チェルノブイリの教訓を福島に──世界における科学ジャーナリストの役割(前篇)|ウラジーミル・グーバレフ 聞き手=上田洋子
初出:2014年3月20日刊行『ゲンロン通信 #11』
インタビューにあたって
チェルノブイリ原子力発電所の事故は1986年4月26日未明に起こった。
現代のわれわれには信じがたいことに、事故に関する第一報がなされたのは、テレビでは2日後の4月28日[★1]、新聞では3日後の4月29日だった。例えば翌4月30日に出された中央紙イズヴェスチヤの記事を見ると、タイトルは「ソ連閣僚会議より」で、チェルノブイリ原発で事故が起こったこと、原子炉がひとつ被害を受けたこと、事故処理作業が行われていること、被害者はケアを受けていること、政府の協議会が設けられたことが、小さな文字で8行にわたって書かれているのみだ[★2]。
当時のウクライナはソヴィエト社会主義共和国連邦内の一共和国で、国家として独立していたわけではない。共産党一党独裁体制のソ連では、報道は常に規制され、国の統治に都合のいい(あるいは問題のない)情報だけが公の情報媒体に流通していた。当然、速報のようなものはほとんどなかった。チェルノブイリの事故は、ソ連における報道の遅れと不足を問題として顕在化させることになる。
事故が起こった頃のソ連では、経済が疲弊し、社会が停滞していた。1985年3月にソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフは改革の試みを始めたばかりだった。チェルノブイリ事故は、グラスノスチ(情報公開)、ペレストロイカ(建て直し)といった言葉が盛んに用いられるきっかけとなった。実際、ゴルバチョフが初めてペレストロイカという言葉を国家再建の文脈で用いたのは、事故直後の1986年5月のことだった。未曾有の放射能事故は、ソ連崩壊の足取りを確実に速めたのだ。
チェルノブイリ事故の現場にジャーナリストが踏み込んだのは五月初頭のことだった。そのひとり、ウラジーミル・グーバレフにモスクワで会うことができた。事故当時、グーバレフはソ連中央紙「プラウダ」の科学部長で、原子力技術や宇宙開発関連の報道に携わっていた。彼はチェルノブイリ事故の数時間後には事故の状況を把握し、党幹部に掛け合ってジャーナリストのチェルノブイリ入りを納得させたと言う。グーバレフとプラウダ紙キエフ支局のミハイル・オディネツの連名記事が出たのは5月6日。その後、毎日のように彼らの記事が紙面に掲載され、事故と事故処理の状況がレポートされていった。
プラウダ紙の情報を鵜呑みにしていた読者はあまりいなかったようだが、それでも現場からのレポートは数少ない貴重な情報だった。プラウダは共産党の機関紙で、プロパガンダ色が極めて濃く、うしろのほうの紙面でチェルノブイリの事故が報道されていても、一面では輝かしいソ連社会の栄光と達成が謳われていたりする。そもそもチェルノブイリに関する情報が一面記事になるには、5月15日のゴルバチョフによるチェルノブイリと原子力政策に関する演説の掲載を待たなければならない。
グーバレフはジャーナリストであるだけでなく、SF小説や戯曲も手がける作家である。チェルノブイリ事故の取材は、戯曲「石棺」として作品化され、「ズナーミヤ」誌1986年9月号に発表されて、多くの読者や観客の眼に触れることになる。「石棺」はその年のウィーンを皮切りに世界各国で上演され、日本でも1987年に千田是也の演出で初演された[★3]。現在われわれが放射能を封じ込めるためのコンクリート建造物を「石棺」という通称で呼ぶのは、この戯曲の影響なのかも知れない。2013年秋にモスクワで行ったこのインタビューでは、チェルノブイリ報道について、福島について、科学ジャーナリズムについて、また科学との関わりの中での芸術の役割について語ってもらった。(上田洋子)
上田洋子 私たちは福島第一原発観光地化計画というプロジェクトを行っています。
ウラジーミル・グーバレフ チェルノブイリはすでに観光地化されていますよ。私にはどうも受け入れがたいことですが。
上田 このプロジェクトでは、チェルノブイリ事故後の観光地化を調査し、一冊の書籍にまとめました。その本、『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』の中で、あなたの戯曲「石棺」を紹介しています。この戯曲は昨年、日本で新たな上演がなされました。
グーバレフ そうなのですね。「石棺」はすでに53ヶ国で上演されていて、もはやチェックしていませんでした。
グーバレフ 私は日本という国にとても親近感を抱いています。この小船たちは(と、船のモビールを示して)、「石棺」の広島公演に招かれた際に、通訳の女性と街を歩いていて見つけました。店の主人がくれると言うので、なぜかと尋ねると、「芝居、見ましたよ。とてもよかった。公演の記念にどうぞ」と。日本ではどこに行ってもこんな調子で、みなさんとてもよくして下さった。日本には何度も行って、さまざまな場所を訪れています。
そもそも私はチェルノブイリのおかげで日本に行くことができたんです。最初に来日の話があったのは1963年で、エレクトロニクスの国際会議に参加するはずでした。けれどもビザが下りなかった。KGBのスパイだと思われたんですね(笑)。
