福島第一原発観光地化計画の哲学(5) 震災後、神を描きたくなった(後篇)|梅沢和木+東浩紀
初出:2014年11月6日刊行『ゲンロン観光地化メルマガ #24』
前篇はこちら原発とピラミッド
東浩紀 2012年に観光地化計画に参加していただいて以降、1年をかけて取材やワークショップを重ねました。どのような経験になりましたか。
梅沢和木 自分の生きかたが変わるくらいの成長をした、と思っています。同時に負荷も大きかった。南相馬ワークショップでのプレゼン[★1]ひとつを取ってみても、いままでにないくらい緊張しました。アートにほとんど興味のない福島のひとたちに自分のプランを提案するということは、すごく重要な経験になりました。
プレゼンには抽象化が必要です。たんに「こういうものをつくりたい」と言っても納得してもらえない。そのために地震の歴史を調べたり、地震に関した創作物を調べたり、そこから得た知見を組み入れて自分の作品を紹介したり……と準備を進めていった。これもまた、ほとんどはじめての作業でした。
自分に興味を持ってくれるひとに対して話す機会はたくさんあります。しかし、自分に興味のないひと、それどころか怒ってもおかしくないようなひとたちに対して話すということはなかった。それをやってはじめて、枠から出ることができる。
本来、作家はそのくらいの負荷は継続的に自分にかけていくべきなのでしょう。観光地化計画では、基本的にぼくが企画を立てたり、お金を出したりすることはありませんでした。しかし今後、ぼくが海外で作品を制作・発表をするような機会があれば[★2]、いま言ったような経験を踏まえたうえでプレゼンをしなければいけないと思っています。
震災と自分の作品を結びつけて制作し、その意図を話す。やっているひとは多いように見えて、本当に震災の渦中にあるひとたちに向けて問うに足るだけの強度を備えたものはなかなかない。そういうことを学んだという点でも、かけがえのない経験でした。実際に南相馬では、話を熱心に聞いてくださるかたも、個人的に好意を示してくれるかたもいました。
東 富岡町や福島第一・第二原発への取材では、いまだ人々が帰ることのできない被災地や、防護服を着た作業員が歩く原発構内を見ることができました。
梅沢 ほかではできない、とても刺激的な時間でした。原発というのはとんでもない力が注がれてできているものでその構造物は圧倒的で、感動的ですらありました。東電の方のガイドも丁寧で行き届いており、とても異常でかつ豊かな経験になりました。福一原発は世界でも有数の負の遺産であり、まさにダークツーリズムの最先端でした。
ただ、それを自分の糧として創作できているかというと、なかなかすぐにはできない。取材についてはひとに話をしたり、レポートのような文章を書いたりしているのですが[★3]、あれだけ広大なものをどう作品に落としこむのかについては、まだ結論が見えていません。
話が逸れるようですが、原発を見て連想したのはピラミッドなんです。原発もピラミッドも巨大な人工物で、建造にあたってたいへんなエネルギーが投入されている。ピラミッドの建設工事中には大勢のひとが亡くなっていますよね。古代エジプトでは、いくらひとが死んでも工事は続いた。いま考えると狂気の沙汰です。現代は倫理的な考え方が大きい世界なので、相当の事故が起き、ひとが亡くなったり健康を害したりすれば、当然工事も停める。
3.11後に原発が停められているのも、現代的な感覚からはごく当たり前に見えますが、少し時代が違っていれば、「それでも進めるべきだ」という考えが支配的でもおかしくない。ある意味でいまわれわれがいるのは、とても特殊な世界線なのかもしれない。原発の視察では、たいへんな労力と資金を投入してつくったとんでもなくすごいものを停めるという、圧倒的な「停止」を見ました。それはある観点からすると不自然で、不条理にすら感じられる。
美術がしたこと、すべきだったこと
東 3.11が起きて以降、多くの美術家がそれぞれの仕方で応答し、作品をつくっています。こういった動きについては、どうご覧になっていますか。
梅沢 ぼくも美術家である以上、ほかの作家の作品を完全に評価することはできない、という点は割り引いていただきたいのですが――あまり共感できるようなものはありませんでした。
Chim↑Pom[★4]や竹内公太さん[★5]などは、当初の行動が早かったこともあって、高く評価されていました。アクティビスト的な行動が評価されやすく、現地での行動が圧倒的なプライオリティを持っていた。当然といえば当然です。でも、作家というのは基本的にひねくれもので、それ以外のことをしたくなる。ぼくはあらためて、絵画的なもので応答したいと思ったんです。
ただ、観光地化計画はアートとして評価されるべき側面もあるはずが、違う世界のことだと思われているふしがあって、アート業界に届いているかというと微妙です。絵画作品だけでなく、観光地化計画ではいくつか文章を書かせてもらいましたが、いままで自分が見知ったことをふんだんに取り込み、自分の仕事ながらどれもよく書けたと思っています。しかしこれも、きちんと読んで、検証し、批判してくれるような美術関係者はまったくいない。それが、彼らが受容するのに慣れている形式になっていないからです。
