イメージの不可視な境界――日本新風景論序説|山下研

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初出:2017年12月15日刊行『ゲンロン7』
 本日のゲンロンαでは、〈ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾〉第2期総代の山下研さんの論考をお届けします。この論考は、第2期の最終課題として提出された『界面批評宣言──「ゴジラの命題」と近現代日本のサブカルチャー』を大幅に改稿し、『ゲンロン7』に掲載されたものです。
 災厄がわたしたちの「風景」観を変えるとき、イメージのあり方も変わる。明治期日本の災害と現代の震災から生まれた「界面的イメージ」を、幻燈、近代絵画、『シン・ゴジラ』、『君の名は』のなかに見出します。東日本大震災から10年のいま、再度読まれるべき論考です。(編集部)


 ユェン・グァンミンによる『Landscape of energy』(2014年)は、ドローンやワイヤーカムによっていくつかの「風景」を撮影したヴィデオ・アートだ。波のうちよせる海岸線や海水浴客であふれた砂浜が画面に映し出されると、やがてドローンは岸辺にひしめく放射性廃棄物貯蔵庫や海水浴場のすぐそばに立つ原子力発電所をとらえていく。

 わたしたちは、この風景を知らない。原発や核廃棄施設をグロテスクに映し出すそのまなざしを、かつてこの国に住む多くの人々は持たなかった。グァンミンは、2011年に発生した東日本大震災を『Landscape of energy』制作の動機としている。宮城県三陸沖を震源としたその大地震はゆうに16メートルを超える津波を誘発し、東北沿岸部を呑み込んだ。死者15894人・行方不明者2546人★1という数字を、わたしたちはリアルに想像することができるだろうか。福島第一原子力発電所の1~5号機は全交流電源を津波によって喪失、1、3号機は炉心溶融メルトダウンによる水素爆発で放射性物質を一帯に放出した。被害は想定外の規模だった。いまだ帰還困難区域には多くの街が取り残され、避難者の数は今も8万人を下らないという。震災の以前/以後で、人々の原発へのまなざしは決定的に変容している。

 だが『Landscape of energy』がわたしたちの目に未知の風景として映ったのは、もう一つ根源的な理由がある。それは空中を一切の揺動もなく浮遊するドローン映像自体が、つい数年前まで誰も目にしたことがないイメージだったということだ。これまでにないテクノロジーを撮影に使用することで、核施設と自然が密にからみ合う「見たことのない風景」が同作では描き出されている。

 津波はこの国の風景を一変させた。だが、風景をとらえるメディアそれ自体の変容について、わたしたちはどれほど意識的だろうか。東日本大震災はかつてないほどの記録量、そして何より新たなメディア群でとらえられた災厄でもあった。これほどまでに被災者自らによって撮影された映像記録を持つ災害は類を見ないだろう。スマートフォンが高い普及率をみるこの国で、刻一刻と街を呑み込んでいく津波の表象はおよそ世界の誰も目にしたことのないイメージだった。カメラの小型・高性能化のインパクトはあらゆる場所に設置された監視カメラ、報道陣によるリアルタイムの空撮映像にまでおよび、それらのメディアもまた新たな災厄の相貌をとらえることに寄与していた。連日のようにテレビやインターネット上で流れていく膨大なイメージ群のなかにこそ、震災がもたらしたいまだかつてない風景をわたしたちは目撃することになったのだ。

 風景へのまなざし≒審美的態度は対象である風景のイメージ、ひいてはそれを生み出すメディアの機制と無関係ではない。かつてベルナール・スティグレールがイメージを見る経験のうちに「技術(メディア)」と「主体の能動性(まなざし)」という2つの側面を看取したように★2、双方には相互に影響を与えあう関係性がある。新たなメディアによって震災がこれまでにない相貌イメージで立ちあらわれたとき、それをまなざすわたしたちの知覚のありようもまた変容をきたしているのではないか。もしそうだとするならば、東日本大震災を主要なモティーフとした作品で、災厄の象徴たる「ゴジラ」がこれまでにないイメージとともにスクリーンに立ち上がったのは一つの必然である。


 東京湾沖にあらわれた巨大不明生物は蒲田に上陸、その体躯を引きずりながら街を破壊していく。日本政府が対応に追われる一方、巨大不明生物による被害が拡大する。超高速で進化する巨大不明生物は二足歩行を開始し、ふたたび東京湾へとその姿を消す。若手官僚たちを中心に政府が対策を思案するなか、第四形態へと進化した「ゴジラ」がふたたび東京を目指してこの国にあらわれる──。

『シン・ゴジラ』(2016年、庵野秀明総監督)は、誰の目にも明らかなように3・11をモティーフとした映画だ。蒲田の呑川を上ってくる第二形態のゴジラの表象は津波による被害を想起させ、蹂躙された街に山積した瓦礫は被災地の光景をわたしたちに強烈に思い起こさせる。ゴジラの移動経路から放射線が検出されるシーンは、炉心溶融メルトダウンによる原発事故(この福島第一原発の爆発はチェルノブイリ原子力発電所の「水蒸気爆発」を人々に連想させた)のアナロジーだろう。同作前半は5年前に起こった災厄の再演ともいうべき展開をみせていく。総監督の庵野自身、制作メモに同作のテーマを「原発事故みたく、広範囲に無作為に拡散してしまう恐怖」と綴る★3

 だが、本稿がアプローチしたいのは同作の震災という題材選択ではなく、むしろスクリーンに立ち上がったゴジラのイメージそれ自体である。執拗に東京の街を破壊し尽くす「震災」の象徴たるゴジラは、いかなる姿でわたしたちの前にあらわれたか。『シン・ゴジラ』はそれまでの「ゴジラ」シリーズとは決定的に異なる機制のもとに構築されている。もっとも抜本的な変更としては同作においてゴジラはごく一部のショットを除き、全編にわたってフルCGで描出された。これまでもCGによってゴジラが描かれたことはあるが、1954年に公開された初の『ゴジラ』(本多猪四郎監督。以後、 "ファースト「ゴジラ」" 表記)以来、かの怪物はギニョール(着ぐるみ)を使用した特撮を一つのアイデンティティにしてきたといっていい。ファースト「ゴジラ」であればセットにその身を置いた100キロ近いギニョールのゴジラがフィルムという支持体に記録されていたわけだが、一方の『シン・ゴジラ』はデジタル・データ上に仮構された平面的存在にすぎない。

 フルCG化によって、『シン・ゴジラ』のイメージは従来のシリーズにはない一つの傾向を示している。それはゴジラを遠景に配したショットの頻出である★4。ギニョールのゴジラという実物の対象を空間上の制約がある特撮セットのなかでとらえるとき、その映像は必然的に近景もしくは中景のショットが中心とならざるをえない。しかし、現実に痕跡(指標性)を持たない『シン・ゴジラ』は、どのような風景にもデジタル技術によってコンポジットすることが可能である。皇居をまなざすように冷温停止するゴジラを北の丸公園から眺める象徴的なラストシークエンスや、第四形態へと進化したゴジラが鎌倉沖から再上陸する場面、武蔵小杉から東京中央部を目指して侵攻するゴジラなど、同作ではわたしたちの知る風景のなかにかの怪物が配されるショットが枚挙にいとまがないほど散見される。

