ショッピングモールから考える(1)(前篇)|大山顕+東浩紀

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初出:2014年6月15日刊行『ゲンロン観光地化メルマガ #15』

 本記事は大山顕さんと東浩紀によるゲンロンカフェの人気イベントシリーズ「ショッピングモールから考える」の第1回を記事化したものです。第1回から第3回までは電子書籍『ショッピングモールから考える ユートピア・バックヤード・未来都市』としてまとめられています。同書はラゾーナ川崎からディズニーワールド、ドバイ・モールまでを自由闊達に語り合い、独自の視点から世界の都市設計を考える内容となっています。内装と外観、偽物と本物、バックヤードとユートピアが反転する不思議な空間から見えた、新しい公共性のかたちとは――ゲンロン叢書003『テーマパーク化する地球』・005『新写真論』へとつながる刺激的な対談を、ぜひお楽しみください。(編集部)
『ショッピングモールから考える』(ゲンロン)
東浩紀 今日は写真家の大山顕さんをお招きして、「ショッピングモールから考える」と題して話をしていきたいと思います。写真も交えて話したほうがわかりやすいだろうということで、お互いにプレゼンテーションを用意してきました。

大山顕 よろしくお願いします。ぼくが東さんのショッピングモール論に興味を持ったのは、北田暁大さんとの対談集『東京から考える』(NHKブックス)がすごく面白かったからなんです。それ以前から、ぼくは工場や団地の写真を撮っていて、ショッピングモールにも関心を持っていました。しかし東さんは、ぼくとは違う角度からショッピングモールのよさ、面白さを分析していた。

 そういうことであれば、ぼくのほうから先にプレゼンしたほうがよさそうですね。なぜこういうイベントを企画したのかということを含めて、お話しさせていただきたいと思います。

新しいコミュニティ、新しい開放性、新しい普遍性


 まずは、なぜショッピングモールをテーマにしようと思ったのか。一言で言うと、「新しい公共性を考えるため」です。

 ではもう一歩踏み込んで、なぜ新しい公共性を考えるのかと問われれば、それは従来の「軽薄な消費者(=資本主義)」と「まじめな市民(=共同体主義)」という構図に限界を感じているからなんですね。資本主義とは切り離された「市民」なるものが現実に存在するのか。むしろ市場の軽薄さを前提に、それをどう公共性に結びつけていくのかを考えるべきではないのか。『一般意志2.0』(講談社)や『福島第一原発観光地化計画』(ゲンロン)の議論も、同じ問題意識から出発しています。

 さらに平たく言うと、商店街の「顔が見える関係」が老人や障害者にやさしいと言われますよね。でも逆にそれは、子育て世代やニートにはキツい環境なのではないのか。そういう疑問が出発点にあります。ファミレスやコンビニ、ショッピングモールのような商業施設のほうがはるかに便利だろうと。これは実体験にも基いています。

 ぼくは娘が生まれた2005年ごろ、西荻窪というたいへん「意識の高い」街に住んでいました。妻と2人で暮らしているうちはとても快適だったのですが、子どもができたとたん、この街がとても厳しくなった。愛用していたおいしいお店や飲み屋は子連れだと厳しいと言われるし。狭い道に車やバスが往来していてベビーカーを引くのも危ない。そういうなかで、ショッピングモール的なものの公共性について考えるようになってきた。その結果として生まれたのが、『東京から考える』と、『思想地図β』vol.1(ゲンロン)です。大山さんとお会いしたのはこの頃ですね。『東京から考える』の刊行が2007年。大山さんと「建築夜学校」というイベントではじめてお会いしたのが2010年10月ですか。それから3ヶ月後に、『思想地図β』の創刊号でショッピングモールを特集しています。

