【『ゲンロン7』より無料公開】距離の回復|東浩紀

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初出:2017年12月15日刊行『ゲンロン7』
ゲンロン7』をお送りする。本誌は9号まで、3年間の刊行を予定して創刊された。今号からその最後の年に入ることになる。

『ゲンロン』は、批評の価値を甦らせることを目的に創刊された。ここで「批評」とは、単なる批判を意味しない。目のまえの対立関係に巻き込まれ、現実を単純化するのではなく、複雑なものを複雑なまま、より俯瞰的かつ理論的に、ときに「無責任」かつ「残酷」な距離をもって接する人文知固有の視点、それこそを批評と呼んでいる。いまの日本は、そのような視点を失っている。

 批評の喪失は日本だけの問題ではない。現代はポピュリズムの時代である。ポピュリズムの本質は「近さ」にある。ポピュリズムが卓越した時代においては、対象と距離を取ること、それそのものが悪と見なされる。政治家も大学人もジャーナリストも、「当事者」に「寄り添う」ことにしか、そして「いまここ」の問題に反応し「立ちあがる」ことにしか、正義の根拠を見いだせなくなる。『ゲンロン』は、そのような時代精神に抗い、ふたたび距離の価値を取り戻そうと目論む雑誌である。

 とはいえ、そのような立場は理解されにくい。本誌はポピュリズムに抗うため、「いまここ」から距離を取る。だから政治的な態度を明確にしない。支持政党も明らかにしないし、運動にも参加しない。本誌はむしろ、そのような距離のない反応だけが「政治」「現実」に向き合ったことになるという、その思い込みそのものを疑い、乗り越えることを目指している。これは決して、支持政党を明らかにしたり運動に参加したりすべきでないという意味ではない。ぼくが言いたいのは、それだけが政治と現実のすべてではないということだ。しかしいまの日本では、このような発言も手の込んだ現実逃避かシニシズムにしか見えないだろう。その誤解は広く共有された「政治」「現実」の定義そのものに起因しているので、覆すのは容易ではない。
 したがって、本誌がこの2年、まがりなりにも好評をもって迎えられ、出版を継続してこれたことは、望外の喜びである。創刊準備号にあたる『ゲンロン0 観光客の哲学』がベストセラーとなり、大きな賞をいただいたこともまた予想外だった。

 それらの成功はいま、ぼくを『ゲンロン』から解き放つのではなく、逆に、このポピュリズムへの抵抗の場所をできるだけ長く維持していく、あらたな責務を与えるものであるように感じられている。それゆえ、ぼくは本誌について、9号では終刊させないことを決めた。第1期は9号でいったん締めるが、そのあとは第2期の『ゲンロン』が続く。第2期の詳細はまだなにも決めていない。デザインは変わるかもしれない。刊行頻度も変わるかもしれない。いつかはぼくが編集を降りるときも来るのかもしれない。しかしそれでも、この『ゲンロン』は、弊社が存続するかぎり、すなわちぼくが批評家であるかぎり、続いていく、続いていかざるをえない存在になったのだと、そう感じている。

『ゲンロン7』は、おもな特集に「ロシア現代思想II」を、小特集に「哲学の再起動」を掲げている。

 主特集の「ロシア現代思想II」は、タイトルが示すように、前号の「ロシア現代思想I」の続編にあたる。こちらについては、Iに引き続き、ロシア文学者で東京大学准教授の乗松亨平氏に監修をお願いした。

 IもIIも独立して読むことが可能だが、あえて役割を明記すれば、乗松氏が導入で記しているように、Iが思想編だとすれば、今号のIIは社会・文化編とでも呼べるかもしれない。じつはIのほうは、あまりにハイブロウかつストレートにロシア思想の本丸に迫りすぎたのか(ぼくとしてはそれこそ哲学徒として興奮する話だったのだが)、一部読者から高い評価を得た一方、戸惑いの声も寄せられることになった。今号の目次はより具体的かつジャーナリズムに近く、冷戦崩壊後のロシア社会の変化を細かく追う共同討議や年表、反プーチンデモの背景を分析する論文などを収録している。読者によっては、むしろこちらから読み始めたほうがよいかもしれない。
 前号でも記したように、ぼくがロシア現代思想の紹介を企てたのは、それが日本の読者にとって、自分自身が置かれた状況を理解するための「鏡」として機能すると思われたからである。ロシアと日本はともに後発近代化国家で、ともにヨーロッパの超克を企図し、ともにアメリカを敵とした過去をもっている。そしていまもともに、民主主義が弱く、人権に問題を抱える遅れた社会だと見なされ、他方で過剰にポストモダン化に曝されてもいる。にもかかわらず、ロシアと日本それぞれのヨーロッパとの距離、アメリカとの距離は、まったく異なったかたちで政治や文化に表現されている。ぼくはそのような国の「思想」を日本に紹介することは、イギリスやフランスのような先進近代化国家の思想を紹介することにはない、独特の再帰的な効果をもつはずだと考えた。