たとえば、文章を展覧会で展示として経験できるように発表していれば、受け止められ方は違っただろうと思います。しかし、それはあまりにも美術評論を意識しすぎというか……ちょっと違うだろうと。難しいですね。
東 梅沢さん自身、この3年間の経験は、まだ十分に作品として展開できてないという感覚でしょうか。
梅沢 そうですね……。海外から見ると、「震災」と「キャラクター」は、日本に対するイメージの大部分を占めるのではないかと思うんです。ぼくはその両方を扱ったうえで、そこに宗教的な要素、神的なものを組み合わせたい。無宗教の国と言われる日本で震災が起きたとき、ひとはどういう反応をするのか。みんな宗教は信じていないと言いながら、祈ったり、すがったりしている。やはり神は必要だったのではないか。海外のひとに聞かれたら、「なんだかんだで神にすがっていたよ」と答えると思うんです。
芸術家として活動している以上、ぼくはその「神」をつくっていくしかないと思うんです。オタクの自分からすると、それはキャラクターであってほしい。それを作品として結晶化することができれば、成功といっていいと思います。震災を受けて日本の作家が作り、祈りの対象になれるような作品ですね。いまはそういうものを目指して作品を作っています。神みたいなパーツを集めて、神をつくりあげる。
東 キャラクターを使った宗教画ですね。
インタビューの冒頭で、作品の軸足がバーチャルからリアルに移行したという話がありました。その一方でキャラクターに対する関心も手放していない。このこだわりはどういう意味を持つのでしょうか。
梅沢 「なぜキャラクターを使うのか」、「なぜキャラクターは女の子ばかりなのか」という質問に対しては、十分な答えを用意できていません。いまのところは「すごく好きだから」とか、「小さい頃から見ていたから」としか言えない。自分にとってはキャラクターにこそリアリティがある。それを造形的な魅力だと言ったり、キャラクターの生成される特殊な環境やシステムに意味があるのだ、と言うことはできます。しかしそれはアーティストの答えとしては本当ではないと思うんです。
ぼくは「キメこな」を使ってたいへんな批判を受けました。ふつうであればキャラクター的な表現からは撤退するのが安全で、合理的です。しかし、そうするつもりはまったくなかった。たとえば、いま放送されているアニメはどれも本気で面白いと思えないし、過去のリメイクばかりでくだらないのだけれど、そこにキャラクターがいる限り、だらだらと見てしまう。どんなに駄作であっても、そこに浸っていられる。やはり二次元は神なのだ、としか言いようがない。これはぼくの性質、性癖としか言えないものかもしれません。三次元のアイドルにハマれるとは思えませんし……。
もっと明確に言語化したいと思い続けているのですが、なかなか適切な言葉が見つかっていません。
東 震災後の世界でキャラクター表現にこだわる理由はまだ見つかっていない。
梅沢 どうしても抽象的な表現になりますが、「神的なものを求めているから」というのが暫定的な答えですね。コンセプト面や海外進出の両方の点で足がかりと言えるような段階かもしれませんが、2014年10月の現在ニューヨークで行われている自分の個展、「Empty god CORE」ではここまで述べたキャラクターと神と祈りの関係を作品に込めて、いままでの自分の制作を総合的に総括して提示したつもりです。
東 最後の質問です。原子力についてどうお考えですか。
Chim↑Pom[★4]や竹内公太さん[★5]などは、当初の行動が早かったこともあって、高く評価されていました。アクティビスト的な行動が評価されやすく、現地での行動が圧倒的なプライオリティを持っていた。当然といえば当然です。でも、作家というのは基本的にひねくれもので、それ以外のことをしたくなる。ぼくはあらためて、絵画的なもので応答したいと思ったんです。
ただ、観光地化計画はアートとして評価されるべき側面もあるはずが、違う世界のことだと思われているふしがあって、アート業界に届いているかというと微妙です。絵画作品だけでなく、観光地化計画ではいくつか文章を書かせてもらいましたが、いままで自分が見知ったことをふんだんに取り込み、自分の仕事ながらどれもよく書けたと思っています。しかしこれも、きちんと読んで、検証し、批判してくれるような美術関係者はまったくいない。それが、彼らが受容するのに慣れている形式になっていないからです。
たとえば、文章を展覧会で展示として経験できるように発表していれば、受け止められ方は違っただろうと思います。しかし、それはあまりにも美術評論を意識しすぎというか……ちょっと違うだろうと。難しいですね。
神を描く
