斜めのミラー(抜粋)|大山顕
初出:2022年10月25日刊行『ゲンロン13』
先日、『新写真論』の著者の大山顕さんが、同書の功績を理由に2023年日本写真協会賞学芸賞を受賞されました。この受賞を記念し、『ゲンロン13』に掲載された大山さんの論考「斜めのミラー」の一部を無料公開いたします。
本稿では、昨年3月に国会で行われたウクライナのゼレンスキー大統領によるオンライン演説を取り上げます。大山さんは、演説におけるゼレンスキー大統領の「カメラ目線」に注目し、そこから「視線が合う」とはどういうことなのか、と問いかけます。くしくも先月、G7広島サミットへの電撃的な対面出席で話題を集めたゼレンスキー大統領。その来日を経たいま、あらためてオンライン上の「目線」について考えることは、ウクライナ戦争がはじまったコロナ禍下の状況を思い出し捉えなおすことに繋がるかもしれません。
また、「webゲンロン」ではこのたびの受賞と重版出来についてのニュース記事を公開中です。大山さんからのコメントも掲載しておりますので、ぜひあわせてご覧ください。
本稿では、昨年3月に国会で行われたウクライナのゼレンスキー大統領によるオンライン演説を取り上げます。大山さんは、演説におけるゼレンスキー大統領の「カメラ目線」に注目し、そこから「視線が合う」とはどういうことなのか、と問いかけます。くしくも先月、G7広島サミットへの電撃的な対面出席で話題を集めたゼレンスキー大統領。その来日を経たいま、あらためてオンライン上の「目線」について考えることは、ウクライナ戦争がはじまったコロナ禍下の状況を思い出し捉えなおすことに繋がるかもしれません。
また、「webゲンロン」ではこのたびの受賞と重版出来についてのニュース記事を公開中です。大山さんからのコメントも掲載しておりますので、ぜひあわせてご覧ください。
新型コロナウイルスの世界的流行以降、会議や飲み会がもっぱらオンラインで行われるようになって、画面越しの相手と視線が合わないという問題が発生している。この状態にはもう慣れた、という人もいるかもしれないが、ぼくはいまだに違和感が拭えない。画面に映った相手の顔を見ると、相手から見たときの自分の視線はあらぬ方向を向く。視線を合わせるためにカメラを見つめると、画面に表示されている相手の顔は見えない。カメラとディスプレイが違う場所にある以上、どうしようもない。自撮りで同じ経験をした人も多いだろう。
オンラインミーティングで視線が合わない問題は今に始まったものではなく、テレビ会議というものが生まれてからずっとあった。ただ、コロナ禍がもたらした急激な生活様式の変化によって、今や以前とは比べものにならないほど多くの人びとがこの違和感を覚えるようになった。カメラとディスプレイが高品質化し、回線速度と映像圧縮アルゴリズムが優秀になって、お互いの目が高解像度で映し出されるようになったことも大きいだろう。つまり、視線の方向が鮮明に映されるようになったのだ。
技術的な解決策はある。今後、ディスプレイがカメラとしても機能するデバイスが登場するはずだ。実際、アップル社は2021年にディスプレイ下埋め込み型カメラの特許を取得している。ただ、多くの人はカメラがどこにあるのか分からない状態を嫌うと思われるので、そのようなディスプレイが実用化されても、広く普及するにはいたらないかもしれない。今ですらノートパソコンのカメラ部分にシールを貼っている人をよく見かける。カメラの位置は現在のまま、リアルタイムで目を修整加工して、目線が合っているかのように見せるソフトウェアが普及するほうが早いだろう。iOS14では、ビデオチャットアプリ FaceTime に「アイコンタクト」の名前でそのような機能が盛り込まれた。