 だから、ぼくが今号の特集で行いたいのは、じつはロシア思想の「輸入」ではない。そうではなく、さきほどの話につなげれば、ロシア思想という鏡を使い、日本の読者と日本の状況のあいだに「距離」を挟みこむこと、それこそが狙いなのである。とりわけその観点から注目してもらいたいのは、アレクサンドル・エトキントの論文と訳者の平松潤奈氏による解題、そして同氏も参加した共同討議で扱われている記憶と政治の関係である。

 日本は過去に問題を抱えている。国内的にも国際的にも、歴史をいかに記憶するか、死者をいかに追悼するかがつねに激烈な反応を引き起こす、厄介な条件を抱えている。ほとんどの日本人はなんとなくそれを日本だけの困難だと考えているが、ロシアも似た困難を抱えている。大祖国戦争をどう位置づけるか、スターリニズムをどう記憶するかをめぐるロシア人の戸惑いと苦悩は、『ゲンロン2』と『3』の巻頭言で検討した加藤典洋と高橋哲哉の論争を思い起こさせもする。

 過去を肯定するか否定するかで悩んでいるのは、じつは日本だけではない。ぼくはこの事実の提示が、いわゆる歴史問題についての読者の先入観を、少しだけ揺るがせ、変えることができるとよいと考えている。この企ては具体的な政治とも関係している。日本ではこれから、憲法改正の国会発議と国民投票を控え、改憲派と護憲派の対立がますます深まっていくだろう。そこでは、改憲か護憲か、右か左か、過去の肯定か否定か、そのどちらかしかないかのような二分法がさかんに喧伝され、人々の心を支配していくだろう。さきほども記したように、本誌はそのような時代に抵抗するために刊行されている。だから本誌は、歴史の肯定にも否定にも与しない。かわりに本誌は、そのふたつの選択肢のあいだに「距離」を挟みこむことを試みる。それはじつに抽象的な問題提起に聞こえるかもしれないが、今号のような特集こそがその具体的な手段である。政治的な実効性という点では、その問題提起はまったくの無なのかもしれない。しかしそれでもそうするのが批評というものだと、ぼくは考えている。

 



 その企ては、もうひとつの特集「哲学の再起動」とも深く関係している。ぼくはこちらの特集には、2017年の「人文書ブーム」の立役者となったふたりの哲学者、國分功一郎と千葉雅也両氏を招いた鼎談と、サイバーパンクを主題にした座談会、そして香港出身でベルリン在住の若い哲学者、許煜ホイユクの初邦訳を収めた。

 それら3つのテクストは、それぞれ、本誌が目指す哲学あるいは批評の再起動の雛形になっている。本誌は第一に、これからも、オーソドックスな意味での「現代思想」を、つまりは伝統的な大学知と結びついた時代分析を追求していきたいと考えている。國分と千葉両氏との鼎談がその雛形となっている。本誌は第二に、より雑種的で野性的な、最先端の情報文化や視覚表現と結びついた批評の場も開拓していきたいと考えている。サイバーパンクをめぐる座談会がその雛形となっている。

