相馬野馬追+南相馬市ツーリズムレポート|大脇幸志郎

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初出:2014年8月15日発行『ゲンロン観光地化メルマガ #19』
 南相馬市の伝統行事、「相馬そうま野馬追のまおい」をご存じでしょうか。  年に一度、10万人以上の観衆が押し寄せるこの祭りは、伝説によれば平将門までさかのぼるといい、国の重要無形民俗文化財に指定されています。今年も7月26日から3日間にわたって開催され、大盛況を迎えた野馬追を、運よくゲンロンが取材する機会がありました。この文章は野馬追を中心にした取材小旅行のレポートです。  この取材企画は、ゲンロンカフェで7月5日から8月9日まで開催した原町無線塔展からつながって生まれました。この展示ではかつて南相馬市原町にあった原町無線塔に注目し、関東大震災に際していちはやく情報を海外に伝え、重要な役割を果たした原町無線塔にまつわる資料を集めました。このとき情報提供など多大なご協力をいただいたのが、あとで野馬追取材のきっかけをくださった二上英朗さんです。二上さんは合併前の原町市で生まれ、南相馬市の郷土史を在野で長年研究されてきた方で、『原町無線塔物語』など多数の著書があります。無線塔展開催にあたっては、オープニングとして7月5日にゲンロンカフェのイベントにもご登壇いただきました。  展示開始後のある日、二上さんからFacebookメッセージで、野馬追のお誘いが届きました。ほかでもない二上さんにご案内いただけるなら、と二つ返事で同行をお願いし、取材実現が決まりました。  取材に行った大脇は、震災後浜通りに入るのはこれが初めてです。二上さんは不案内な大脇を先導して、野馬追についての詳しい解説とともに、近隣の見どころを教えてくださいました。おかげさまで南相馬市の歴史と文化について学ぶところの多い取材になりましたので、野馬追の様子に加えて、二上さんお勧めの場所をいくつか紹介します。

1日目


 出発は26日早朝。東北新幹線を福島で降り、原町行きのバスに乗り換えます。バスの窓からは、途中通過する飯舘村を含め、そこかしこに除染作業中の立札やのぼり旗、除去された土を詰めた黒い袋などが見えます。
写真1 常磐線が寸断されているため、南相馬市へのアクセスはバスが頼り。車体には野馬追をイメージした騎馬武者のシルエットが。
   バスの車体にも描かれているとおり、野馬追は南相馬市のアイデンティティの重要な部分をなしています。ここで野馬追とは何かを簡単にご説明しましょう。野馬追は毎年7月末、北は相馬市から南は双葉郡までにまたがる広い地域が一体となって開催する行事です。成立当初は、その名のとおり野原に裸馬を放ち、小高神社★1の境内に追い込んで素手で捕らえるというものでした。この神事はいまでも「野馬懸のまがけ」と呼ばれてその形を残し、一連の行事の最後に行われます。現在の行事の多くは明治時代以降に工夫されたもので、武士の甲冑をまとい、馬にまたがった武者の隊列が御神輿ごしんよ雲雀ヶ原ひばりがはらの本陣に運ぶ「お行列」、騎馬武者が競走する「甲冑競馬」、さらに「神旗争奪戦」などの部分から成っています。この取材では最も人気が高い「神旗争奪戦」までを見学しました。
★1 「ゲンロン観光地化メルマガ #18」に掲載されている「【友の会ダークツーリズム】週末思想研究会 活動記録:ツーリズム編 #2 福島花見(後編)」では、週末思想研究会が小高神社を訪ねて花見をした模様が報告されている。

 