『新写真論』が出版されたのは2020年3月で、執筆時にはまだ今ほどオンラインミーティングが行われていなかった。だから、この問題を取り上げようとは思わなかった。副題に「スマホと顔」を掲げていただけに残念だ。今『新写真論』の続きを書くとしたら、まず取り上げなければならないのは「目が合うとはどういうことか」になる。本稿ではそれについて論じる。手がかりとして、2022年3月23日に行われた、ウクライナのゼレンスキー大統領による、日本の国会でのオンライン演説から始めよう。
オンラインミーティングで視線が合わない問題は今に始まったものではなく、テレビ会議というものが生まれてからずっとあった。ただ、コロナ禍がもたらした急激な生活様式の変化によって、今や以前とは比べものにならないほど多くの人びとがこの違和感を覚えるようになった。カメラとディスプレイが高品質化し、回線速度と映像圧縮アルゴリズムが優秀になって、お互いの目が高解像度で映し出されるようになったことも大きいだろう。つまり、視線の方向が鮮明に映されるようになったのだ。
技術的な解決策はある。今後、ディスプレイがカメラとしても機能するデバイスが登場するはずだ。実際、アップル社は2021年にディスプレイ下埋め込み型カメラの特許を取得している。ただ、多くの人はカメラがどこにあるのか分からない状態を嫌うと思われるので、そのようなディスプレイが実用化されても、広く普及するにはいたらないかもしれない。今ですらノートパソコンのカメラ部分にシールを貼っている人をよく見かける。カメラの位置は現在のまま、リアルタイムで目を修整加工して、目線が合っているかのように見せるソフトウェアが普及するほうが早いだろう。iOS14では、ビデオチャットアプリ FaceTime に「アイコンタクト」の名前でそのような機能が盛り込まれた。
『新写真論』が出版されたのは2020年3月で、執筆時にはまだ今ほどオンラインミーティングが行われていなかった。だから、この問題を取り上げようとは思わなかった。副題に「スマホと顔」を掲げていただけに残念だ。今『新写真論』の続きを書くとしたら、まず取り上げなければならないのは「目が合うとはどういうことか」になる。本稿ではそれについて論じる。手がかりとして、2022年3月23日に行われた、ウクライナのゼレンスキー大統領による、日本の国会でのオンライン演説から始めよう。
[編集部注:2022年]2月24日にロシアがウクライナに侵攻し、侵略戦争が始まった。多くの犠牲者がでていて、たいへん悲しい。本稿執筆時点(2022年4月)では、収束の気配は見えていない。憂鬱だ。このような状況の中、2度の世界大戦の経験や、複雑にグローバル化した経済などの理由から、ロシアに対する表だった武力行使を控えている各国に対し、ウクライナのゼレンスキー大統領が公式の演説を行っている。イギリス、ドイツ、アメリカのそれぞれの議会でオンラインによる演説が実施され、日本では3月23日に衆議院国際会議室で行われた。
演説はたいへん興味深かった。といっても注目したいのはその内容ではない。もちろん、ぼくもあの中継を見た多くの人たちと同様、その計算し尽くされた内容に感銘を受けたくちだ。なにより、ぼくはチョルノービリ(チェルノブイリ)に行ったことがある。大学時代、あやうく地下鉄サリン事件に巻き込まれるところだった友人もいる。だからあの演説はぼくに向けられたものだとすら感じられた。津波、原発事故、地下鉄サリン事件など、ここ30年の出来事を盛り込んで日本人の感情に訴えかける、という戦術はたいへん巧みだった。よほど優れた脚本・演出家がいるとみえる。多くの人がぼくと同じように、あの演説を自分に向けられたもののように感じただろう。要するにぼくらは自分が体験して覚えていることが話題になると引き込まれる。裏を返せば、それがどんな重大事であっても、自分が体験していないことを語られてもピンとこない。ぼくらは忘れっぽい国の人間なのだ。
これは彼がアメリカ向けに行なった同様の演説で真珠湾攻撃に触れたことと対照的だ。80年以上前の出来事だが、かの国の人びとには響くはずだとゼレンスキー大統領は判断したのだろう。次に日本での演説が予定されている段階であのエピソードを持ち出したことに対して、我が国では一部の人たちが動揺を見せた。