 しかし、このようなショットを可能にしたゴジラのフルCG化が、ある一つのメディア的変革のもとに達成されたことは、『シン・ゴジラ』についての先行する批評ではほとんど触れられていない。同作はゴジラが画面上にあらわれるショットを中心として、撮影以前に「アニマティック」という工程を踏んでいる。この中核技術によってこそ『シン・ゴジラ』はこれまでとは異なり「風景」の一部をなす存在へと変容した。

 アニマティックとは何か。それはおおまかに表現すれば、「動く絵コンテ」ともいうべき制作技術である(日本では「プリヴィズ(Pre-Visualization)」と呼称されることが多い)。撮影以前にゴジラの動態やカメラの軌道を仮構するアニマティックは、いわば映像の下書きと呼ぶにふさわしい。たとえば絵コンテが実際の作品の画角・レイヤー(位置関係)・図像を紙という平面上に規定するとすれば、アニマティックは「時間性を持つ空間」上で作品の骨格を規定する。絵コンテとの決定的な違いである時間性、そして空間性はアニマティックそれ自体が「シミュレーション映像」であることによって担保されているといっていい。

 アニマティックはCGを多用する実写作品の制作効率化を目的としてハリウッドなどで先行的に用いられているが、その利点は3次元をシミュレートした仮想空間において映像(コンテ)を構築することにある。実写映像にCG加工をほどこす場合、あらかじめ空間そのものをシミュレーションした映像コンテがあれば制作作業が大幅に効率化されるというメリットがあるためだ。長編映画への大々的導入としては同作が国内で初という新たなメディア技術によって、ゴジラは現実空間に実体を持つ存在ではなく、シミュレーションによる仮構的な被造物として実在の風景のなかに立ち上がることになったのだ。

 しかし、アニマティックによって平面上に彫琢された『シン・ゴジラ』の動態は、必然的にこれまでのゴジラにはない違和をともなってスクリーンにあらわれている。たとえば再上陸の後、都心部を破壊し尽くしたゴジラが東京駅のそばで運動を停止するシークエンスを見てみよう。このときゴジラの挙動は突如としてCG被造物であることを明らかにするかのように、カクカクとしたシミュレーションじみた歩みをみせる(このシークエンスは同作のソフト化にあたって公開されたアニマティックにおける下書きの動態とほぼ同じだ)。庵野自身が撮影を進めていくなか、ゴジラの動きを「プリヴィズ(アニマティック)どおりにしてください」と再三指摘していた事実もある★5。あるいは、ゴジラの質感にも虚構性がはらまれている。実際の生物の表皮(肌理)はその乱数的な凹凸によって複雑な光の反射を相互に繰り返す。現在の映像技術の水準ではその光の乱反射(生物の質感)までを十全に再現するシミュレーションは難しく、ここにもリアリティの壁が立ちはだかっている★6
 つまるところアニマティックという機制のもとにフルCG化したゴジラが、実写映像による風景にコンポジットされるとき、そこには必然的にイメージの境界が生まれざるをえない。カメラ・アイによる現実空間の再現前と、シミュレーションに出自を持つ平面的存在という現実性の審級を違えたイメージが同一スクリーン上で衝突する。

 美術研究者である加治屋健司は、かつて視覚イメージを「経験的なイメージ」と「超越論的なイメージ」の二つに大別して次のように述べている。


 経験的なイメージは、私たちが知覚している視覚イメージのことである[……]超越論的なイメージとは[……]私たちの経験に先立ち、それを可能にするイメージのことである。
 超越論的なイメージの典型例は地図である。地図は私たちが視覚を通して実際に経験する地形ではなく、測量を通して科学的に構成された平面イメージである。それは、遠近法に基づいて作成された視覚表象ではないため、特定の視点から描かれているわけではない。★7


 わたしたちが現実空間をまなざす視覚と近似したイメージ──加治屋はそれを「経験的なイメージ」と呼ぶ。実写映画や写真といった、網膜によく似た機能を持つレンズを内包するカメラによって立つメディアはもちろん、線遠近法を用いた具象画もまたそのような対象の再現前を志向する点で経験的イメージに分類することができるだろう。

 では、一方の「超越論的なイメージ」とは何か。それは「自然の模倣ではないイメージ」であり、「経験に先立つものの視覚的表現」である★8。この定義はまず、現実に痕跡(指標性)を持ち、対象の再現前を志向するようなイメージをしりぞける。引用部では超越論的イメージの例として「地図」が挙げられているが、それは地図が眼前の風景を目に映るように描出するのではなく、俯瞰的に風景をとらえ、それを平面上に再構成する抽象的なイメージだからである。

 加治屋は超越論的イメージの代表例として、地図のほかに「旗」や「数字」、「絵(マンガ)の中の絵」を挙げてもいる。旗や数字は写真のように現実に指示対象物を持つイメージと異なり、それ単体で象徴的/観念的な意味を持つイメージである。絵(マンガ)の中の絵もまた、「二次元平面のみに存在している、視点なき超越論的なイメージ」である★9。これらに共通するのは現実に痕跡を持たず、科学(地図)あるいは何らかの規則性(旗、数字)に則って構成された抽象的イメージであり、それはただちに光学シミュレーション上で生成される映像≒『シン・ゴジラ』にもあてはまる特性だろう。

 アニマティックというシミュレーション上でゴジラは、演算によってのみ描出される抽象的な存在であり、同時に震災を象徴するイメージでもある。二重の観念性をまとった『シン・ゴジラ』の相貌とはまさしく超越論的と呼ぶにふさわしい。現実に存在する特撮セットのなかでギニョールのうごめく姿を記録したファースト「ゴジラ」が経験的イメージを主にしていたとすれば、『シン・ゴジラ』では実写映像という経験的イメージの上にシミュレーションで仮構された超越論的イメージがコンポジットされている。審級の異なるイメージの衝突をはらみつつ、絶えずその境界を画面に露呈し続ける『シン・ゴジラ』の映像を、本稿では「界面的イメージ」と呼ぶことにしたい。

 議論を急げば、この界面的イメージとは東日本大震災を再演する同作において必然的に要請されたものだったのではないだろうか。かつてないほどの多様なメディアによって記録された先の震災は被災地の日常を奪い去り、わたしたちのもとに見たことのない風景を出来させた。この新たな災厄のイメージを象徴するように、ゴジラはアニマティックという機制のもとにこれまでにない相貌をまとってスクリーンに立ち上がった。歴史上稀にみる規模でこれまでの現実感を覆した先の震災は、わたしたちの日常感覚の埒外にある、いわば想像不可能な出来事でもある。この災厄を象徴するがゆえに、ゴジラはわたしたちがこれまで見慣れてきた風景のもとに超越論性をまとって屹立したのではないか。