東 梅沢さん自身、この3年間の経験は、まだ十分に作品として展開できてないという感覚でしょうか。
梅沢 そうですね……。海外から見ると、「震災」と「キャラクター」は、日本に対するイメージの大部分を占めるのではないかと思うんです。ぼくはその両方を扱ったうえで、そこに宗教的な要素、神的なものを組み合わせたい。無宗教の国と言われる日本で震災が起きたとき、ひとはどういう反応をするのか。みんな宗教は信じていないと言いながら、祈ったり、すがったりしている。やはり神は必要だったのではないか。海外のひとに聞かれたら、「なんだかんだで神にすがっていたよ」と答えると思うんです。
芸術家として活動している以上、ぼくはその「神」をつくっていくしかないと思うんです。オタクの自分からすると、それはキャラクターであってほしい。それを作品として結晶化することができれば、成功といっていいと思います。震災を受けて日本の作家が作り、祈りの対象になれるような作品ですね。いまはそういうものを目指して作品を作っています。神みたいなパーツを集めて、神をつくりあげる。
東 キャラクターを使った宗教画ですね。
インタビューの冒頭で、作品の軸足がバーチャルからリアルに移行したという話がありました。その一方でキャラクターに対する関心も手放していない。このこだわりはどういう意味を持つのでしょうか。
梅沢 「なぜキャラクターを使うのか」、「なぜキャラクターは女の子ばかりなのか」という質問に対しては、十分な答えを用意できていません。いまのところは「すごく好きだから」とか、「小さい頃から見ていたから」としか言えない。自分にとってはキャラクターにこそリアリティがある。それを造形的な魅力だと言ったり、キャラクターの生成される特殊な環境やシステムに意味があるのだ、と言うことはできます。しかしそれはアーティストの答えとしては本当ではないと思うんです。
ぼくは「キメこな」を使ってたいへんな批判を受けました。ふつうであればキャラクター的な表現からは撤退するのが安全で、合理的です。しかし、そうするつもりはまったくなかった。たとえば、いま放送されているアニメはどれも本気で面白いと思えないし、過去のリメイクばかりでくだらないのだけれど、そこにキャラクターがいる限り、だらだらと見てしまう。どんなに駄作であっても、そこに浸っていられる。やはり二次元は神なのだ、としか言いようがない。これはぼくの性質、性癖としか言えないものかもしれません。三次元のアイドルにハマれるとは思えませんし……。
もっと明確に言語化したいと思い続けているのですが、なかなか適切な言葉が見つかっていません。
東 震災後の世界でキャラクター表現にこだわる理由はまだ見つかっていない。
梅沢 どうしても抽象的な表現になりますが、「神的なものを求めているから」というのが暫定的な答えですね。コンセプト面や海外進出の両方の点で足がかりと言えるような段階かもしれませんが、2014年10月の現在ニューヨークで行われている自分の個展、「Empty god CORE」ではここまで述べたキャラクターと神と祈りの関係を作品に込めて、いままでの自分の制作を総合的に総括して提示したつもりです。
原子力とキャラクター
東 最後の質問です。原子力についてどうお考えですか。
梅沢 原子力というのはすごい力ですよね。無限の力に近い。いろいろな価値判断を抜きにすれば、人間が本能的に魅了されてしまうような対象だと思います。
ぼくはずっと死を恐れていて、自分の意識がなくなることがすごく怖いと思っています。だからこそ、死なない存在であるキャラクターに憧れているというところもある。原子力には、それに近いヤバさがあると思うんです。もちろん、だからこそその代償も大きい。いまはそれが穢れとして現われ、行使することが死につながってすらいる。しかし、そこに抗いがたい力が宿っていることも、また事実です。
東 原子力へのあこがれとキャラクターへの視線が「死」への視線という点で類似しているというのは、じつに興味深い観点ですね。
梅沢 考えてみると、鉄腕アトムも原子力で動いていますからね。切っても切れない関係性があるのかもしれません。
東 原子力に憧れがあるという一方で、原発で事故が起きた以上、停止するのが現代社会の倫理であるともおっしゃった。現実にはいま、原発再稼働や新設に向けた動きは加速しつつあります。
梅沢 事故を起こしてしまった以上、日本では脱原発をするしかないと思います。ただ、人類全体が原子力を放棄できるとは思いません。ぼく個人としては、素朴な趣味のレベルとしてロハスなライフスタイルは嫌いではないので、原発などなくして自然の恵みをいかした暮らしをする、という生き方ができればいいな、とは思いますが……。
美術家のなかには、反原発デモへの参加など、政治的な動きをするひとも少なくありません。そういった動きについては。
梅沢 かなり冷ややかに見ている、というのが正直なところです。ただ、これはどこでも言ったことがないのですが、じつは一度官邸前デモに参加したことがあるんです。
東 いつ頃ですか?