だが、ぼくが思うに、この一連の演説で取り上げられた出来事について考えるべきは、それぞれの加害者/被害者は誰か、というところにはなく、忘れっぽい国と、80年以上前のことがアクチュアルに響く国との違いにある。アメリカでの演説では、ラッシュモア国立記念碑に刻まれた4人のアメリカ大統領を取り上げ「あなた方のすばらしい歴史」と語ってもいる。イギリスでは『ハムレット』の一節や第二次世界大戦中のチャーチル首相による演説が引用された。「出来事」の日本と、「歴史」の国々、というわけだ。
「注目したいのはその内容ではない」と言いつつ内容について語ってしまった。ぼくが今回もっとも興味を引かれたのは2点。演説が遠く離れた場所からオンラインで行われたことと、十数分間の演説の間ずっと、ゼレンスキー大統領がカメラ目線だったことだ。
まず前者だが、国会という場において他国の元首がオンラインで政治的なメッセージを届けるという前例は、これまでになかった。いやいや、コロナ禍以降は外交の世界でもオンライン会議が頻繁に行われているぞ、という指摘があるだろう。ポイントはまさにそこで、ぼくらがここ2年あまりで急速に遠隔地同士でのミーティングに慣れたという背景がなければ、今回の演説の体裁に対してもっと違和感を覚えたのでは、と思うのだ。この点で、今回の演説は、コロナ以降の戦争の姿をよくあらわしている。
もちろん侵略された国の元首が、戦火のさなかに一時的にでも自国を離れるのは大ごとであり、演説がオンラインであったことに異を唱えるつもりは毛頭ない。ぼくがここで言いたいのは、歴史的に見ると、この手の外交では、発言内容と同じぐらい、要人が現地にわざわざ足を運ぶ、ということが重要だったのではないか、ということだ。つまりこのレベルの外交は「儀式」だったはずだ。それがオンラインで済まされるということは「何を語ったか」だけが重要だという認識に変わったということだろう。言うなれば外交が「儀式」から「コンテンツ」になったのだ。だからこそ演説する側も周到に内容を練り、聴衆側も今までになく発言に注目した。コロナ禍以前までの「外交」の体裁だったら、これほど多くの人びとが、同時通訳のクオリティを云々するほど内容を重視することはなかっただろう。
これは、職場に出勤せず在宅で仕事をするようになって発生した、上司や同僚との、あるいは取引先とのコミュニケーションの問題に似ている。多くの企業で、雁首揃えての会議が過度に「儀式」化してしまっていたことは、ずっと以前から指摘されていた。よく言われる「会議のための会議」「何も決定されない無駄な会議」というやつだ。しかしそれでも、同じ場に居合わせるという「儀式」がなくなって、業務上のやりとりがすべて「コンテンツ」だけになるとうまく回らなくなる。目下ぼくらが直面しているオンラインミーティングの問題である。それを打開するものとしてVRミーティングが期待されているわけだが、あれが解決策だとは思えない。人類はまだオンラインにおける適切な「儀式」を習得していない。
とはいえ、今回の演説にも「儀式」性が存在した。それは議員たちが一堂に会して演説を視聴した点だ。「コンテンツ」としての演説内容を確認するだけだったら、彼らはそれぞれの家や事務所で見れば済む。あのような場が設けられたのは、国会の議場という場所で上映されることに「公式」感があるからだ。あたかもそこにゼレンスキー大統領がいるかのようにセッティングされた議場と議員たちの出席は、演説が公式のものであり重要な外交であることを保証する体裁である。メッセージが公式のものであるかどうかを内容だけで判断するのは難しい。それを決定するのは「コンテンツ」の周囲にある「儀式」のほうだ。オンラインで配信される映像自体には「コンテンツ」しかない。だからそれを視聴する場のほうに「儀式」が求められるわけだ。