その後、多少なりとも日本に関係する仕事をいくつかやってきました。第一に、チェルノブイリについてすべてを書きたいと思っていました。これに関しては事故後25周年に本が出版され、一定の評価を得ています[★4]。
第二に、ソ連における原子力兵器製造の歴史を『原子爆弾』という大きな本にまとめています[★5]。 私はジャーナリスト兼作家という職業のおかげで、ソ連の重要な原子力関連施設をすべて見学しています。それらは閉鎖都市にあり、一般の人が訪れることはなかなかできません。私は核兵器の製造に携わるあらゆる人々と知り合いだったので、実験にも立ち会ってきましたし、関連書類も入手可能でした。つまり、これは私にしかできない仕事だったのです。
ウラジーミル・グーバレフ チェルノブイリはすでに観光地化されていますよ。私にはどうも受け入れがたいことですが。
上田 このプロジェクトでは、チェルノブイリ事故後の観光地化を調査し、一冊の書籍にまとめました。その本、『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』の中で、あなたの戯曲「石棺」を紹介しています。この戯曲は昨年、日本で新たな上演がなされました。
グーバレフ そうなのですね。「石棺」はすでに53ヶ国で上演されていて、もはやチェックしていませんでした。
日本との関係
グーバレフ 私は日本という国にとても親近感を抱いています。この小船たちは(と、船のモビールを示して)、「石棺」の広島公演に招かれた際に、通訳の女性と街を歩いていて見つけました。店の主人がくれると言うので、なぜかと尋ねると、「芝居、見ましたよ。とてもよかった。公演の記念にどうぞ」と。日本ではどこに行ってもこんな調子で、みなさんとてもよくして下さった。日本には何度も行って、さまざまな場所を訪れています。
そもそも私はチェルノブイリのおかげで日本に行くことができたんです。最初に来日の話があったのは1963年で、エレクトロニクスの国際会議に参加するはずでした。けれどもビザが下りなかった。KGBのスパイだと思われたんですね(笑)。
その後、多少なりとも日本に関係する仕事をいくつかやってきました。第一に、チェルノブイリについてすべてを書きたいと思っていました。これに関しては事故後25周年に本が出版され、一定の評価を得ています[★4]。
第二に、ソ連における原子力兵器製造の歴史を『原子爆弾』という大きな本にまとめています[★5]。 私はジャーナリスト兼作家という職業のおかげで、ソ連の重要な原子力関連施設をすべて見学しています。それらは閉鎖都市にあり、一般の人が訪れることはなかなかできません。私は核兵器の製造に携わるあらゆる人々と知り合いだったので、実験にも立ち会ってきましたし、関連書類も入手可能でした。つまり、これは私にしかできない仕事だったのです。
福島の事故への対応
グーバレフ 福島の事故が起こってすぐに、チェルノブイリに関わった専門家たちに声をかけるべきだと提言し、また自分でも福島に行く用意がありました。しかし、日本の会社は「危険だ」と言って、私の提案に聞く耳を持ちませんでした。このような彼らの対応は誤りだったのではないでしょうか。
事故直後に福島に行けなかったのは本当に残念です。私が行っていれば、事故のイメージが帯びている神秘的な色合いも、現在まぎれもなく存在している不信感も軽減できたのではないでしょうか。ロシアにおいても福島の情報は信用されておらず、情報の隠蔽があると言われています。原発事故にはきわめて理性的に対処しなければならない。いい加減な憶測があってはならず、完全な真実が必要です。この点で科学ジャーナリストは重要な役割を果たし得ます。科学ジャーナリストは問題それ自体に関心を持っているため、誤った情報を流す確率が低いのです。
私の考えでは、福島の事故の規模は、残念ながらチェルノブイリと比較の対象になる。あらゆる希望的観測に反して、事故処理が簡単ではないことは、二年前の時点ですでに明らかでした。すぐに何らかの対策を講じることができたはずなのに、楽観視し、放置してしまった。さらに、津波が重なってしまったこともあります。
上田 政府は比較的やりやすいところから手をつけたのですね。
グーバレフ そう、それは間違いでした。
さまざまな問題はあったにせよ、ソ連はとにかく原子炉を六ヶ月で封鎖しましたからね。もちろん、福島より事故処理が簡単だったわけではありません。ではなぜたったの六ヶ月でそれができたのかというと、事故処理作業の中でイレギュラーに浮上してくる問題に、スタンダードでない解決方法できちんと対処していったからです。これは非常に重要なことでした。
ところが福島ではいささかオーソドックスな道を選んでしまった。残念ながら問題は大きくなっていく可能性があります。
事故直後の対応と正しい情報
上田 あなたはチェルノブイリ事故の直後に情報を得て、すぐに現場に行く必要があると政府に訴えたのですね。
グーバレフ そうです。一般の人々が事故について耳にすることが少なかったのは、チェルノブイリの失敗のひとつだったと考えています。福島ではこうした問題を防ぐよう努力すべきです。人々には真実を語らねばなりません。そのほうが理解を得やすい。何かを隠そうとしたり、違った情報を流そうとしても、いつかは明るみに出て、不信感を抱かせることになります。
上田 どのように政府を説得したのですか?