梅沢 かなり前ですね。ただ、その後参加していないことからもわかるように、かなり微妙な経験でした。騒がしいし、本来の目的とは違う欲望に駆動されているように感じました。
東 デモの目的に共感して参加したのですか。
梅沢 共感とはかなり違います。ただ、震災や原発事故について考えるうえで、一度は自分で行っておかないと発言権がないのではないかと思ったんです。ただ、あまり大きな声でも言いたくなくて黙っています。というのも、多くのアーティストは安易に反体制的なイデオロギーに傾きがちで、すぐに安倍はダメだ、戦争反対、デモをすべきだと言う。ぼくだって戦争はいやですが、アウトプットの仕方がどうしても趣味的なレベルで共感できない。なので距離を取りたい。こういう考えのアーティストは目立ってないだけでけっこう存在していると思います。
語弊があることを承知で言うと、これは情弱(情報弱者)と情強(情報強者)の違いが表れているのではないかと見ています。ちょっと放射能が危険だという情報を見ると、あわてて拡散してしまうようなひとがたくさんいます。ちょっと検索する力があれば、そういう情報だけではなく対立した見方があることはわかるはずなのですが、多くのアーティストは検索能力がない。とくに上の世代の多くのアーティストが、イデオロギー的に傾いている傾向がある。「放射脳」でも「御用学者」でもない中庸の存在が目立たず極端な意見が目立つネットでは、ちゃんと調べて見ないとすぐに踊らされてしまいます。
自分を情強と言うつもりはありませんが、ネットの検索結果と現実の情報を総合して考える当たり前のバランス感覚は大事にしていきたいですね。自分の制作もそのプロセスに沿っています。
東 神への祈りのあり方、絵画の特権性、原子力とキャラクターと死など、考えを深めていきたい多くの示唆をいただきました。本日はありがとうございました。
2014年8月13日 東京 ゲンロンカフェ
構成・撮影=編集部
★1 2012年10月28日にはゲンロン主催のもと、南相馬市で地元住民や復興関係者を交えたワークショップが行われ、研究会委員はそれぞれの観光地化プランをプレゼンし、提案についての討議がなされた。詳細は東浩紀+ゲンロン編集部「福島第一原発観光地化計画、始動!」(『g2』vol.12、講談社)を参照のこと。
★2 その後2014年10月9日から11月15日にかけて、初のニューヨークでの個展「Empty god CORE」が開催された。URL=http://www.b2oa.com/kazuki-umezawa/
★3 『ゲンロン通信』#9+10に寄稿したルポルタージュ「リプレイされる福島」で、取材の行程や考察をスケッチとともに詳しく記している。
★4 2005年に結成された6人組のアート集団。原発事故後には防護服姿で事故現場近隣に入り、日章旗と放射線マークをアレンジした図案の旗を振る様子を撮影して注目を集めた。著書に『芸術実行犯』(朝日出版社)など。
★5 1982年生まれの現代美術家。3.11後に福島第一原発で作業員として勤務し、2011年8月28日には「ふくいちライブカメラ」の前に現れてカメラに向かい指をさす「指差し作業員」のパフォーマンスを行い、大きな話題を呼んだ。
ぼくはずっと死を恐れていて、自分の意識がなくなることがすごく怖いと思っています。だからこそ、死なない存在であるキャラクターに憧れているというところもある。原子力には、それに近いヤバさがあると思うんです。もちろん、だからこそその代償も大きい。いまはそれが穢れとして現われ、行使することが死につながってすらいる。しかし、そこに抗いがたい力が宿っていることも、また事実です。
東 原子力へのあこがれとキャラクターへの視線が「死」への視線という点で類似しているというのは、じつに興味深い観点ですね。
梅沢 考えてみると、鉄腕アトムも原子力で動いていますからね。切っても切れない関係性があるのかもしれません。
東 原子力に憧れがあるという一方で、原発で事故が起きた以上、停止するのが現代社会の倫理であるともおっしゃった。現実にはいま、原発再稼働や新設に向けた動きは加速しつつあります。
梅沢 事故を起こしてしまった以上、日本では脱原発をするしかないと思います。ただ、人類全体が原子力を放棄できるとは思いません。ぼく個人としては、素朴な趣味のレベルとしてロハスなライフスタイルは嫌いではないので、原発などなくして自然の恵みをいかした暮らしをする、という生き方ができればいいな、とは思いますが……。
美術家のなかには、反原発デモへの参加など、政治的な動きをするひとも少なくありません。そういった動きについては。
梅沢 かなり冷ややかに見ている、というのが正直なところです。ただ、これはどこでも言ったことがないのですが、じつは一度官邸前デモに参加したことがあるんです。
東 いつ頃ですか?
