利賀村訪問記2015|上田洋子
初出:2015年9月11日刊行『ゲンロン観光通信#4』
今年も夏の利賀村を訪れた。演出家鈴木忠志氏が主宰する劇団SCOT(Suzuki Company of Toga)は今年が創立50年。そして富山県利賀村に本拠地を移して40年になるという。40年、50年という数字は厚みのあるものだ。多くのひとにとって、この数字は一生の半分、あるいはそれを上回るものだろう。スズキ・メソッドと呼ばれる訓練を経た俳優たちの強靭な身体と、弓から射られた矢のように飛んでくるこよ場は、深い山あいの演劇の秘境、利賀芸術公園の舞台空間で体験するのが一番しっくりくる。だから、夏のフェスティバルにはできるだけ足を運ぶようにしている[★1]。2015年3月の北陸新幹線の長野-金沢間開通により、利賀はぐっと近くなった。去年までは新幹線で越後湯沢に出て、それから特急はくたかに乗り換え、富山から高山本線に乗り換えて越中八尾駅へ、そしてチャーターバスに乗るという長い道のりだった。東京から越中八尾まで、列車を待つ時間を入れると4時間はかかっていたと思う。
今年は富山まで2時間で到着した。その後はレンタカーだ。はじめて利賀を訪れる東浩紀とともに、ゲンロンの取材として来ているのだ。この日は必見の花火芝居『世界の果てからこんにちは』(通称『果てこん』)を見る予定だった。芝居は20:00からと少し余裕があるため、途中、世界遺産に登録されている五箇山の合掌造り集落に立ち寄った。世界遺産ということで白川郷のようなものを想像していたのだが、菅沼と相倉の集落は規模が小さく、この地域の人々の暮らしを実感させるものだった。
菅沼の合掌造りは9棟、相倉は23棟だ。家の大きさは、白川郷のものや、利賀芸術公園に移築されているものより小さいように感じられた。お土産店や食事処、小規模な博物館はあるが、「観光地らしさ」はあまりない。「五箇山」の「山」はもともと「谷間(ヤマ)」だった。豪雪地帯の山あいのこれらの村では、昔は稲作が困難で、麦や大豆、そばなどの雑穀を作っていたという。素朴な佇まいはいまも引き継がれている。なお、利賀村も五箇山地域である。
利賀に入る頃には日も暮れかけていた。
夜は花火芝居、つまり、野外劇場での観劇だというのに、雨がぽつぽつと降ってきて、霧もかかっている。風景は村に入ってもひたすら緑で、民家の数は少ない。利賀村の想像を絶する秘境ぶりに、東はかなり驚いている。
わたしはもう10年以上前からここに来ている。かつては車がすれ違えない一車線の山道を、峠を越えて、またつぎの越えてやっとたどり着いたものだった。新幹線が通っただけでなく、ここ数年で道路もよくなった。だが、峠をひとつ、ふたつと越える感覚は、相変わらず「まんが日本昔ばなし」の世界のようだ。
さて、宿舎である「天竺温泉の郷」に荷物を置き、夕食を食べようとしたところ、レストランは予約制であることが判明した。かといって、五箇山から利賀に来る途中には、食べることができる場所はみあたらなかった。フェスティバル中は「グルメ館」という施設が屋台村になっているが、宿舎からグルメ館までは相当な距離がある。結局夕食はあきらめ、徒歩で芸術公園へ向かった。あらためて Google Mapで調べてみると、徒歩18分とある。じつはピストンバスが出ているのに気づかなかったのだが、歩いてみると村の空気が浸みてきて気持ちがいい。雨はときどきぽつっとくるものの、なんとかなりそうだ。
利賀芸術公園は百瀬川に面した風光明媚な場所にあり、合掌造りを改築した利賀山房と新利賀山房、背景に池を配した野外劇場、スタジオなど8つの劇場と、本部や食堂、宿舎などからなる。もともとは合掌造りの民家5棟を移築した「利賀合掌文化村」だったのを、鈴木忠志氏の早稲田小劇場(SCOTの前身)が1976年、そのうちの1棟を5年契約で借りて、稽古場兼劇場にした。いまの利賀山房の下にある小さな合掌造りが、この旧利賀山房にあたる。旧利賀山房のオープニングには、東京を含め各地から600人が集まったという。
