60年代初頭の沖縄の記録(後篇) アメリカから見た沖縄|撮影=中沢道明 文・構成=荒木佑介

ベトナム戦争において、沖縄は後方支援基地の重要な拠点となり、北爆が開始された頃には、数多くの爆撃機が沖縄とベトナムの間を往復した。連日飛来する爆撃機の存在は、自分たちもベトナム戦争の加担者であるという思いを沖縄住民に抱かせ、おりしも復帰運動が活発化するなか、基地の全面撤去を求める流れが生まれるきっかけにもなった。沖縄の高校で使う『高等学校 琉球・沖縄史』(東洋企画、1997年版)という教科書では、ベトナム戦争が多くの写真とともに取り上げられ、当時の沖縄が東京より近い場所でベトナム戦争をとらえていたことがわかる。
日本は今年、終戦70周年を迎えたが、ベトナムは今年、終戦40周年になる。時間の流れを重ねる無理を承知で言うと、現在のベトナムは1985年の日本に相当する。昨年、ベトナムを観光した時、現地のガイドから聞いて驚いたのだが、ベトナムで戦争があったことを知らない若いベトナム人が今は多いらしい。驚いたと言ったが、知らなくても不思議ではないとも思い、ベトナムでは戦争をどのように伝えているのかが気になった。ガイドに質問したところ、生まれる前の話だからわからないことの方が多いと言われたが、この答えが現地の状況を象徴しているように思えた。
ベトナム観光では、ホーチミン市内にある戦争証跡博物館や、ベトコンが地下に張り巡らしたクチトンネルを訪れた。そこには、祖父が取材した地を一度は訪れてみたいという思いもあった。
新聞記者だった祖父、中沢道明は、常駐特派員として1961年から63年までは沖縄を取材し、それから2年後の1965年から66年までは南ベトナムを取材している。祖父は2007年に亡くなり、遺品の中からは、取材で撮影した写真や映像等が多数見つかった。南ベトナムの記録は沖縄についで多く、様々な資料とともに見つかり、中には、裸のままのフィルムが封筒内で乱雑にひしめいているものもあった。東京へ送ったぶんのフィルムは切り取られ、残されたものは汚れがひどく、当時の伝達手段や、現地の状況がフィルムの状態からも伝わってくる。




祖父が沖縄に赴任した4日後の琉球新報では、「沖縄から特殊部隊 米、南ベトナムへ派遣」(1961年5月15日)と、ケネディ大統領の決定を一面で報じており、共産圏を目の前にした最前線としての沖縄(在沖米軍)が動いた頃になる。キューバ危機が1962年といえば、時代背景がよりわかるかもしれない。冷戦が終結してから20年以上たった今となっては、この時代の出来事は過去の遺物のように見える。ただ、当時の沖縄が米占領下であったことや、また、ベトナム戦争の後方支援基地として活発化し始めたことからも、アメリカが沖縄に対してどのような認識を持っているのか、今よりもはっきりと知ることができる。
「軍博物館」というメモとともに出てきたフィルムがある。米軍基地内の戦争博物館を撮影したものであることがわかったが、この博物館がどの基地にあるかまでは今回調べることができなかった。現在、浦添のキャンプキンザーに戦争博物館があるようだが、そこは1966年に沖縄に赴任した一兵士の個人コレクションを展示したもので、「軍博物館」とは年代も展示物の内容も異なる。
「軍博物館」内部には、沖縄戦を解説するためにつくられた大きな沖縄の立体模型がある。豆電球でアメリカ軍と日本軍の配置が表示され、効果音とともに戦況の推移を解説するナレーションが流れる。今でも博物館でよく見る形態の展示物だ。
基地の中に、戦争博物館と俗称されているアメリカ陸軍の博物館がある。沖縄戦当時の写真や、旧日本軍の武器などが飾られている。この博物館の呼びものは、広間の中央にある大きな沖縄の立体模型である。沖縄戦生き残りの下士官であるここの館長が、この模型を操作してくれる。
[中略]
「アメリカ軍の敵は日本軍ばかりではなかった。豪雨とぬかるみもまたアメリカ軍の行動を阻んだ…」。
などというアメリカ版「土と兵隊」みたいな説明も入り、どしゃ降りの豪雨の音まで聞かせてくれる。最後には何と「海征かば」のメロディが日本軍全滅の説明の背景音に入り、それを追って「星条旗よ永遠なれ」がひびいてくる。
(中沢道明「沖縄とアメリカの距離」『季刊 南と北』第26号)
これも記録である。そしてこの記録は、アメリカ人にとっての沖縄が「アメリカ人の血であがなった島」であることを伝えている。「血であがなった島」という思いは、アメリカ本国からもっとも遠い極東地域であるからこそだろう。かつての日本人は満州に同じものを見ていた。日本の生命線としての満州がその後どうなったかは言うまでもないが、沖縄をかつての満州として見ることで、アメリカから見た沖縄が日本人の目にも見えてくるのではないだろうか。いずれにせよ、沖縄が沖縄住民にとって至近距離の本国そのものであることに変わりはない。