もうひとつ重要な「儀式」性は、あの映像がリアルタイムだったことだ。考えてみれば、あらかじめ録画した演説を再生するだけでもなんら問題なかった。対話が行われたわけではなく、一方的に演説しただけなのだから。録画のほうが翻訳ももっとスムーズに行われたはずだ。にもかかわらずそうしなかったのは、録画が「一回性」を損なうからだろう。つまり、あらかじめ録画された動画は「コンテンツ性」が強いのだ。演説終了後、その様子はYouTubeにアップされているため最終的には「一回」ではないのだが、録画されたことによってむしろ「録画の元になったマスター」としての公式感が醸し出されたように感じる。
自撮りの録画動画をSNSにポストしてきたゼレンスキー大統領だからこそ、それとのコントラストによって今回の演説のオフィシャル性が強調されたというのもおもしろい。「普段」や「カジュアル」とのスタイル上の差異によって「公式」であることが表現されるのだとしたら、こんにちのオンライン演説のオフィシャル性は「非SNS性」によってあらわされる、ということかもしれない。それは視聴される場が固定されていることと、配信がリアルタイムであることにある。
さて、ぼくが興味を引かれたもう1点、演説の間ずっとゼレンスキー大統領がカメラ目線だったこと、それこそが本稿の本題である。先ほど演説が「ぼくに向けられた」ように感じたと書いたが、その印象を強めているのがこの「カメラ目線」だった。冒頭のあいさつを読み上げた細田博之衆議院議長がずっと原稿に目を落としたままであったことが、ゼレンスキー大統領のじっとこちらを見る視線の力強さを際立たせた。
この対照的な視線についてはSNS上でも話題になった。多くは「下を見たままただ用意された原稿を読み上げるだけとはなさけない」「ゼレンスキーを見習え」といったものだ。日本の議員たちが原稿に目を落としたままそれを読み上げることに徹し、相手を見て話をしないことへの批判は、今に始まったことではない。ぼくらはなぜか目を合わせないで話をする相手に対して不信感や不快感を覚える。それでも政治家たちはあいかわらずうつむいたまま答弁をする。おそらく、目を見て話をするというのはかなり高度な、訓練を必要とする技能なのだろう。別の言い方をすると、対面での親密な会話以外ではかなり不自然な行為なのである。にもかかわらず、ぼくらは、こちらを見てほしいと思ってしまう。ちなみに、演説の後にあいさつした山東昭子参議院議長は、しっかりと列席者のほうを見ていた。
そもそも「視線が合う」というのはどういうことなのだろうか。
[……]
身も蓋もない言い方をすると、ゼレンスキー大統領はちっともこちらを見てはいない。「カメラ目線」の呼び方の通り、彼が見ていたのはカメラだ。視聴者と目が合っていたわけではない、という点では、ずっとうつむいていた衆議院議長となんら変わらない。これはオンライン面接でも同様で、面接官によい印象を与えようとするときに見るのはカメラのレンズだ。カメラ目線ということは、面接官の顔を見ていないということで、それは面接官も承知しているはずだ。にもかかわらずぼくらは、目がこちらを向いて見える、というだけで好意的に反応してしまう。
さらに言えば、ゼレンスキー大統領が十数分間にもわたって、あの練りに練られた内容を、ずっとカメラを見たままで話すことができたのは、プロンプターを使っていたからだろう。これはカメラレンズの前にハーフミラーを組み込んだ装置で、そこに用意した原稿が映し出される。流れていくテキストを見ながら話すだけで、自然とカメラ目線になる。テレビスタジオでは日常的に使われている。証明写真ボックスで撮った写真は、鏡に映った自分の目を見て撮ってもちゃんとカメラ目線になることをイメージしてほしい。あの鏡はハーフミラーで、裏側にカメラがあるからだ。カメラが仕込まれた空間は暗いため、カメラは見えずに、反射した自分の顔だけが見えるわけだ。