今年は富山まで2時間で到着した。その後はレンタカーだ。はじめて利賀を訪れる東浩紀とともに、ゲンロンの取材として来ているのだ。この日は必見の花火芝居『世界の果てからこんにちは』(通称『果てこん』)を見る予定だった。芝居は20:00からと少し余裕があるため、途中、世界遺産に登録されている五箇山の合掌造り集落に立ち寄った。世界遺産ということで白川郷のようなものを想像していたのだが、菅沼と相倉の集落は規模が小さく、この地域の人々の暮らしを実感させるものだった。
菅沼の合掌造りは9棟、相倉は23棟だ。家の大きさは、白川郷のものや、利賀芸術公園に移築されているものより小さいように感じられた。お土産店や食事処、小規模な博物館はあるが、「観光地らしさ」はあまりない。「五箇山」の「山」はもともと「谷間(ヤマ)」だった。豪雪地帯の山あいのこれらの村では、昔は稲作が困難で、麦や大豆、そばなどの雑穀を作っていたという。素朴な佇まいはいまも引き継がれている。なお、利賀村も五箇山地域である。
利賀に入る頃には日も暮れかけていた。
夜は花火芝居、つまり、野外劇場での観劇だというのに、雨がぽつぽつと降ってきて、霧もかかっている。風景は村に入ってもひたすら緑で、民家の数は少ない。利賀村の想像を絶する秘境ぶりに、東はかなり驚いている。
わたしはもう10年以上前からここに来ている。かつては車がすれ違えない一車線の山道を、峠を越えて、またつぎの越えてやっとたどり着いたものだった。新幹線が通っただけでなく、ここ数年で道路もよくなった。だが、峠をひとつ、ふたつと越える感覚は、相変わらず「まんが日本昔ばなし」の世界のようだ。
さて、宿舎である「天竺温泉の郷」に荷物を置き、夕食を食べようとしたところ、レストランは予約制であることが判明した。かといって、五箇山から利賀に来る途中には、食べることができる場所はみあたらなかった。フェスティバル中は「グルメ館」という施設が屋台村になっているが、宿舎からグルメ館までは相当な距離がある。結局夕食はあきらめ、徒歩で芸術公園へ向かった。あらためて Google Mapで調べてみると、徒歩18分とある。じつはピストンバスが出ているのに気づかなかったのだが、歩いてみると村の空気が浸みてきて気持ちがいい。雨はときどきぽつっとくるものの、なんとかなりそうだ。
利賀芸術公園は百瀬川に面した風光明媚な場所にあり、合掌造りを改築した利賀山房と新利賀山房、背景に池を配した野外劇場、スタジオなど8つの劇場と、本部や食堂、宿舎などからなる。もともとは合掌造りの民家5棟を移築した「利賀合掌文化村」だったのを、鈴木忠志氏の早稲田小劇場(SCOTの前身)が1976年、そのうちの1棟を5年契約で借りて、稽古場兼劇場にした。いまの利賀山房の下にある小さな合掌造りが、この旧利賀山房にあたる。旧利賀山房のオープニングには、東京を含め各地から600人が集まったという。
上田洋子
1974年生まれ。ロシア文学者、ロシア語通訳・翻訳者。博士(文学)。ゲンロン代表。早稲田大学非常勤講師。2023年度日本ロシア文学会大賞受賞。著書に『ロシア宇宙主義』(共訳、河出書房新社、2024)、『プッシー・ライオットの革命』(監修、DU BOOKS、2018)、『歌舞伎と革命ロシア』(編著、森話社、2017)、『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』(調査・監修、ゲンロン、2013)、『瞳孔の中 クルジジャノフスキイ作品集』(共訳、松籟社、2012)など。展示企画に「メイエルホリドの演劇と生涯:没後70年・復権55年」展(早稲田大学演劇博物館、2010)など。