 社会思想の文脈でそのとき意識していたのは、2005年に出た三浦展さんの『下流社会』(光文社新書)と、毛利嘉孝さんの『ストリートの思想』(NHKブックス)です。三浦さんの整理では、地元の商店街がショッピングモールに蹂躙されることが下流化の象徴ということになっている。けれど、そんな簡単な図式でいいのか。

 また、毛利さんはこの本で、のちに高円寺の脱原発デモにつながるような政治の流れを紹介しています。1990年代の「だめ連」★1、ゼロ年代の高円寺の素人の乱★2……といったような、ストリートを中心とした運動です。

 三浦さんと毛利さんはまったく違ったタイプの書き手ですが、共通して、空調が効いたショッピングモールを批判し、猥雑な商店街あるいはストリートこそが本当の公共圏だと主張します。『ストリートの思想』では、若者たちが昼間から酒を飲んで語りあっている、そういうオープンなところが高円寺の魅力だと言う。でもそれって、本当はかなり威圧的ですよね。ひげ面の3、40代の男たちが日本酒を片手に安倍政権を批判しているのが、果たしてオープンと言えるのか(笑)。ひとくちに「開かれている」と言っても、若者に対して開かれていることと、高齢者に対して開かれていることは一致しないし、子どもがいるお母さんに開かれていることと、健常者の男性に開かれていることもまた全然違ってくる。

 毛利さんの本では、セキュリティが働いておらず、ホームレスも受け入れられるような管理されていない空間こそがもっとも公共的なのだという議論ばかりがなされている。けれども、ぼくはそれこそ狭い見方だと思うんです。

 ではショッピングモールにはどんな可能性があるのか。思想用語で整理すると、ポイントは3点かなと思います。「新しいコミュニティ」「新しい開放性」「新しい普遍性」です【図1】

【図1】


 コミュニティについては、郊外やネットといった「現代的なコミュニティ」と、駅前商店街に代表されるようなおじいちゃん、おばあちゃんの「顔が見えるコミュニティ」との対立が重要です。コミュニティというと前者だけが問題になるけど、それでいいのか。開放性については、監視カメラに囲まれ空調も整っている「セキュリティ」の空間と、だれも管理しておらずホームレスも入れるようなアナーキーな空間のどちらが本当に「開放的」なのか、だれにとって開放的なのかという問題。最後に普遍性というのは、グローバル化が作り出した世界中でどこでも同じようなサービスが受けられる現状を、新しい普遍性として捉えられないかという論点。思えばショッピングモールというのは、人々が政治も文化も宗教も共有しないまま、互いに調和的にふるまい、なにかを共有しているかのような気になれる空間です。

 とはいえ、こういう話ばかりしていると抽象的な議論になってしまうので、今日はもっと具体的な話をしていこうと思います。まずは、ぼくが実際に見てきた印象深いショッピングモールを、写真を交えて紹介できれば。三浦さんや毛利さんは国内の空間を意識されているようですが、ぼくがショッピングモールについて考えるとまず浮かぶのは海外のモールです。ぼくは海外に行くとたいていショッピングモールを回るのですが、なかでもまず紹介したいのは、シンガポールのヴィヴォシティ★3、ドバイのドバイ・モール★4、ミネアポリスのモール・オブ・アメリカ★5の3つです。

 まずはシンガポールのヴィヴォシティ。ぼくはここを訪れたときに、じつはモールでこそ、土地のローカルなものが現れるのはないかと思ったんですね。

大山顕

1972年生まれ。写真家/ライター。工業地域を遊び場として育つ・千葉大学工学部卒後、松下電器株式会社(現 Panasonic)に入社。シンクタンク部門に10年間勤めた後、写真家として独立。執筆、イベント主催など多様な活動を行っている。主な著書に『工場萌え』(石井哲との共著、東京書籍)『団地の見究』(東京書籍)、『ショッピングモールから考える』(東浩紀との共著、幻冬舎新書)、『立体交差』(本の雑誌社)など。2020年に『新写真論 スマホと顔』(ゲンロン叢書)を刊行。

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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