グーバレフ チェルノブイリにはプラウダ紙の科学部長として行きました。私は実際に何が起こったのかを事故の数時間後には把握し、事態がどのように進展するかについても予測ができていました。だから国の最高指導部に会いに行ったのですが、現場に取材に行くのは絶対にダメだと言われました。
もっとも、私はそれまでにも原子力のテーマで多くの記事を書いていて、他の誰より知識がありました。また、原子力関係者をはじめ、至るところに友人がいて、彼らから100パーセントの信頼を得ていた。だからこそ取材にも行くことができたのです。このときの自分の仕事には満足しています。
とはいえ、その後の反応は複雑でした。とくに「石棺」以降です。ひとつ言えるのは、この問題を扱う際に、私は一度も嘘をついていないということです。そして誰に対しても譲歩しませんでした。権力を持たない人々にも、ゴルバチョフにも。
上田 プラウダは全国紙で、誰もがこの新聞から情報を得ていたのでしょうか?
グーバレフ もちろんです。それどころか世界中で読まれていましたからね。
上田 ですがチェルノブイリ事故に関しては、多くのことが隠蔽されていた、一般人はよく知らなかったと言われるのがしばしばです。
グーバレフ 私は自分が見たすべてのことを書きました。秘密やその他のことは後から浮上してきたものです。人がものごとをよく考えるようになるのは、事後になってからです。できごとの最中にいるうちは、多くのことが見えないし、理解できないものです。人々が知らないことがたくさんあったと考えるのは、そのせいなのです。
そもそも、今、この瞬間に解決を迫られている焦眉の問題というものがありました。もちろん知っていましたよ、屋根から下ろさなければならないのは高レベル放射性廃棄物であるとか、20-30秒以上はその屋根の上にいることができないとか。そしてこうした情報は出していました。それでも人々は事故処理作業に参加するためにチェルノブイリに向かった。そこが肝心で、無知なまま人を送り込んだということはありません。
アメリカのロバート・ゲイル教授とはとても親しくしていました。しかし、彼はキエフに来た時、いきなり、今年キエフでは2万人ががんで亡くなると言ったのです。私は彼に言いました、「ロバート、それはフェアじゃない。事故前にもキエフでは年間2万人ががんで亡くなっているじゃないか、大きな街なのだから。もしチェルノブイリ事故前にこの話をしたのなら、普通に受け止められただろうけれど、今、きみがこれを言ったら、すべてがチェルノブイリのせいだと思われてしまう」と。多くの予測がこのように愚かなものでした。
はっきりと目に見えていることに関しては予告をしなければなりません。けれどもいい加減な憶測もある。憶測に過ぎないことは非常にたくさんありました。
後篇はこちら
2013年9月19日、モスクワ、グーバレフ宅
翻訳・構成・アイキャッチ画像撮影=上田洋子
写真提供=ウラジーミル・グーバレフ
★1 http://korrespondent.net/ukraine/events/1553067-segodnya-ispolnyaetsya-27-letso-dnya-avarii-na-chaes
★2 http://most.ks.ua/news/url/27_let_nazad_proizoshla_avarija_na_chaes
★3 戯曲「石棺」については『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図βvol.4-1』156頁を参照。
★4 ウラジーミル・グーバレフ『チェルノブイリ受難曲』モスクワ、アルゴリズム社、2011年。Губарев, В. Страсть по Чернобылю. М.:Алгоритм. 2011.
★5 ウラジーミル・グーバレフ『原子爆弾』モスクワ、アルゴリズム社、2009年。Губарев, В.Атомная бомба. М.: Алгоритм. 2009.
ウラジーミル・グーバレフ
1938年生まれ。科学ジャーナリスト、作家、劇作家。「プラウダ」紙および「コムソモーリスカヤ・プラウダ」紙で科学部長を務める。原子力や宇宙開発など、20世紀ソ連の科学ジャーナリズムの第一人者。チェルノブイリ原発事故の報道では大きな役割を果たした。事故を戯曲として描いた『石棺』は53カ国で上演されている。邦訳に『石棺――チェルノブイリの黙示録』(リベルタ出版)、『チェルノブイリのファントム――よもぎの星が落ちた』(アイピーシー)、共著に『誰も知らなかったソ連の原子力』(中村政雄ほかとの共著、電力新報社)など。
上田洋子
1974年生まれ。ロシア文学者、ロシア語通訳・翻訳者。博士(文学)。ゲンロン代表。早稲田大学非常勤講師。2023年度日本ロシア文学会大賞受賞。著書に『ロシア宇宙主義』(共訳、河出書房新社、2024)、『プッシー・ライオットの革命』(監修、DU BOOKS、2018)、『歌舞伎と革命ロシア』(編著、森話社、2017)、『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』(調査・監修、ゲンロン、2013)、『瞳孔の中 クルジジャノフスキイ作品集』(共訳、松籟社、2012)など。展示企画に「メイエルホリドの演劇と生涯:没後70年・復権55年」展(早稲田大学演劇博物館、2010)など。