【 #ゲンロン友の声|029 】差別的であるとはなんでしょうか
webゲンロン 2023年5月23日配信
はじめまして。
わたしは鹿児島の生まれで、大学進学を機に上京しました。先日帰省したところ、祖母に「30歳にもなってお嫁に行けなかったら、後妻さんになるしかなかがね」と言われてしまいました。このような発言はおそらく“前時代的なステレオタイプに押し込めようとする差別的な発言”とされるでしょう。わたしもこのような発言にはげんなりしてしまいますが、この頃になって、“差別的である”ということはどういうことなのだろうと考えてしまうようになりました。祖母も時代を真摯に生きた一人であり、それが祖母の価値観をかたちづくっているのだと思うのですが、どうすれば晩年になって“差別主義者”の誹りを受けずにいられるのでしょうか。私自身もいつかその番がまわってきてしまうのでしょうか。(東京都・20代・女性・非会員)
わたしは鹿児島の生まれで、大学進学を機に上京しました。先日帰省したところ、祖母に「30歳にもなってお嫁に行けなかったら、後妻さんになるしかなかがね」と言われてしまいました。このような発言はおそらく“前時代的なステレオタイプに押し込めようとする差別的な発言”とされるでしょう。わたしもこのような発言にはげんなりしてしまいますが、この頃になって、“差別的である”ということはどういうことなのだろうと考えてしまうようになりました。祖母も時代を真摯に生きた一人であり、それが祖母の価値観をかたちづくっているのだと思うのですが、どうすれば晩年になって“差別主義者”の誹りを受けずにいられるのでしょうか。私自身もいつかその番がまわってきてしまうのでしょうか。(東京都・20代・女性・非会員)
期せずして、差別に関する質問が続きました。こちらにもお答えします。
前回の答えに記したことですが、ぼくの考えでは、差別とは社会性の別の表現です。人間は社会のなかで生きています。日々多数の人間に会い、膨大な量の情報に接している。それをうまく捌くためには情報を圧縮しなければならず、そうなってくると必然的に、男性だとこうだとか、外国人だとああだとか、どこの地方の出身だとこうで高齢者だとああだとかいった、粗雑な「カテゴリによる判断」に頼らざるをえなくなる。おばあさまの発言もそのような「カテゴリによる判断」のひとつです。むろん、そこから差別までは一歩です。しかし人間はカテゴリなしには生きていけない。すべての人間、すべての個体を偏見なしに個別認識できるのは神だけです。
つまりは生きるとは差別をするということです。ただ、ある時代に不可避だったり自然だったりと思われる差別が、別の時代には暴力だとみなされるようになる、その基準変更の連鎖があるだけです。だから、質問者の方の「私自身もいつかその番がまわってきてしまうのでしょうか」という問いに対しては、はい、そうです、とお答えするほかない。おばあさまを一方的に責めても意味がない。ぼくもあなたも、いつか「その番」が回ってくる。そもそもぼくは50代ですから、質問者の方より30年ほど早く差別主義者認定されるはずです。というか、SNSではもうそう認定されているような気もします。そもそもこの答えが差別肯定の相対主義者だと批判されそうです。
ではどうするか。「政治的な正しさ」という言葉がありますね。英語だとポリティカル・コレクトネスです。コレクトネスは「正しい」という意味のコレクトという形容詞の名詞形ですが、このコレクトという言葉には、形容詞とはべつに動詞として「訂正する」という意味もあります。じつはぼくは最近こっちの意味のほうが重要なのではないかと考えています。絶対的な「正しさ」なんてない。「訂正する」という運動があるだけだと思うのです。ポリティカル・コレクトネスは、本来は名詞としての正しさを求めるものではなく、ポリティカル・コレクティングという動名詞のかたちで表現されるべき運動だったのではないか。
つまり、ぼくたちはけっして永遠に「正しい」存在などにはなれない。ただ「訂正」ができるだけなのです。そう謙虚に思うことが必要です。だから逆に、いつか「おまえは差別主義者だ」と責められる番が回ってくるかもしれないけど、それを過剰に恐れる必要もまたない。どうせだれもがいつか差別主義者として糾弾される。そのときは堂々と、ああそうか、そういう時代になったのだなと、自分の意見を「訂正」すればいい。どうせそれしかできないのだから。(東浩紀)
前回の答えに記したことですが、ぼくの考えでは、差別とは社会性の別の表現です。人間は社会のなかで生きています。日々多数の人間に会い、膨大な量の情報に接している。それをうまく捌くためには情報を圧縮しなければならず、そうなってくると必然的に、男性だとこうだとか、外国人だとああだとか、どこの地方の出身だとこうで高齢者だとああだとかいった、粗雑な「カテゴリによる判断」に頼らざるをえなくなる。おばあさまの発言もそのような「カテゴリによる判断」のひとつです。むろん、そこから差別までは一歩です。しかし人間はカテゴリなしには生きていけない。すべての人間、すべての個体を偏見なしに個別認識できるのは神だけです。
つまりは生きるとは差別をするということです。ただ、ある時代に不可避だったり自然だったりと思われる差別が、別の時代には暴力だとみなされるようになる、その基準変更の連鎖があるだけです。だから、質問者の方の「私自身もいつかその番がまわってきてしまうのでしょうか」という問いに対しては、はい、そうです、とお答えするほかない。おばあさまを一方的に責めても意味がない。ぼくもあなたも、いつか「その番」が回ってくる。そもそもぼくは50代ですから、質問者の方より30年ほど早く差別主義者認定されるはずです。というか、SNSではもうそう認定されているような気もします。そもそもこの答えが差別肯定の相対主義者だと批判されそうです。
ではどうするか。「政治的な正しさ」という言葉がありますね。英語だとポリティカル・コレクトネスです。コレクトネスは「正しい」という意味のコレクトという形容詞の名詞形ですが、このコレクトという言葉には、形容詞とはべつに動詞として「訂正する」という意味もあります。じつはぼくは最近こっちの意味のほうが重要なのではないかと考えています。絶対的な「正しさ」なんてない。「訂正する」という運動があるだけだと思うのです。ポリティカル・コレクトネスは、本来は名詞としての正しさを求めるものではなく、ポリティカル・コレクティングという動名詞のかたちで表現されるべき運動だったのではないか。
つまり、ぼくたちはけっして永遠に「正しい」存在などにはなれない。ただ「訂正」ができるだけなのです。そう謙虚に思うことが必要です。だから逆に、いつか「おまえは差別主義者だ」と責められる番が回ってくるかもしれないけど、それを過剰に恐れる必要もまたない。どうせだれもがいつか差別主義者として糾弾される。そのときは堂々と、ああそうか、そういう時代になったのだなと、自分の意見を「訂正」すればいい。どうせそれしかできないのだから。(東浩紀)
東浩紀
1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
1 コメント
- ponda2023/06/19 13:17
「正しさ」でさえも「訂正」されるべき対象であるということだと思いますが、「訂正」って機能として「調整」という捉え方をしてもよいのではないかなどと考えておりました。
ゲンロンに寄せられた質問に東浩紀とスタッフがお答えしています。
ご質問は専用フォームよりお寄せください。お待ちしております!