余談だが、カメラの語源は「暗い部屋」を意味する「カメラ・オブスクラ」から来ている。つまり証明写真ボックスは「暗い部屋を設置した暗い部屋」ということになる。プロンプターはこの鏡を下方向に45度傾け、自分の顔ではなく、下にある原稿モニターの画面を反射させるようになっている。NHKのニュース番組で、スタジオの様子を見せるためか、引いた映像を流すことがあるが、その際にキャスターに向けられた白い大きな箱のようなものが映る。あれがプロンプター付きのカメラだ。また、記者会見など、複数のカメラによって撮られる場合には、原稿が映し出されるハーフミラー部分がカメラから独立して演壇の横に置かれる。首相の演説などでときおり目にする透明の小さな板がそれだ。今回、衆議院議長の前には透明の板が置かれていた。コロナ対策のアクリル板なのだが、演壇の前に置かれている様子はまるでプロンプターのようだった。プロンプターがあるにもかかわらずうつむいたままのように見えた。
プロンプターはほんらい業務用だったが、オンラインミーティングが一般化するに伴って、簡易的な家庭用プロンプターが売られるようになった。仕組みは同じだが、斜めのハーフミラーに反射させるのは演説原稿ではなく、ミーティング相手の顔だ。こうすることによって、カメラとディスプレイの位置を、見かけ上一致させることができる。ハーフミラーを斜めに置くなどという原始的な方法がいまだに使われているのはおもしろい。ぼくらはカメラ目線を実現するのにやっきになっている。
ゼレンスキー大統領はもともとショーマンということもあり、原稿を暗記している可能性もあるが、おそらくプロンプターを使っていただろう。だからといって演説の価値が下がるわけではない。問題は、プロンプターを使っていようがいまいがあの視線はぼくらを見ていたものではないということだ。人間の目は視線に気づきやすいように進化してきたが、カメラなどというものが発明されるのは想定外だった。見かけ上、お互いに目が合っているように見えるのに、実は片方はレンズを見ていて相手を見ていないということが起こるとは。一方通行の視線であることを承知しながら、それでもカメラ目線を好ましいと感じてしまうのは、視覚認識の誤作動だ。このバグを利用するトリックが、斜めのハーフミラーなのだ。
このハーフミラーが、写真を考える際に重要な手がかりになる。まず、何よりハーフミラーは写真に似ている。被写体になった人は、自分の姿が写った写真の鑑賞者を見ることはできない。向こうからこちらは見えるが、こちらから向こうは見えない。視線を一方通行にするもの、それが写真なのだ。
興味深いのは、プロンプターと同様、一眼レフカメラも内部に「斜めのミラー」を備えている点だ。(『ゲンロン13』へ続く)
シリーズ史上もっともアクチュアルなラインナップ。2022年2月のウクライナ侵攻に応じて、「ポストソ連思想史関連年表2」を収録。
『ゲンロン13』
梶谷懐/山本龍彦/大山顕/鴻池朋子/柿沼陽平/星泉/辻田真佐憲/三浦瑠麗/乗松亨平/平松潤奈/松下隆志/アレクサンドラ・アルヒポワ/鴻野わか菜/本田晃子/やなぎみわ/菅浩江/イ・アレックス・テックァン/大脇幸志郎/溝井裕一/大森望/田場狩/河野咲子/山森みか/松山洋平/東浩紀/上田洋子/伊勢康平東浩紀 編
¥3,080(税込)|A5|500頁|2022/10/31刊行
大山顕
1972年生まれ。写真家/ライター。工業地域を遊び場として育つ・千葉大学工学部卒後、松下電器株式会社(現 Panasonic)に入社。シンクタンク部門に10年間勤めた後、写真家として独立。執筆、イベント主催など多様な活動を行っている。主な著書に『工場萌え』(石井哲との共著、東京書籍)『団地の見究』(東京書籍)、『ショッピングモールから考える』(東浩紀との共著、幻冬舎新書)、『立体交差』(本の雑誌社)など。2020年に『新写真論 スマホと顔』(ゲンロン叢書)を刊行。