 東日本大震災をモティーフとする作品およびそのメディア的機制の変容と、わたしたちの知覚のありようの影響関係を『Landscape of energy』『シン・ゴジラ』を取り上げながらここまで考えてきた。イメージ(メディア)と知覚の変容という大きなテーマをあつかうためには、より多くの対象の検証とさらなる議論が必要だろう。ここから本稿はいくつかの時代を横断しながら論を進めていくことにしたい。やがて議論は災厄をめぐるイメージのみならず、「風景」の問題系にまで拡張していくはずだ。

 時計の針は明治20年代、日本近代の始源にまで巻き戻される。


 この国が近代をむかえて以後、はじめて経験することになった災厄──それは5つの村と11の集落が跡形もなく姿を消す自然災害だった。死者477名を記録する近代日本がはじめて経験することとなった災厄とは、1888(明治21)年に福島県で発生した磐梯山噴火である。7月15日午前7時に発生した地震を契機に磐梯山は「水蒸気爆発」を15回以上繰り返し、その岩屑なだれは北麓に位置する村々を襲った(被害地総戸数は463戸にのぼる)。この災厄は明治・大正・昭和・平成をつうじて今にいたるまで最悪の被害を記録した火山噴火である。磐梯山はこの噴火によって山体の一部が完全に崩壊し、現在までその風景に災厄の痕跡を残し続けている。

 磐梯山噴火は近代化以後初の災厄として、それまでにない一つの特異な性格を有している。それはこの災厄が当時、普及間もない新たなメディア──写真によって記録されているということだ。磐梯山噴火は写真ジャーナリズムの歴史でも一つのメルクマールであり、当時の新聞は従来どおりでその被害状況を伝えているものもあったが、写真をもととした版画によって被災状況を伝える記事もこの災厄を契機に掲載されるようになっていった★10。留意しておきたいのは、この噴火が起こった翌年(1889=明治22年)には大日本帝国憲法の公布・帝国議会(国会)の開設があり、人々の帰属する共同体観が急速に「国」へと再編成されていく時期でもあったということだ。磐梯山噴火を全国へと周知する新聞も含め、視覚メディアのみならずあらゆる知覚や認識が近代化のもたらす変容のなかにあったといえる。

 ここでわたしたちは磐梯山噴火を当時の先端テクノロジーたる写真で記録し、ルポルタージュとともに新聞で言説を展開した思想家──田中智学(1861─1939年)の存在を看過してはいけない。智学は磐梯山噴火の発生の報を聞くと、発生の5日後には写真師を引き連れて現場へと向かっている。智学は被災地の様子を写真に収め、読売新聞にルポ(「磐梯紀行」)を連載として寄稿することになる。また被災状況を民衆に周知すべく、写真スライドを会場で投影する写真幻燈会を東京や近県各地で連日のように開催していく(当時の幻燈もまた人々の目には見慣れないメディアだったことは後述する)。

 田中智学とは何者か。智学の思想の要諦は「国体=仏法」という思想にもとづく超国家主義にあるといえるだろう。日蓮の教えに皇国主義的解釈を独自に加えることで、智学は天皇による世界統一を道義的に肯定する(ここに智学の造語でもある「八紘一宇」の世界が到来する)★11。やがて立正安国会を結成し、戦後には超国家主義として糾弾される思想を胚胎した田中智学だが、その一方で芸術活動にも積極的に携わっていたことはあまり知られていない。還俗する以前より智学は和歌・俳句に親しみ、新体詩や歌謡の作詞から小説・戯曲の執筆まで手掛けていた★12。写真や幻燈の活用もまた、そのような新進性をそなえた表現への興味によるものだろう。

 当時のメディア環境をより仔細に検討するならば、智学が被災地の様子を周知すべく使用した幻燈──光源を有する機械からスライドのイメージを壁面に投影するもの──に類似したメディア自体はすでに存在していた。幻燈の起源はおよそ17世紀半ばで、その技術はすでに日本に伝来しており、江戸時代には独自の進化をとげながら「写し絵」「錦絵」といった呼称で楽しまれていた。やがて開国にともなって鎖国下ではみられなかった西洋幻燈が輸入されると、従来の写し絵と区別する形で「幻燈」が誕生する。映画研究者の岩本憲児によれば、写し絵が芸能を中心にした見世物色の強いものだったのに対して、幻燈は「科学・歴史・地理・教育・道徳といった領域を対象」とし、「『文明開化』のための新知識を啓蒙する役割」をはたしていた★13。写し絵は絵を写像したが、幻燈は写真イメージを活用することで客観性や科学性を持つものととらえられており、つまるところこのメディアは、近代化という日本史上の一大転換点における知覚の変容の一翼を担っていた。

 幻燈が最盛期をむかえたのもまた明治20年代であり★14、磐梯山噴火はメディアとあらゆる認知のありようが急速に変容していくさなかに発生していた。智学が写真という新たなメディアによって記録し幻燈会で投影した、変わりはてた磐梯山の風景はまさにこの変容を象徴するかのようなイメージに思えてくる。災厄を契機とするメディアと知覚の変容──それは東日本大震災にわたしたちが見た問題系とも通底する事態でもある。議論を急げば、智学が後にかかわることになる磐梯山噴火をモティーフとした舞台作品は、『シン・ゴジラ』と照応するイメージを生み出すことになる。

 当時、磐梯山噴火の被害を伝える写真幻燈会に衝撃を受け、智学のもとに通いつめた一人の役者がいた。その男、五代目尾上菊五郎は智学の強い影響のもとに河竹黙阿弥と組んで一つの舞台演目をつくりあげる。磐梯山噴火を題材とした、その歌舞伎『是万代談柄こればんだいのはなぐさ 音聞浅間幻燈画おとにきくあさまのうつしゑ』(以下、『音聞浅間幻燈画』)は災厄から5年が経った1893(明治26)年に中村座で上演された。

『音聞浅間幻燈画』は直接的に磐梯山噴火を描くのではなく、その題にあるように舞台を1783(天明3)年に発生した浅間山噴火としていた。ただし、会場には智学の持ち込んだ磐梯山噴火における「火山弾や溶岩の『実物』」が展示されており、観客はそこで再演される災厄が磐梯山噴火をモティーフとしていることを了解していたようである★15。やがて、メディア変容の渦中において行われた災厄の再演たる『音聞浅間幻燈画』は、その第二幕において、ある特異なイメージを舞台上に顕現させることになる。