 さて、原町駅前に無事到着した大脇は、二上さんが運転する車に拾ってもらいました。「このあいだは面白かったね」と饒舌に話しはじめる二上さんから、野馬追の全体進行、見どころなどについて簡単な説明がありました。野馬追見学は午後の鹿島区からと決めて、先に近くのみちのく鹿島球場へ。ここは震災当時、市が指定する集落避難場所だったため、近くにいた人たちが集まってきたのですが、そこに津波が到達し、丸いグラウンドのなかで渦を巻いて、逃げ場を失った犠牲者を飲み込みました。
写真2 みちのく鹿島球場のスタンド席から。グラウンドに避難した人は津波に飲まれ、スタンド席にいた人だけが助かった。
   いまは草が生い茂り、壊れた設備も修復されないままですが、地元からは復旧を望む強い声があるとのこと。球児たちが再び汗を流す日はいつになることでしょう。球場を後にして移動する車中からも、耕作放棄地となり雑草が生い茂る田畑の跡や、学校のグラウンドにぎっしりと並ぶ仮設住宅が見えます。  祭りの時間に合わせて、会場のJAそうま鹿島総合支店へ。すでに騎馬武者が陣容を整え、周りには黒山の人だかりが。この時刻になると日は高く上がり、東北地方と言っても東京と200kmあまりしか離れていない浜通りの気温は30度を超えます。暑さと日差しに顔をしかめながら、二上さんが指差す方向を見ると、仮設のテントの下に少し涼しそうな座席が。 「前はあんなのはなかったんだけど、いろいろやってるんだよ」  伝統行事とはいえ、古くから続く部分以外にもいろいろな工夫を重ねてきた野馬追は、いまも見に来る人たちに楽しんでもらうため、少しずつ姿を変え続けてもいます。ここで偶然にも、同じく野馬追の調査に来られていた井出明さんとお会いしました。いつもどこでも、祝祭は人をめぐり会わせるもののようです。
写真3 JAそうま鹿島総合支店の駐車場で行われた総大将御迎。テント下の席は涼しそう。地面に落ちているものは馬の糞。
   集結した騎馬隊は雲雀ヶ原に進軍します。この移動には時間がかかるので、二上さんの車は雲雀ヶ原のある原町区へ一足先に戻り、近くの夜の森公園★2で停まりました。ここには太平洋戦争で戦死した神風特攻隊隊員の銅像が飾られています。実は雲雀ヶ原は陸軍飛行場の跡地に隣接しているのです。ここにあった原町飛行場は特攻隊の錬成基地として使われ、ここで訓練された多くの若者が戦地へ飛び立っていきました。
写真4 夜の森公園の銅像。特攻隊をイメージしている。
   夜の森公園を出て到着した雲雀ヶ原では「宵乗り競馬」が行われます。競馬は2日目にもあるのですが、1日目は騎手が身軽な出で立ちをしているのに対して、2日目の「甲冑競馬」はその名のとおり鎧を全身にまとった武者が騎乗します。1日目の競馬は見る人もまばらです。
★2 「桜のトンネル」で有名な富岡町の夜の森公園とは別。

 

 宵乗り競馬で1日目の行事を終えた騎馬武者たちはいったん馬と別れて、軍者会ぐんじゃかい)が行われる旭公園へ。
写真5 軍者会。ここにも大勢の観衆がいる。
   ここで驚いたのは、観衆に若い人が多いことでした。この日の旭公園には出店が並び、来る人も浴衣を着て、ちょうど縁日のような風景がありました。
写真6 旭公園では縁日のような出店に少年少女が集まっていた。中央左に二上さんの後ろ姿。
   これには二上さんも驚いていました。 「子どもがこんなに集まってるなんて、震災から初めてじゃないか」  震災で南相馬市から出て行った人には若い人も多かったのですが、この日はお祭りを見に帰ってきていたようです。住む人の数が元に戻るにはまだまだ時間がかかるかもしれませんが、この日の風景は明るい未来への希望を抱かせてくれます。  日が暮れてきたところで祭りの1日目はここまで。原町無線塔の熱心なファンという風変わりなオーナーがいる「だいこんや」というバーで夕食をいただきました。内装に、メニューに、原町無線塔の写真があしらわれています。記念にオーナーと二上さんの2ショットをいただいて解散しました。
写真7 「だいこんや」オーナーの須藤栄治さん(右)と二上さん。須藤さんの夢は無線塔再建とのこと。
 

2日目


 翌朝からが野馬追の本祭りです。朝一番で合流した二上さんから「馬が近くで見られるから、今日の行列が一番迫力あるよ」とおすすめをいただいて、カメラを持つ手にも力がこもります。  お行列は陸前浜街道の原町地区中心近くにある部分、通称「野馬追通り」を通ります。すぐ近くには大正時代に建設され、2013年末に国の登録有形文化財に加わったばかりの映画座「朝日座」もある場所です。日々の生活を感じさせる商店街に、この日は人垣がずらりと並び、熱い視線に囲まれながら、御神輿を守って数百の騎馬武者が行進します。居並ぶ武者に混じって桜井勝延南相馬市長も馬上で参加し、観衆に挨拶の言葉を述べました。
写真8 400騎を超える騎馬武者が行列を作る。
   お行列を追って再び雲雀ヶ原へ。式典を挟んで、休む間もなく甲冑競馬が始まります。祭場の外周が柵でコースに見立てられ、旗指物を背負った騎馬武者たちは法螺貝を合図に砂埃を巻き上げます。先頭を駆け抜けた勝者は審判席で勝ち名乗りを受け、観衆の拍手に答えながら次の出番に備えて引き上げていきます。次にはこの日最後のクライマックスになる、神旗争奪戦が控えています。
写真9 スタートを待つ各馬。手前の馬も出走を控えている。
 