 そして第三に、ぼくはここで許の論文を、本誌の第3の可能性、国外、とりわけアジアの同世代の哲学者たちとの連携の雛形として差し出している。

 許は、母語の広東語と中国語に加え、英語、フランス語、ドイツ語を自在に操る多言語話者であり、ロシアでも活躍している。韓国でも翻訳が進められている。けれどもなぜか日本では紹介されていない。ぼくは彼の存在を、2016年の秋、中国の杭州でのシンポジウムではじめて知った。帰国して著作『中国における技術への問い』を受け取り、一読して翻訳を決めた。
 本誌に訳出されるのはその序論にすぎない。許は同著で、中国古典思想と現代西洋思想、とりわけハイデガーが相互に照らしあう場を、技芸/技術の哲学的解釈を軸にあらたに立ちあげることを企てている。そこではシモンドンやスティグレールといったヨーロッパの思想家だけでなく、日本の京都学派や中国の新儒学、ひいては『ゲンロン6』で紹介したロシアのドゥーギンまで参照されている。ぼくはなによりもまず、その野心の大きさに魅了された。許はぼくよりひと回り以上若い。その彼が、日本の国外で日本の哲学者を参照しながら、東洋思想の再構築を企てている。ぼくはその事実を日本の読者に紹介しなければならないと考えた。日本では京都学派の解釈は、歴史的な経緯からたいへん不自由なものにとどまっている。新儒学との比較すらほとんど行われていない。その不自由にはたしかに必然がある。京都学派は大東亜戦争に抵抗しなかった。それもまた記憶と政治の問題だ。けれども国外では、そのような戦後日本における必然あるいは戸惑いなど関係なく、日本語をすり抜けて西田幾多郎や西谷啓治が読まれグローバルなコンテクストに接続される、そのような環境が現れてもいる。それはある意味で「無責任」で「残酷」な読みだ。それは日本人にはなかなか到達できない。けれども到達しなければならない。それもまた京都学派の哲学的可能性のひとつであることは疑いないからだ。

 ぼくたちはここでもまた距離の問題に出会っている。ぼくたちはぼくたち自身の可能性を知るために、ときに自分から距離を取る必要がある。さきほども触れたように、2017年の前半は、國分氏の『中動態の世界』と千葉氏の『勉強の哲学』、加えてぼく自身の『ゲンロン0』の成功で、日本ではときならぬ人文書ブームが来たと騒がれた。哲学や批評が復活したと囁かれた。小特集のタイトルはその状況に呼応している。しかし、もしその「復活」がなにもぼくたち自身のなかに距離を作らないのであれば、すなわち、日本で哲学あるいは批評を行うこと、それそのものに対する「無責任」で「残酷」な外部からの視点を引き受けることがないのであれば、しょせんブームはブームでしかなく、一過性のもので終わるだろう。許の訳出には、そのような自戒も込めている。

 



 ぼくは『ゲンロン』の巻頭言で、批評とはなにかについてばかり書き続けてきた。『ゲンロン4』では批評とは戦後の病だと記し、『5』では幽霊を見ることだと記し、『6』では受信する立場に立つことなのだと記した。そして今号では批評とは距離の回復なのだと主張している。

 戦後の病。幽霊の視覚。受信する立場。そして距離の回復。それぞれ関係がないように見えるかもしれないが、ぼくのなかでは密接につながっている。批評とは、現実と言葉とがぴったり重なりあうことができない、その障害あるいは不能性への鋭敏さで定義づけられる行為である。だから、批評とはなにかをぴったり言葉にすることも、またその定義上絶対にできない。批評とはなにかについては、毎回毎回、具体的な局面において、異なった比喩を用いて語るほかない。

 本誌はできるかぎり、その障害と不能性に鋭敏であり続けたいと思う。『ゲンロン』はこれからも、けっして「いまここ」の政治にぴったりと重なる言葉を発することはないだろう。それは多くのひとには歯がゆく思われるかもしれないが、それこそが批評の使命なのだ。末永くご支援をいただきたい。
 
ロシア思想という「鏡」を使い、日本の読者と日本自身のあいだに「距離」を挟みこむ

ロシア現代思想Ⅱ
『ゲンロン7』
東浩紀/乗松亨平/平松潤奈/松下隆志/八木君人/上田洋子/マルレーヌ・ラリュエル/畠山宗明/アレクサンドル・エトキント/イリヤ・カリーニン/國分功一郎/千葉雅也/許煜/仲山ひふみ/佐藤大/さやわか/山下研/プラープダー・ユン/福冨渉/黒瀬陽平/速水健朗/辻田真憲/市川真人/安天/海猫沢めろん/東山翔/マイケル・チャン/クリス・ローウィー/ジョン・パーソン/梅沢和木

¥2,620(税込)|A5|372頁|2017/12/15刊行

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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