 第二幕の演出を仔細に検討してみよう。菊五郎は浅間山の風景に見立てた磐梯山のスライド映像(幻燈)を舞台の後方に映した。そして場面の進行がいよいよ噴火の瞬間になると「そのバック(磐梯山のスライド写像)が猛然たる爆音とともに割れた絵に代わる」演出を行った★16。またそれと同時に「濛々たる黒煙」が音響とともに焚かれ、幻燈機それ自体にも「車がついて居て廻る仕掛け」がほどこされていた。メディア研究者の大久保遼が指摘するように『音聞浅間幻燈画』は幻燈を使用しつつ、その一方で江戸期の写し絵に相当するような見世物性スペクタクルを含んだ舞台作品だった★17

 すでに述べたように新たなメディアの使用と、それをまなざす人々の知覚の同期的な変容という点で『シン・ゴジラ』と『音聞浅間幻燈画』は通底している。だが、さらに踏み込んでいうならば両者はそこに表出されたイメージの水準でも似た相貌をまとっているのではないか。『音聞浅間幻燈画』第二幕で映し出された幻燈のイメージは、舞台上の壁面に背景として平面上に投射されることになる。このとき観客は舞台空間上にじかにまなざしている役者の身体や小道具という経験的イメージと、その物語世界の秩序を内破するように壁面に「浅間山」として仮構される超越論的イメージの双方を認めることになるだろう。現実性の審級を違える両者の併置は、イメージの境界を露呈し続ける点で界面的イメージと呼ぶほかない。

 磐梯山噴火ははじめて写真によって記録された災厄という未知のイメージをもたらし、それは同時にわたしたちの知覚のありようもまた変容させていった。『シン・ゴジラ』と符合するように『音聞浅間幻燈画』には災厄とイメージの問題系が反復され、その舞台上には同種のイメージまでもが正しく回帰しているように見える。

 



 しかし、である。

 この『音聞浅間幻燈画』第二幕にほどこされた演出には、一つ判然としない事実がある。それは舞台上に映し出された幻燈による浅間山(磐梯山)の風景──それが写真なのか、絵なのか、史実としてははっきりとはわからないということだ。後年の伝記において智学は舞台に「背景に山の形を出し」たとしか書いていない★18。それが噴火の際にはその様子を描いた絵のスライドに差し替えられたのはたしかであるのだが、その前に観客が目にしていたイメージはどのようなものだったかは推測によるしかない。たとえば『新磐梯紀行──ルポルタージュ・明治21年の磐梯山噴火』で小桧山六郎はそこで使用された幻燈が活動写真(映画)の直前期のメディアであることを強調しながら当該の場面を振り返る★19。大久保はその舞台演出を伝える豊原国周による同題の絵を取り上げて、その浅間山(磐梯山)のイメージに写実性と遠近法の強調を見て「明らかに写真幻燈を想起させる」とも述べている★20

 智学自身が磐梯山噴火の写真幻燈会を全国で催行していた事実を想起すれば、そこに映ったイメージは写真と考えるのが自然のようにも思えるが、しかし、それではその直後に差し替えられた噴火を描いた絵画とのあいだに齟齬をきたすのではないか。黒煙が焚かれ、仕掛けによって振動する幻燈のイメージ──噴火の前に映し出されていた山の風景はなのか、それとも写真なのか判断のつかない非決定性をかかえこんでいる。
 

【図1】絵画に描かれた『音聞浅間幻燈画』
 

 だが、この非決定性とははたして史実の不確実性にだけよるものなのだろうか。視点を変えれば、舞台上に映写されたイメージの非決定性はある仮説を導出する契機にもなりうるように思える。それは当時の観客もまた、そこに投射されたイメージに写真でも絵でも、どちらでもないイメージを幻視していたのではないか、という仮説である。つまり、舞台空間を裏切る平面性(イメージの境界)をともないながら舞台に顕現した幻燈に、観客は二つの現実性の審級が曖昧に融解していくイメージを見たのではないだろうか。

 これはここまで確認してきたメディアの変容のみならず、知覚の変容を主とした問題でもある。これまでの議論はどこか新たなメディアの創出と、それに影響を受けたまなざしの変化という一方向的な因果のもとに進んできた。しかし、冒頭に確認したようにイメージを見る経験とは、メディアの変容だけでなく、わたしたちの知覚の変容とも相互的な影響をおよぼしつつ形成されていくものだ。

『音聞浅間幻燈画』におけるイメージの非決定性とは、つまるところメディアの問題系を超出した、人々のイメージへの審美的態度──ここでは風景観の変容──によるのではないか。そうであるなら、わたしたちはここで舞台上の幻燈を眼前にした当時の観客の認識の布置そのものを問わなくてはならない。かつて批評家である柄谷行人は『音聞浅間幻燈画』が上演されたまさに明治20年代において、この国で「風景」が発見されたと述べている。


「風景」が日本で見出されたのは明治二十年代である。むろん見出されるまでもなく、風景はあったというべきかもしれない。しかし、風景としての風景はそれ以前には見出されなかったのであり、そう考えるときにのみ、「風景の発見」がいかに重層的な意味をはらむかをみることができるのである。★21


 柄谷のいう「風景としての風景」とは何か。それはこの国における風景観を構成してきた伝統的な風景画とはまったく断絶するような形で到来することとなったイメージのことである。開国にともなう近代化はこの国に新たなイメージの大々的な流入をもたらした。幾何学的遠近法にもとづく絵画、あるいは写真など網膜に映る像に近いイメージといえるそれらは、日本において主流だった風景画のイメージとは異なる制度を持つものだった。

 美学者の岸文和は『江戸の遠近法──浮絵の視覚』において、絵画における視覚モデルを大別して平行遠近法(投象図)と、幾何学的遠近法(透視図)に分けた上で【図2】、それぞれを大まかに西洋絵画の伝来以前/以後の日本における視覚モデルと対応させていく。
 投象図の特徴とは、「三次元空間において平行な直線群を、画面上でも平行なままに描」き、対象の持つ「概念的本質」をとらえた視覚経験に先立つイメージの制度である。この国の従来の風景画はおよそ投象図の制度のもとに描かれたものが主だった。それは目に映った風景を写実的に描き出すイメージというよりは、物語やテキストなどで定型化された形で流通し、身体が参与しなくてもイメージが人々のあいだで共有されるような規範化されたイメージである。たとえば古くから和歌や俳句で詠まれていたようなイメージや、あるいは「名所」として人々が共通した情景を思い描くことのできるイメージがそれにあたるだろう。美術研究者の柏木智雄は日本の風景画の変遷を述べるなかで、「絵師がある特定の場所すなわち実景に関心を寄せて描き始めるのは、若干の例外を除いて、概ね近世以降、江戸時代も半ば以降」とみている★22
 

【図2】投象図と透視図の比較
 

 しばしば日本の伝統的風景画は、異時同図などのように複数の視点を持ち、消失点のない多中心の構図をとったことを思い出してもわかるように、それらはいわば「『もの』ではなく『こと』を」描くものであり★23、日本における風景画とは人々のあいだの共通観念や先験的な概念を描く「超越論的イメージ」だったのだ。

