【 #ゲンロン友の声|035】文章を書くことは自由を確保することなのです

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webゲンロン 2024年11月27日配信

いつもゲンロン誌、ゲンロンchを楽しく拝見しています。

東さんは以前何かのトークで「講演会で一体感を出すには笑いが大事。ぼくは講演開始後15分以内に一回は笑いを入れるようにしている。」というような事をおっしゃっていましたが、文章を書く際には読者を笑わせることを意識されていますでしょうか? 意識される場合、されない場合があればその理由をお聞かせいただければありがたいです。

また、以前明石家さんまさんが「トークで笑いを取るのと、文章で笑いを取るのは全く別の才能。俺はトークでは笑わせられるけど文章で笑わせるのは絶対無理。」とおっしゃっていましたが、東さんはトークと文章の笑いの違いについてどのように考えられていますでしょうか? お聞かせいただければと思います。(東京都・40代・男性・会員)

 質問ありがとうございます。質問者の方がそういうつもりだったかどうかわかりませんが、これはたいへんクリティカルな質問です。というのも、ぼくはまさに(さんまさんには及びもつきませんが)「トークでは笑いが取れるけど、文章では笑いを取れない」、少なくとも自分ではそう思っている書き手だからです。

 ぼくはたぶんトークはかなり上手いほうだと思います。上手い、というか、やわらかい。むずかしい話(哲学の専門用語とか)をやさしく噛み砕いて説明するのは得意だし、年齢や職業が離れたお客さんでもそれなりに笑いを取れる自信があります。でもこれが文章ではできない。ぼくの文章もわかりやすいとは言われるのですが、どうしても真面目になってしまう。

 なぜそうなのか。その説明はなかなか厄介です。ぼくも軽妙なエッセイを書こうと思ったことは何度もあります。週刊誌などによく掲載されているやつです。日常のちょっとした出来事を出発点にして、適度に間抜けな自分をアピールしながら、最後は「あるある」な共感やピリッとした社会批判などに着地するような「いい感じ」の文章。有名人との交友アピールがあったり、ちょっとした暴言があったりするとなおよい。方法論はわかっているのです。でもどうしても書けない。途中まで書きかけても、あるところで「これは違うな」と思って消してしまう。トークでは自由自在にできることが、文章だとできない。ぼくが活動の中心を動画配信に移すようになったのは、要はそのような限界があったからです。ぼくのトークは売れる。おもしろいから。それに比べて、ぼくの文章は真面目すぎてあまり売れないのです。

 しかし、ではぼくが自分の文章を気に入っていないのかといえば、それはぜんぜん違います。むしろ逆です。じつはぼくは自分の文章がとても好きです。美しいとかそういうことではなく、「自分が表現できている」と感じる。

 逆にトークはそうではありません。意外かもしれませんが、ぼくはじつはトークイベントでの自分があまり好きではありません。対談相手やお客さんに媚びすぎていて、「本当の自分」が表現できていないと感じる。そこにいるのは「演技している自分」でしかないと感じるのです。

 このように記すと「トークでは嘘をついているのか」と思われるかもしれません。でもそういうことではありません。少し説明を補えば、ここで演技という言葉で名指しているのは「自分のなかに他人の言葉が入り込んでいる」状態のことです。話し言葉は、目の前に相手がいる状態で発せられる。相手から自分がどう見えるか、相手に自分の言葉がどう聞こえるか、その反応に身を委ねながら発せられる。だからそこにはどうしても他者の言葉が入り込む。イベントであればお客さんの反応も入り込む。「おもしろいトーク」というのは、自分の言葉と相手の言葉と、さらにはお客さんの表情と、それらさまざまな反応が身体的にまざり、どっちがどっちだかわからないような「うねり」が引き起こされたときに生まれるものです。ぼくがむずかしい話をやさしく説明したり、自己ツッコミを駆使して笑いを取ったりすることができるのは、おそらくはそういう間主観的な(と哲学では言ったりするのですが)うねりに身をまかすのが上手いからです。それはそれでひとつの才能です。よいことです。しかしそれは同時に、ここまでの説明でもわかるように、苦しいことでもある。なぜならば、そこではつねに「本当の自分」の言葉が奪われているからです。むろん、「本当の自分」なんて、「本当は」存在しないかもしれません。でもそう感じてしまう。

 いずれにせよ、というわけで、ぼくは、文章を書くときには逆をやりたくなってしまう。リアルタイムのコミュニケーションではつねに相手に合わせ、「演技」をして、笑いを取ったり暴言を吐いたり複雑な問題を過度に単純化したりしているのだから、せめて文章でだけは「本当の自分」でいたいと願ってしまう。いつも他人のことばかり考えておもしろトークをしているのだから、文章くらいは自分自身のために書きたいと思ってしまう。

 おそらくはこれが、ぼくが文章では笑いが取れない、あるいは取ろうとすることができない理由です。自分で自分を笑わせる必要はない。だから笑いを入れない。言い換えれば、ぼくの文章にはお客さんがいない。というよりも、せめて文章を書くときくらいお客さんのことなんて考えたくないと思っている。ぼくにとって、文章を書くことは孤独や自由の獲得と関係している。これはまた(いささか飛躍して聞こえるかもしれませんが)、ぼくが娯楽小説を書けない理由であり、過激な政治的宣言を書けない理由にもなっているように思います。

 ずいぶんと長く書いてしまいました。そしてそのわりに質問に答えていない気もします。きっと質問者の方の期待からは外れた答えでしょう。この返信こそ、まさに自分自身のために書いた文章になっている。

 でもまあ、ぼくはそういうひとなのです。質問を読んだとき、直感的にこういうことを書くべきだと思ったのです。トークのぼくと文章のぼくは、なんというか、人間の方向性が違う。だから笑いへの態度も違う。トークのぼくは笑いのことばかり考えているけれど、文章のぼくは笑いについてほとんど考えていない。どっちが正しいということではない。ただそうなっている。これをもって、答えとさせてください。(東浩紀)

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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