【 #ゲンロン友の声|021 】哲学は平易な言葉で要約できますか
webゲンロン 2021年11月2日配信
「頭がいい人は難しいことをバカにでもわかるように話せる」という話を聞いたとき、難しいことにも色々あって、簡単にできるものとできないものがあるだろうと思ったのですが、難解な言葉が並んだ哲学書はどっちなんだろう、と思いました。東さんは平易な言葉で要約するのがとても上手い印象がありますが、東さんの手にかかれば、ほとんどの哲学書は高校生にも分かる言葉でパラフレーズされてしまうのでしょうか?(奈良県・20代・男性・非会員)
ご質問ありがとうございます。結論からいうと、哲学は前者、つまり「簡単な言葉で表現できるもの」だと思います。ただ、簡単な言葉で表現したら簡単になるかといえば、そう簡単なものでもない。
ぼくはしばしばいうのですが、哲学は観光ガイドに似ています。旅行の前にガイドを読む。どこに行くとなにがあって、それはどんなもので、そこに行くにはこのバスを使えとか地下鉄のほうがいいとか時間がかかるから気をつけろとか、いろいろ書いてある。でも頭に入らない。そのまま現地に行く。いろいろと驚く。困ることもある。「これガイドに書いといてくれよ!」とか思う。そして帰国してガイドブックをふたたび開くと、なんとそこにすべて書いてある。そういう経験をしたことがないでしょうか。
それはまさに哲学の経験そのものです。過去の哲学者はいろいろ言っている。正しいことは危険なことだとか、生きることと死ぬことはつながっているとか、逆説めいたことも言っている。ただ若いころは、それを支える経験がなにもないので、抽象的な言葉遊びにしか聞こえない。現地に行かずガイドだけ読んでもいまひとつ頭に入らないのと同じです。そして年をとり、あるていど人生経験を積み、失敗や後悔を重ねたあとでむかし読んだ哲学書をふたたび開いたりすると、そこにすでに失敗のメカニズムについて書いてあり、「おいおい、さきに言っといてくれよ!」とか思ったりするわけです。少なくとも、いま50歳のぼくはそういう経験をしています。おそらくこれからもし続けるでしょう。
だから、哲学を簡単な言葉で伝えるとは、旅行に行く前の観光客に現地の見どころや危険について簡単な言葉で伝えることに近いわけです。それはできるといえばできる。けれどもできないといえばできない。なぜならば、以上の比較でわかるように、哲学にしても観光ガイドにしても、表現そのものを簡単にしたからといって相手がそれで理解してくれるかどうかは別だからです。つまり重要なのは言葉そのものの質ではないのです。いくら簡単な言葉で伝えても、いっこうに相手が理解してくれないということはありうる。というよりも、人間にとって大事なコミュニケーションというのは、基本的にそういうものだと思います。哲学はまさにその部分に触れる営みです。
ところで、ぼくはここで「哲学」という言葉を広く捉えて答えているのですが、もしかしたら質問者の方は、もっと狭い学術的な哲学の話について聞きたいのかもしれません。大学のなかには専門分野としての哲学なるものがあり、そこには一定の作法があって、これこれの概念について語るためにはだれだれのなんちゃらを読まないとダメで……みたいなことが決まっています。
そのような哲学の言葉は、原理的に簡単にできません。簡単にしてしまったら、学術的な価値、すなわち研究者の存在価値がなくなってしまうからです。ぼくはそのような哲学も好きだし、けっこう読んでいます。おお、このひとはここでこれを引用し、こういう結論を出すのか、というのは、慣れてくるとスポーツのスーパープレイを観戦するかのように楽しめるものです。自分の仕事の役にも立っています。けれども、そのような楽しみは最終的には趣味でしかなく、哲学の本質はそんなところにはないと考えるべきでしょう。(東浩紀)
ぼくはしばしばいうのですが、哲学は観光ガイドに似ています。旅行の前にガイドを読む。どこに行くとなにがあって、それはどんなもので、そこに行くにはこのバスを使えとか地下鉄のほうがいいとか時間がかかるから気をつけろとか、いろいろ書いてある。でも頭に入らない。そのまま現地に行く。いろいろと驚く。困ることもある。「これガイドに書いといてくれよ!」とか思う。そして帰国してガイドブックをふたたび開くと、なんとそこにすべて書いてある。そういう経験をしたことがないでしょうか。
それはまさに哲学の経験そのものです。過去の哲学者はいろいろ言っている。正しいことは危険なことだとか、生きることと死ぬことはつながっているとか、逆説めいたことも言っている。ただ若いころは、それを支える経験がなにもないので、抽象的な言葉遊びにしか聞こえない。現地に行かずガイドだけ読んでもいまひとつ頭に入らないのと同じです。そして年をとり、あるていど人生経験を積み、失敗や後悔を重ねたあとでむかし読んだ哲学書をふたたび開いたりすると、そこにすでに失敗のメカニズムについて書いてあり、「おいおい、さきに言っといてくれよ!」とか思ったりするわけです。少なくとも、いま50歳のぼくはそういう経験をしています。おそらくこれからもし続けるでしょう。
だから、哲学を簡単な言葉で伝えるとは、旅行に行く前の観光客に現地の見どころや危険について簡単な言葉で伝えることに近いわけです。それはできるといえばできる。けれどもできないといえばできない。なぜならば、以上の比較でわかるように、哲学にしても観光ガイドにしても、表現そのものを簡単にしたからといって相手がそれで理解してくれるかどうかは別だからです。つまり重要なのは言葉そのものの質ではないのです。いくら簡単な言葉で伝えても、いっこうに相手が理解してくれないということはありうる。というよりも、人間にとって大事なコミュニケーションというのは、基本的にそういうものだと思います。哲学はまさにその部分に触れる営みです。
ところで、ぼくはここで「哲学」という言葉を広く捉えて答えているのですが、もしかしたら質問者の方は、もっと狭い学術的な哲学の話について聞きたいのかもしれません。大学のなかには専門分野としての哲学なるものがあり、そこには一定の作法があって、これこれの概念について語るためにはだれだれのなんちゃらを読まないとダメで……みたいなことが決まっています。
そのような哲学の言葉は、原理的に簡単にできません。簡単にしてしまったら、学術的な価値、すなわち研究者の存在価値がなくなってしまうからです。ぼくはそのような哲学も好きだし、けっこう読んでいます。おお、このひとはここでこれを引用し、こういう結論を出すのか、というのは、慣れてくるとスポーツのスーパープレイを観戦するかのように楽しめるものです。自分の仕事の役にも立っています。けれども、そのような楽しみは最終的には趣味でしかなく、哲学の本質はそんなところにはないと考えるべきでしょう。(東浩紀)
東浩紀
1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
ゲンロンに寄せられた質問に東浩紀とスタッフがお答えしています。
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