 投象図が対象を無限遠点(はるかに遠く高いところ)から見通す俯瞰的なパースペクティヴによって描かれるのに対し、一方の透視図は特定の地点(1点)と特定の時点(瞬間)に結びついた画家の視点から描かれたイメージ★24である。それは眼前の風景を見たままに、写実的に映し出すことを志向する点で、経験的イメージに分類できるだろう。

 柄谷のいう明治20年代に発見された「風景としての風景」とは、この透視図にもとづいた風景イメージのことを指すはずだ。和歌や俳句で詠まれてきた、あるいは景勝地として人々のあいだでイメージの規範化された名所絵ではなく、眼前にあるアノニマスな風景をただ見えるままに写し取る風景画の誕生。そこには存在するにもかかわらず見出されてこなかった風景を審美的に映し出す点で、それまでにないまなざしが生まれたといえるだろう。

 農学者の勝原文夫は『農の美学──日本風景論序説』のなかで、日本における風景へのまなざしを「旅行者的審美の態度」と「定住者的審美の態度」に分類し、両者のタイプの景観として「探勝的景観」と「生活的景観」を対応させて次のような図を示している【図3】。
 

【図3】勝原文夫『農の美学──日本風景論序説』、論創社、1979年、15頁をもとに制作
 

 文芸評論家の加藤典洋は『日本風景論』で、明治20年代における「『風景』の発見」とは探勝的風景ではなく生活的風景──「ただの風景」を見出すものだという論を展開している★25。日本には当初「探勝的風景」だけがあり、やがてただの風景を旅行者的審美の態度でまなざす図3でいうところの破線部の視線を経て、「生活的風景」を発見する。この破線部の視線とは、アノニマスな風景が、今まで見たことのないイメージをともなって立ち上がるのを発見する視線であり「風景としての風景」の発見でもある。

 だが、ここで留意したいのは従来にないイメージが流入したからといって、ただちにわたしたちの知覚のありよう(風景観)が抜本的に変容することはありえないということだ。およそあらゆる文化がそうであるように、外部からの新たな刺激は短期的には衝突を生みながらも長期的に受容され、やがてその総体はゆるやかに変化していくはずである。

 歴史を振り返れば、明治20年代における「『風景』の発見」以前からこの国には透視図のパースペクティヴにもとづく風景画が描かれていた事実がある。つまるところ知覚のありようが変容をきたす以前に、その予兆としての新たな機制を持ったイメージの流入が確認できるのだ。この国が幾何学的遠近法による経験的イメージを志向する絵画表現と出会ったのは16世紀半ば、スペインやポルトガルとの交易による西洋画や銅版画の伝来を通じてである。この流入は禁教令によって断絶し、その後の鎖国政策によって継続的な影響を残すことはなかったが、江戸時代中期に8代将軍・徳川吉宗が行った漢訳洋書の輸入制限の緩和によって、ふたたび幾何学的遠近法の導入が試みられる。これ以降、浮絵、眼鏡絵、泥絵といった合理的空間表象を志向するような絵画がこの国でにわかに存在感を増しはじめる。「『風景』の発見」──まなざしの変容を見る以前における異なる機制にもとづく絵画の流入は、この国にある特徴的なイメージを生み出すことになる。先に引いた『江戸の遠近法』において、岸はもう一つ重要な指摘を行っている。それは幾何学的遠近法が江戸時代における風景画=名所絵にイメージの境界を生起させていた、という事実である。

 岸は当時の浮絵に審級の異なるイメージが混在する形で同一平面上に表出していることを指摘した。たとえば奥村政信による《両国橋夕涼見大浮絵》【図4】をみてみよう。ここでは、近景にあたる建物内部の空間は写実的な透視図に則っているにもかかわらず、遠景は従来どおりの投象図であり、それは地誌を思わせるように平面的かつ観念的に描かれていることがわかる。
 

【図4】奥村政信《両国橋夕涼見大浮絵》、1745年
 

 岸はこのほかにも具体的な例を列挙しながら、浮絵にあらわれた審級の異なるイメージの衝突のありようを仔細に分析していく。幾何学的遠近法による経験的イメージの流入は、江戸中期の風景画において、すでに界面的イメージを生み出していたのである。

 ここで以下のことが明らかになる。新たなメディア機制にもとづくイメージの流入は、まず既存のイメージや知覚のありようと衝突を生む。それは『シン・ゴジラ』におけるアニマティックにもとづく表象や、『音聞浅間幻燈画』における幻燈の使用がイメージの境界を生んでいたことにあらわれている。だが、新たなイメージがさらに浸透していくなかで、人々の知覚の布置は徐々に再編成されていく。明治期においては近代化にともなう認知の変容や、写真や西洋絵画の本格的な流入がそれを加速させた。ここに勝原が示した図3における破線部──一つのまなざしが別種のまなざしへと変容していく過程──があり、それはやがて柄谷が明治20年代に見出した「『風景』の発見」へといたるのではないか。

 この風景観の変容を見るとき、《音聞浅間幻燈画》は新たなメディアの導入によってイメージの境界を生起しつつ、同時にそこで投射された浅間山(磐梯山)の風景イメージに非決定性がはらまれた理由が見えてくる。それは先に述べたようにメディアの問題であると同時に、知覚の布置をめぐる問題でもあった。当時の観客が舞台上の写像に絵でも写真でもないイメージを幻視したのは、そのまなざしが風景への二つの審美観のあいだに位置していたからではないだろうか。では、超越論的イメージでも経験的イメージでもないものを風景に見出す、その過渡期なまなざしとは一体どのようなものか。
 ここで、わたしたちは「風景としての風景」が見出されようとする同時代に特異な筆致を残した一人の画家を参照したい。かつて「幕末洋風画工最後の人、明治洋画家の最初の人」と評され、まさしく近代以前/以後をまたぐ「あいだ」の画家・高橋由一(1826-1894年)である。日本洋画のパイオニアとして語られる由一だが、この画家は人生の半分以上を江戸時代に生きており、ようやく「美術」が日本で制度化しはじめた明治20年代にこの世を去ってしまう。留学経験もなく、当初は狩野派門下で絵を学んでいる点で由一は二つのイメージの審級のはざまにいた画家といっていい。

 由一は《不忍池図》(1880=明治13年頃)などにおいて透視図に則った「洋画」を描いているようで、しかし、その前景に断片化した木や花などを極端にクロースアップする構図は琳派や浮世絵の機制に負っていることはつとに指摘されている★26。あるいは、当時の山形県令・三島通庸による委嘱のもとに新道開削工事を行ったばかりの東北地方をとらえた風景画【図5】【図6】を見てみよう。
 