写真10 ゴールを目前にした混戦。
 
写真11 勝ち名乗りを受けた馬に続いて、出走馬は写真左手の坂を登って神旗争奪戦に備える。
 

 

 神旗争奪戦とは、花火とともに打ち上げられた旗を騎馬武者が地上で待ち構え、旗が風に煽られながら降りてくるところを馬の鞭で絡め取る競争です。武者たちは空を見上げ、風向きを読みながら落下点を争います。
写真12 神旗は花火の音とともに空中で広がり、ゆっくりと落ちてくる。
 
写真13 祭場に広がっていた武者は風向きに合わせて神旗を目がけ一斉に駆け寄る。
 
写真14 見事に神旗を手にした武者は神旗を高々と掲げて客席の間の坂道を駆け登る。
   次々に神旗が打ち上げられ、そのたび無数の騎馬が蹄を轟かせる……のですが、この日このときに限って、折悪しく上空で風が強くなってきました。急遽打ち上げの場所をずらすなど対策がとられましたが、風に流されていく神旗を追う騎馬は右往左往し、なかには神旗がふわふわと場外へ、そして客席の頭上を通過し、彼方へ飛び去っていくことも。
写真15 祭場から大きく逸れた神旗。場外に落ちたものは無効。
   例年は炎天下、ほとんど風も吹かないなかで騎馬も観衆も汗まみれになりながら行われるのがこの神旗争奪戦だといいますが、今年はやや荒れ模様です。ふと気が付けば、一頭の馬が競技に興奮してか、乗り手を振り切って競馬のコースを独走しはじめていました。
写真16 暴走する放駒。行く手には果敢に立ち向かう人影が。
   この馬はコースを3周ほど駆けめぐった末、無事に取り押さえられました。そんなハプニングも観衆はおおらかに楽しんでいる様子。馬が逃げたことによる怪我人もなく、騒ぐ人もないまま祭りはもとの進行に戻りました。勇壮果敢な武者の祭りの最後に、この伝統を愛し守り続けてきた人々のゆるやかな信頼と一体感が垣間見えました。
写真17 法螺貝を吹いて進行の合図をする螺役(かいやく)一同。手前の女の子と男の子も一人前に音を出す。野馬追はこの年2歳から86歳まで入り混じった騎馬武者を含め、長年地域の老若男女が力を合わせて続けてきた。
   取材を終えたあとは、帰りのバス乗り場まで二上さんが送り届けてくれました。 「野馬追には毎年大勢の人が来てくれる。南相馬にはこのあいだのゲンロンカフェでも話しきれなかった面白いものがたくさんあるから、どんどん文章にして次の世代に残していきたい。ゲンロンでも南相馬の魅力を紹介してほしい」  郷土愛にあふれるお言葉をいただいて、ゲンロンの使命をいっそう強く感じました。別れの挨拶をして乗り込んだバスが通る道は、昨日通ったばかりのところ。「津波がここまで来て止まった」という二上さんの説明を思い出しながら、土地の記憶を伝えるということを考える道中でした。    浜通りのシンボルのひとつといえる伝統行事、相馬野馬追。この取材はその形だけでなく、伝統を支えてきた人々の心の一端にも触れる機会になったように思います。2日間の取材のあいだ熱心に案内してくださった二上さんに心からの感謝を捧げるとともに、浜通りの一日も早い復興と、貴重な伝統が生きる文化のさらなる発展をお祈りします。

大脇幸志郎

1983年大阪府生まれ。東京大学医学部卒。出版社勤務、医療情報サイト運営の経験ののち医師。著書に『「健康」から生活をまもる 最新医学と12の迷信』、訳書にペトル・シュクラバーネク『健康禍――人間的医学の終焉と強制的健康主義の台頭』(いずれも生活の医療社)。
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    大脇幸志郎

    1983年大阪府生まれ。東京大学医学部卒。出版社勤務、医療情報サイト運営の経験ののち医師。著書に『「健康」から生活をまもる 最新医学と12の迷信』、訳書にペトル・シュクラバーネク『健康禍――人間的医学の終焉と強制的健康主義の台頭』(いずれも生活の医療社)。
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