのであれば、欲求にしたがってなんの問題もないと思います。アウトプットについても同じ。いまアウトプットできないのであれば、それは時機が来ていないということだけです。ぼくだって、いつか原稿にしようと思っていろいろ調べたけど、いっこうに活かすチャンスがない知識はたくさん抱えています。
ひとはどうせ歳をとります。いつか身体がついてこなくなるし、欲求もおさまってしまいます。「うまく調和する」のはそのあとでいい。ぼくたちはインプット依存症。つねに無駄な情報を仕入れている。意味のないツイッターの炎上を追ったり、興味のないウィキペディアを読んだりしている。そういう性分だと思って諦めましょう!!(東浩紀)


東浩紀
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