【図5】高橋由一《鑿道八景》より「第三景 片洞門」、1885年
 

【図6】高橋由一《酢川にかかる常盤橋》、1881年
 

 東北新道を描いたこれらの絵がユニークなのは、それが写真師・菊地新学が撮影した写真をもとにして描かれたことと、しかし同時に、由一の筆致は写真に映ったイメージをただ描き写しているわけではないことだ。ここでも由一は二つの風景へのまなざしに引き裂かれている。美学者の小林俊介は「全体の遠近法的・三次元的構成を写真に依拠しながら、しかし由一の手は細部の実在感を追求するあまり」画面全体のバランスを崩してしまっていることを指摘する★27。全体的構成から逸脱するような細部の強調とは、まさしく浮世絵のモードではないか。東北新道という近代化によって新たに見出された風景を描くにあたって、由一が残した「新旧混交ノ風景一層ノ美ヲ増シ」という記述が、ここまでの議論をたどると重層的な意味をはらむように思えてくる★28。写真という経験的イメージを下地にしつつも★29、それをもとに描く絵に筆致や構成で旧来の風景画の機制を引きずっていた由一はまさしく「新旧混交」の風景画を描いていたのではないだろうか。

 由一の描いた、超越論的イメージと経験的イメージ、そのどちらにも属さない風景画とはつまるところ『音聞浅間幻燈画』第二幕で観客が浅間山(磐梯山)の写像に幻視したものと同じではないだろうか。それは風景へのまなざしの変容のなかで、それまでの超越論性をまとった風景画でもなく、しかし経験的イメージでもない非決定性をかかえこんでいる「半透明なイメージ」である。そこではイメージにおける二つの現実性の審級が影をひそめつつも、双方が曖昧に融解することでその境界は見えなくなっている。明治期における風景観の変容は、同時代の作品表象にも絵と写真──双方の現実性が不確定的に融解する半透明なイメージを生み出すにいたっていた。

 ここまでわたしたちは新たなメディア的機制にもとづくイメージの流入が、既存のイメージを支える制度とのあいだに衝突を起こし、イメージの境界を生起することを複数の時代にわたってまずは確認してきた(『シン・ゴジラ』『音聞浅間幻燈画』《両国橋夕涼見大浮絵》)。だが、人々の知覚のありようは新たなイメージが大々的に浸透していくにつれ、徐々に変容をきたしていく。明治20年代における「『風景』の発見」がその例であり、そこでは超越論的イメージによっていたこの国の風景画が透視図や写真の機制によって描かれていくようになっていった。その過渡期を象徴するイメージとして『音聞浅間幻燈画』第二幕で投射された写像があり、高橋由一の残した風景画があるというのが本稿のたどってきた理路である。

 ここで、わたしたちはふたたび現代へと目を向けてみたい。『シン・ゴジラ』がイメージの境界をはらんだのは、単にアニマティックという新たなメディア的機制によって制作されていただけではなく、それが否応なくわたしたちの風景へのまなざしを変容させていく震災をあつかっていたからではなかったか。もし3・11がもたらしたこれまでにない災厄のイメージが、明治20年代における「『風景』の発見」と同様にわたしたちの風景へのまなざしに変容をもたらしているとするならば、それは『シン・ゴジラ』の表象の他に、どのようなイメージを現代において生み出したのか。ここで先の災厄をあつかったもう一つの作品を俎上に載せることで、わたしたちは現代における風景観の趨勢を検討することができるだろう。


 東京に住む高校生・立花瀧はある日突然、地方にある糸守町に住む宮水三葉との「入れ替わり」を日常的に経験するようになる。やがて「入れ替わり」が途絶えると、瀧は消失していく記憶をたよりに三葉を探しに行く。瀧が糸守町にたどり着くと、そこには3年前の彗星の落下によって跡形もなく破壊された町の景観が残されていた。三葉もまた隕石によって命を落としていたことが明らかになる。瓦礫が水面に山積する様子や立ち入り禁止のテープは、見る者に否応なく3・11の記憶を想起させる。やがて瀧は時空の跳躍によって彗星落下による犠牲から糸守町の人々を守り、最終的に瀧と三葉の2人の再会を描いて物語は幕を閉じる――。

『シン・ゴジラ』と同年に公開され、邦画史上有数の動員を記録した『君の名は。』(2016年、新海誠監督)もまた東日本大震災を彗星の落下に象徴的に仮託し、その再演をモティーフに持つことはつとに多くの指摘がなされている。本稿の問題意識に沿っていうならば、新海誠は「風景」の作家として語られてきた作家の一人でもある。『君の名は。』もまた、メディアの変容と緊密に結びついた「風景」がはらまれているのだ。

 新海はデジタル技術の進展が容易にした写真を取り込む作画によって★30、一見するとその作品にフォトリアリスティックな背景描写を与える作家だ。カメラ・アイによる風景の再現前とは、いわばわたしたちの視覚に近しい経験的イメージといっていい。写真をもととした奥行のある背景以外にも、新海作品でのカメラ・アイへの擬態は看取することができる。最たる例はレンズフレアやゴーストといったカメラでの撮影にしか発生しないはずの光学事象が画面に描き込まれていることだろう。太陽を画面にとらえたショットでは必ずゴーストが描き込まれ、空気中に漂う塵が光を反射する演出までもが挿入される★31。アニメーションには本来不要なはずのカメラ撮影特有の現象を描くことで、新海作品の(疑似)フォトリアリスティックな風景は成り立っている。これらはアニメーションがデジタル的転回によって「ニューメディア」化★32したことによって容易に可能となった表現でもある。

 ただし、背景美術に写真取り込みなどの空間を志向する技術を導入しながらも、新海のキャラクター描写はじつに平面的な「書き割りっぽさ」をそなえてもいる。奥行のある背景のなかに、従来のセル・アニメ風のタッチで描かれた平面的キャラクターがコンポジットされているわけであり、原理的に考えればここにはイメージの境界が生起する余地があるように思われる。だが、わたしたち観客の多くはそのイメージの審級のずれを意識しただろうか。

 答えは否、である。『君の名は。』ではキャラクターと背景美術の境界は複層的に縫い合わされているとみるのが正しい。すでに多くの指摘がなされているが、新海の描く風景はときに写真を取り込みながらも決して自然ではない。まず特徴的なのはその鮮やかな色彩だろう。色調の幅を極端に広げたその風景は通常のカメラの感度を超えている点で、描かれた絵ならではの特性を有している。また『君の名は。』で美術監督を務めた丹治匠は、このキャラクターの平面性と背景美術の空間性を折衷するために、「セルの密度に合わせて背景のハイライトの細かさを調整する」といった工夫を行っている★33

 この平面的キャラクターと空間的な背景美術の併存は、京都アニメーション制作の諸作品はじめ、デジタル的転回を経たこの国の多くのアニメにおいて発生している今日的事象であることを考慮すれば、もはや一つの世界観として人々に受容されているといっていい。それは現実模倣の追求のはてに早々に3DCGによるアニメーションを導入したディズニー/ピクサーとは異なる、現代日本のアニメーションにおける新たな現実性である。