かつてアメリカ人と沖縄人の間で行われた討論がある。アメリカ人が「アメリカが来るまで沖縄には文化がなかった」と言い、それに対して沖縄人が「アメリカ人は物質的だ」と反論する。自動車を文化とするかしないかで、両者の認識は大きくすれちがうことになる。
事実はどちらもまちがいである。自動車はアメリカ人のいうとおり、文化(カルチュア)なのである。なぜなら自動車の価値はそれに使用された鉄の物質的な量に比例するのではなく、物質である鉄を、人間の知慧で、いわば耕し(カルティヴェイト)便利な工作物に仕立てあげた、その有用性に比例しているからだ。
しかし、舗装されない道を自動車なしに歩いていたとしても、羽地朝秀は沖縄史上偉大な政治家であり、霊御殿(玉陵)や守礼門を設計した建築家は偉大な芸術家であったのだ。
(中沢道明「沖縄とアメリカの距離」『季刊 南と北』第26号)
自動車に限らず、高層ビルや高速道路もアメリカ人にとっては文化そのものだ。今でこそ、どちらの主張もわかるのだが、討論から50年たった今、実情に大きな変化があったわけではない。むしろ、アメリカの影響をゆるやかに受け続けてきた本土の方が、この50年で起きた変化は沖縄より大きいだろう。ただ、沖縄と本土の間で生じている温度差は、両者に起きた変化の大小ではなく、変化に対する本土の無自覚さによるところが大きい。
沖縄の基地問題を思うと、色々な想像をめぐらしてしまう。もしもアメリカが来る前に農業以外の産業が発展していたら。もしも中国が共産化していなかったら。もしも沖縄が無人島だったら。かつて琉球が中継貿易で栄えていたことや、中国がそのビジネス・パートナーであったことや、人類が定住してなかった頃の話を想像する方が私は好きなのだが。基地問題を考える上で、かつて日本の状況を左右した満州を想像することは有効かもしれない。必要なのは「アメリカから見た沖縄」ではなく、「日本から見た満州」を、そこに重ねて見ることではないだろうか。


沖縄もベトナムも、戦争がその土地の歴史を知るきっかけにもなっているのだが、それは同時に戦争以外の歴史が取り上げられる機会が相対的に少ないということでもある。歴史の袋小路のような状態は、沖縄の場合、戦争で多くの記録が失われてしまい、テーマ研究が困難であることとつながっている。それだけ前の戦争が通史に大きな影響をあたえているということだが、歴史の間口が狭くなっているという思いが、石川さんにはあったのかもしれない。
写真にしてもそうである。写真は過去の出来事を知るきっかけになるが、そこから見える情報はごく一部で、わかることは限られている。それに、多種多様な記録物の中で、写真はその中のひとつにすぎない。ここで紹介した写真が、記事を書くための資料として撮影されたということが、そのことをあらわしている。
あくまで一個人の記者が撮影した写真だが、幸いにもメタデータとなる記事も存在しているため、あらためてここによみがえらせることができた。ただ、それだけだとやはり過去の遺物になってしまうので、メタデータを新たに抽出し、現代につなげていく必要があるだろう。記録の意義はおそらくそこから生まれる。記録物で大切なのは、あくまで記録された時代の方だが、現代とのつながりを探し続けるのも大切だと考えている。
参考文献
新城俊明『高等学校 琉球・沖縄史』東洋企画、1997年
中沢道明『他人の気付かないことを考える本』日新報道出版部、1975年
『季刊 南と北』第26号、南方同胞援護会、1963年8月
琉球新報、1961年5月


中沢道明

荒木佑介