梅沢 かなり前ですね。ただ、その後参加していないことからもわかるように、かなり微妙な経験でした。騒がしいし、本来の目的とは違う欲望に駆動されているように感じました。
東 デモの目的に共感して参加したのですか。
梅沢 共感とはかなり違います。ただ、震災や原発事故について考えるうえで、一度は自分で行っておかないと発言権がないのではないかと思ったんです。ただ、あまり大きな声でも言いたくなくて黙っています。というのも、多くのアーティストは安易に反体制的なイデオロギーに傾きがちで、すぐに安倍はダメだ、戦争反対、デモをすべきだと言う。ぼくだって戦争はいやですが、アウトプットの仕方がどうしても趣味的なレベルで共感できない。なので距離を取りたい。こういう考えのアーティストは目立ってないだけでけっこう存在していると思います。
語弊があることを承知で言うと、これは情弱(情報弱者)と情強(情報強者)の違いが表れているのではないかと見ています。ちょっと放射能が危険だという情報を見ると、あわてて拡散してしまうようなひとがたくさんいます。ちょっと検索する力があれば、そういう情報だけではなく対立した見方があることはわかるはずなのですが、多くのアーティストは検索能力がない。とくに上の世代の多くのアーティストが、イデオロギー的に傾いている傾向がある。「放射脳」でも「御用学者」でもない中庸の存在が目立たず極端な意見が目立つネットでは、ちゃんと調べて見ないとすぐに踊らされてしまいます。
自分を情強と言うつもりはありませんが、ネットの検索結果と現実の情報を総合して考える当たり前のバランス感覚は大事にしていきたいですね。自分の制作もそのプロセスに沿っています。
東 神への祈りのあり方、絵画の特権性、原子力とキャラクターと死など、考えを深めていきたい多くの示唆をいただきました。本日はありがとうございました。
2014年8月13日 東京 ゲンロンカフェ
構成・撮影=編集部
★1 2012年10月28日にはゲンロン主催のもと、南相馬市で地元住民や復興関係者を交えたワークショップが行われ、研究会委員はそれぞれの観光地化プランをプレゼンし、提案についての討議がなされた。詳細は東浩紀+ゲンロン編集部「福島第一原発観光地化計画、始動!」(『g2』vol.12、講談社)を参照のこと。
★2 その後2014年10月9日から11月15日にかけて、初のニューヨークでの個展「Empty god CORE」が開催された。URL=http://www.b2oa.com/kazuki-umezawa/
★3 『ゲンロン通信』#9+10に寄稿したルポルタージュ「リプレイされる福島」で、取材の行程や考察をスケッチとともに詳しく記している。
★4 2005年に結成された6人組のアート集団。原発事故後には防護服姿で事故現場近隣に入り、日章旗と放射線マークをアレンジした図案の旗を振る様子を撮影して注目を集めた。著書に『芸術実行犯』(朝日出版社)など。
★5 1982年生まれの現代美術家。3.11後に福島第一原発で作業員として勤務し、2011年8月28日には「ふくいちライブカメラ」の前に現れてカメラに向かい指をさす「指差し作業員」のパフォーマンスを行い、大きな話題を呼んだ。
梅沢和木
1985年生まれ。美術家。武蔵野美術大学映像学科卒業。ネット上の画像を集め再構築し、アナログとデジタル、現実と虚構の境目を探る作品を制作し発表している。2013年に「LOVE展:アートにみる愛のかたち―シャガールから草間彌生、初音ミクまで」、2019年に「百年の編み手たち―流動する日本の近現代美術―」などの展示に参加。2010年に個展「エターナルフォース画像コア」、2018年に個展「neo X death」を開催。CASHIおよびカオス*ラウンジに所属。
東浩紀
1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。