 ここまでの議論に引きつけて述べるならば、二つの現実性の審級、そのどちらでもない『君の名は。』の風景もまた「半透明なイメージ」ということができるだろう。ただし、このとき同じく東日本大震災の再演をモティーフとした『シン・ゴジラ』の風景が界面的イメージをともなっていたこととの差異もまた立ち上がってくる。仮にメディア的機制に論点を絞るならば『シン・ゴジラ』が国内実写長編初のアニマティックの大々的な導入だったのに対して、『君の名は。』はすでにこの国の視聴者にとって所与のものとなった技術とイメージでその風景を彫琢している。新奇なメディアの流入がイメージの境界を生み、その後に半透明なイメージが生成されるという議論に則れば、この差異は理解できる余地がある。

 だが、わたしたちはここで現代と明治期の視覚モデルの布置が異なるという前提をこそ思い出さなければならない。『シン・ゴジラ』および『君の名は。』──これらの界面的/半透明なイメージは一体いかなる風景観の変容のもとに生起しているのかという点に留意する必要があるだろう。明治20年代のメディアと風景観の変容を振り返ったとき、そこには超越論的イメージ(旧来の風景画)から経験的イメージ(風景としての風景)への移行という傾向を認めることができた。その過渡期において、たとえば高橋由一は半透明なイメージを描出するにいたったわけだが、新海が描く風景とは写真(経験的イメージ)をもととしながらも平面的キャラクターとの折衷を志向した加工をほどこしているのであり、明治20年代のベクトルとはちょうど反対の性質を持っている。そして『君の名は。』における風景の超越論性への志向は、じつは作品の主題とも緊密に呼応しているのではないか。

 わたしたちはここで新海が描いたポスト震災映画は同作がはじめてではないことに目を向けてみたい。新海はその前作『言の葉の庭』(2013年)をつくるにあたって、その制作意図を次のように同作の趣意書に綴っていた。


 3・11の震災以後、僕たちは自分たちの足元がいかに脆弱なものかを知った。地質学的に日本列島が、地政学的に日本国が、インフラとしての自分たちの社会や学校が、いかに不安定で特殊で孤独であるか。[……]東京の風景はおそらく、数年か数十年のうちに訪れるかもしれない巨大な災害により大きく変わってしまうかもしれない。[……]新宿駅付近の姿は常に様変わりしているし、震災以降は「いずれ失われる景観」という意識が拭えない。★34


 新海は東日本大震災を受けて新宿を「いずれ失われる景観」、つまりかつてあった風景として先取的に『言の葉の庭』で描いたのである。それはいわば特定の瞬間、特定の視点から見たままに描き出される景観というよりも、新海個人の心象として特定の時空に縛られることのない「新宿」のイメージとはいえないだろうか。この「新宿」はかつての名所絵のように、抽象化を経ることで人々のあいだに流通するような観念的な「美しい新宿」である。そして、ふたたび『君の名は。』に目を向ければ、このような新海の態度は同作にも通底していることが明らかになる。

 どういうことか。物語終盤、大人になった瀧はすでに忘れてしまった糸守町での災厄を記す書籍を紐解きながら、次のように回想する。「今はもうない街の風景に/なぜこれほど/心を締めつけられるのだろう──」。このとき瀧のモノローグが糸守町にではなく、新海が繰り返し描いてきたNTTドコモ代々木ビルを中心に据えた新宿の「風景」を映すショットに被せられていることを見逃してはいけない。

 新海はここでいつか消え去っていくことを前提としてかつてあった新宿を描いている。このときその風景は今ある新宿の景観ではなく、永遠を志向する観念的「新宿」へと変貌することになる。『君の名は。』は半透明なイメージのうちに、たしかに超越論性への志向を示しているといえるだろう。
 そして、この志向は『シン・ゴジラ』における風景にもたしかに刻印されている。すでに本稿は同作に実写による風景(経験的イメージ)と、シミュレーションによるCG被造物たるゴジラ(超越論的イメージ)の併置という界面的イメージを見た。だが、ゴジラの冷温停止を試みるラストシークエンス「ヤシオリ作戦」における東京駅の風景は、じつは実写映像ベースではなくフルCGで彫琢されている。その風景はアニマティック制作を担当した加島裕幸によると、2021年に建造予定の高層ビルまでもが先取的に描き込まれており★35、現実の再現前ではなく架空の観念的「東京」ともいうべきイメージになっている。これまで経験的イメージによってとらえられてきたゴジラをはじめてフルCGという仮構性のもとに彫琢した『シン・ゴジラ』はその風景においても超越論性への志向を一部で示していたのである。

『君の名は。』そして『シン・ゴジラ』がともに超越論化する風景をはらんでいるのはなぜなのか。それは震災というモティーフ、そしてデジタル映像というメディア的特性の双方に鑑みることで明らかになるのではないか。哲学者スティグレールは指標性をその特性に持つアナログ写真にあった「これ‐が‐あった」という本質が、デジタル化によって不確定性をおびるようになったという★36。ハロゲン化銀結晶という物質的な記録(痕跡)を持たないデジタル写真は後からの操作が容易であり、そこにあらわれたイメージはつねに「これ‐は‐おそらく‐なかった」という可能性につきまとわれることになる。

 明治20年代における風景観の変容と異なり、3・11の津波は東北沿岸部の景観を文字通り「かつてあった風景」へと変貌させた。それはかつての町を一瞬のうちに呑み込み、以前の風景を喪失させてしまう。「かつてあった」とは、つねに「それはなかったかもしれない」という忘却の可能性にさらされている。この新たな風景観を出来せしめた震災を、『シン・ゴジラ』あるいは『君の名は。』がいまだそこにある東京を舞台として再演してみせた意味はここにあるのではないか。わたしたちのかつての風景を「なかったかもしれない」ものへと変貌させた震災を、いまだそこにある東京の風景を「おそらく‐なかった」ものとして超越論的に彫琢することで虚構上で想像させること。『シン・ゴジラ』あるいは『君の名は。』はデジタル映像がはらむ不確定性によってこそ津波がもたらした風景観の変容を表現し、その災厄を再演した。実写映像や写真によってとらえられた、たしかにそこにあった風景をもとにしつつ、『シン・ゴジラ』は一部に超越論的イメージ(ゴジラ、近未来の東京駅)を接合することで「そこにないはずの風景」を描き、『君の名は。』はそれを加工のうちに「かつてあった風景」として描出している。それはいまだそこにある東京の景観を超越論性のもとに描きなおすことで、震災を経たわたしたちの風景観の変容を象徴するイメージではないだろうか。

 東日本大震災はわたしたちの風景を変えてしまった。同時に、小型化・高性能化したカメラによって記録されたその震災はこれまで見たことのない災厄の相貌をとらえることにもなった。本稿で取り上げてきたいくつかの作品はドローンやアニマティックなど新たなメディア的機制のもとに、震災を経たわたしたちの知覚のありようの変容を象徴している。そこで浮かび上がってきたのは、現代におけるイメージの再超越論化への趨勢である。超越論的イメージがはらむ「それ‐が‐あった」という映像への信が疑念に付されることは必ずしも言祝がれてきたわけではない。だが、『シン・ゴジラ』と『君の名は。』が描いてみせたのは、デジタル映像がはらむ「それがなかったかもしれない」性質にこそあの災厄を描出するという可能性だ。

 これまでの議論を振り返ればわかるように、経験的イメージ、超越論的イメージの双方はおよそわたしたちの生み出すイメージのすべてに潜在する。時代によってその趨勢が変化することはあるだろう。だが、この世界には想像しえないことがあり、それは幾度となく、そして繰り返し──社会を襲う出来事としてこれからも出来する。そのとき、超越論的なものはいつでもわたしたちのまなざしに回帰してくるだろう。

 


★1 警察庁広報資料「被害状況と警察措置」(2017年9月8日)
★2 ベルナール・スティグレール「離散的イマージュ」、ジャック・デリダ、ベルナール・スティグレール『テレビのエコーグラフィ――デリダ〈哲学〉を語る』、原宏之訳、NTT出版、2005年、235頁。
★3 庵野秀明責任編集『ジ・アート・オブ シン・ゴジラ』、グラウンドワークス、2016年、6頁。
★4 フルCG化によって近景でとらえられたゴジラもまた、これまでのシリーズでは描きえなかった豊穣な「細部」を獲得することになる。たとえば同作におけるもっとも抜本的な形態の変更だった尾の表象(先端には第2の顔が刻印されており、単独で画面を覆い尽くすに足る存在感を獲得した)、第2形態から第3形態への進化に際しての脱皮を思わせる肌理の表象、線状火炎を吐き出すときに複数に分裂する開口部など、いずれもこれまでのゴジラシリーズを支えてきた「ギニョール」では描きえなかった表情といえるだろう。
★5 庵野秀明責任編集、前掲書、458頁。
★6 誤解のないようにただちに言い添えておけば、筆者は従来のアクターが操る「着ぐるみ」のゴジラにリアリティがあったと主張したいわけではない。ここで問題としているのはどちらにより現実性があったかという比較でなく、ゴジラが現実空間に実在したか/平面に描かれたものであるか(指標性をともなってカメラに記録されたか否か)という存在論的問いだ。実際、ファースト「ゴジラ」にはギニョールに身を包んだ中島春雄という現実的な指標(痕跡)はあるものの、特撮セットというすべてを縮約した映像に虚構性ははらまれざるをえない。換言すれば『シン・ゴジラ』における虚構性は空間表象を裏切るゴジラの平面性に位置しており、それは従来のシリーズとは別種の虚構性だということである。
★7 加治屋健司「マンガと美術――現代美術批評の観点から」、鈴木雅雄編『マンガを「見る」という体験――フレーム、キャラクター、モダン・アート』、水声社、2014年、164頁。
★8 同論文、164頁。
★9 同論文、167頁。
★10 猪瀬直樹『ミカドの肖像』、小学館、1986年、第15章を参照。
★11 宮下隆二『イーハトーブと満洲国――宮沢賢治と石原莞爾が描いた理想郷』PHP研究所、2007年、第3章を参照。
★12 山口昌男『敗者学のすすめ』、平凡社、2000年、277頁。
★13 岩本憲児『幻灯の世紀――映画前夜の視覚文化史』、森話社、2002年、第2─3章を参照。
★14 前掲書、130頁。
★15 大久保遼『映像のアルケオロジ――視覚理論・光学メディア・映像文化』、青弓社、2015年、130頁。
★16 田中智学、『わが経しあと』、師子王文庫、1977年、41頁。※かっこ内補足は筆者による。
★17 大久保遼、前掲書、135頁。
★18 田中智学、前掲書、41頁。
★19 小桧山六郎『新磐梯紀行――ルポルタージュ・明治21年の磐梯山噴火』、歴史春秋社、2000年を参照。
★20 大久保遼、前掲書、133頁。
★21 柄谷行人『日本近代文学の起源』、講談社学術文庫、1980年、20頁。
★22 柏木智雄「風景画への目覚め――江戸後期の日本」、『明るい窓:風景表現の近代』、大修館書店、2003年、29頁。
★23 土方明司「リアル(写実)のゆくえ」、『リアル(写実)のゆくえ――高橋由一、岸田劉生、そして現代につなぐもの』、生活の友社、2017年、23頁。
★24 岸文和『江戸の遠近法――浮絵の視覚』、勁草書房、1994年、15頁。
★25 加藤典洋『日本風景論』、講談社、2000年を参照。
★26 本文中で言及できていない研究としては高階絵里加「高橋由一《山形市街図》と江戸名所絵」(『人文学報』101号、京都大学人文科学研究科、2011年)などがある。
★27 小林俊介「高橋由一の『写真』と『風景』――由一の東北写生を中心に」、山形大学附属博物館編『山形大学附属博物館50周年記念明治の記憶――三島県令道路改修記念画帖』、山形大学附属博物館、2004年。
★28 柏木智雄、前掲書、154頁。
★29 由一が写真のもたらす経験的イメージに惹きつけられつつも、従来の日本絵画の持つ平面性を捨て去れなかったことは、写真家・横山庄三郎とともに「写真油絵」という珍奇なメディア制作に携わっていた事実にもあらわれていることをここでは指摘するにとどめたい。写真油絵とはガラス板に転写したい写真を貼り合わせ、油で保護・定着させた後に裏から油絵具で着色するメディアである。写真という対象の再現前を志向するイメージを平面的に着彩するという、きわめて「半透明なイメージ」の制作に由一はかかわっていたのだ。
★30 ただし、すべてのレイアウト作業で写真を利用しているわけではなく、たとえば『秒速5センチメートル』では写真ベースの背景作画は全体の40%程度である。※『新海誠美術作品集 空の記憶』(講談社、2008年)を参照。
★31 荒川徹「多挙動風景――動く絵画─写真としての新海誠」、『ユリイカ』2016年9月号、青土社。
★32 レフ・マノヴィッチ『ニューメディアの言語――デジタル時代のアート、デザイン、映画』、堀潤之訳、みすず書房、2013年。
★33 丹治匠、中田健太郎「色彩と陰影の向こうに」、『ユリイカ』2016年9月号、124頁。
★34 『「新海誠展─ 『ほしのこえ』から『君の名は。』まで─」展覧会図録』、朝日新聞社、2017年、103頁。
★35 庵野秀明責任編集、前掲書、240頁。
★36 スティグレール「離散的イマージュ」、前掲書を参照。

山下研

1989年生まれ。ゲンロン批評再生塾 第二期総代。東京都杉並区出身。慶應義塾大学卒。出版社に勤務中。関心領域は映画を中心とした視覚文化全般。批評家養成ギブス三期/批評再生塾二期。
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