言葉のままならなさに向き合う──一義性の時代の文学にむけて(前篇)|矢野利裕

シェア
初出:2021年5月21日刊行『ゲンロンβ61』
 編集部に矢野利裕氏から連絡があったのは昨年12月のことです。某大手文芸誌で掲載不可となった原稿を掲載できないかとのこと。一読して掲載を決め、細かい修正のやりとりをすることになりました。以下に掲載するのはその原稿です。前後篇に分けて掲載します。
 いまは言葉が文脈から切り離されるSNSの時代です。そのようななか、文学者からは言葉の「多義性」を擁護する議論ばかりが見られます。けれども矢野氏はむしろ、そこで切り捨てられた「一義性」の言葉のほうに、多様な読者に開かれる可能性があると指摘している。それはたんなるパラドックスではなく、教員でもあるご自身の実感に基づいた具体的な問題提起にもなっています。論旨は明快で、なぜこれが掲載を拒否されたのか、率直にいって理由がわかりません。もしこの原稿が「文学をわかっていない」ものだと捉えられたのだとすれば、まさにその態度こそが文学を貧しくしている元凶のように感じられます。
 読者のみなさんはどうお考えでしょうか。感想をお待ちしています。(編集長・東浩紀)
 

《一義性の時代》としての現代


 現代の言葉のありようについて考えている。

 印象的なものとして記憶に残っているのは、例えば次の例。2019年11月29日、「桜を見る会」をめぐる野党合同ヒアリングの場において、名簿作成の担当者を特定できるとした酒田元洋総務課長(以下、役職はいずれも当時)に対して、今井雅人議員(無所属)が「担当者に[招待状に記された]60から63の違いを確認してもらえませんか?」という要求をしたところ、酒田は「承知しました」と答えた。しかし、四日後の12月3日、酒田官房総務課長は「当時の担当者が特定できるということは申し上げましたけれども、確認をするということころまで確約したのかというと、私は記憶にございません」と不可解なことを言い出す。「“わかりました”というのは、そういうご趣旨は理解しましたけれども、“必ず確認をしてきます”ということを承諾したということではございません」と★1。要するに、酒田が言う「承知しました」は、「確認してもらえませんか?」という質問をされたことを認識した、という意味での「承知しました」であり、「確認する」という約束を意味する「承知しました」ではない、ということだ。子どもじみた詭弁としか思えない。

 同じような詭弁は、たびたびくり返される。2020年3月には、安倍首相がやはり「桜を見る会」をめぐるやりとりのなかで、「幅広く募っているという認識だった。募集しているという認識ではなかった」という理解のしにくい発言をしていた。自らの発言にまともに向き合おうとしない態度に、野党や左派論客からは批判が殺到する。日ごろやたらと「責任は私にある」と言いながらも、新型コロナウイルス対応のための緊急事態宣言発令のさいには、「私が責任を取ればいいものではありません」と言い放つ(2020年4月7日)様子も、このような態度の延長と言えるだろう。

 このような与党側の国会答弁に対しては、言葉を尊重しない政府側の態度が指摘されることも多い。例えば、コラムニストの小田嶋隆は、さきの酒田の発言に対して、「日本語が死んだ」「自分たちの国の言葉を壊してしまった」と批判している★2。しかし、与党の不誠実さが「言葉を壊してしまった」というのは必ずしも正しくないだろう。

 おそらく、以上のような言葉をめぐる問題の背後に横たわっているのは、前後の文脈や関係性、社会的な共通前提を軽視する態度である。「この状況で発されたこの言動は、このことを意味するに決まっているだろう」の「この状況」という文脈が軽視されている。だからこそ、酒田にしても安倍にしても、「あのときの発言は、そういうつもりではなかった」という言い逃れをおこなえてしまう。

 しかし、自民党批判は本稿のテーマではない。重要なのは、この文脈軽視の態度がイデオロギーの違いにかかわらず指摘される、ということだ。例えば、萩生田文部科学大臣による大学入試改革をめぐっての、いわゆる「身の丈発言」は★3、左派陣営から教育機会の不平等性を容認するような発言として強く批判されたが、右派陣営からすると、その類の批判は「身の丈」という言葉だけを都合良く切り取ったものとして、反論の対象にされた。
 保守系のジャーナリスト・有本香は「どういう流れで出てきたワードだったか」を見るべきとし、メディア史学者の李相哲は「そのなかの言葉ひとつを引っ張り出して問題にするのは良くない」と同調した(『真相深入り! 虎ノ門ニュース』2019年10月31日放送)。ようするにここでは、野党や左派に対して、同じように文脈を軽視する態度が批判されているのだ(筆者としては、文脈を踏まえてなお問題だと考えるが)。

 リベラル的な立場から糾弾されることが多い「ハラスメント」行為も、その言葉が発された文脈や当事者同士の関係性をどのくらい勘案するか、ということが論点になる。同じように乱暴な言葉やコミュニケーションであっても、信頼関係が成立していれば「ハラスメント」として機能しない可能性だってある。逆に言えば、文脈をあまりにも考慮しない「ハラスメント」の訴えは、いちゃもんやクレームと捉えられてしまう。もっとも、文脈を考慮せずとも効力を発揮するからこそ、被害者側の訴えは訴えとして力をもった。筆者は基本的に、さまざまな「ハラスメント」が社会的に認知されたことを歓迎する立場だが、「ハラスメント」を声高に叫ぶほど、文脈や関係性の切断が起こるという構造は指摘しておく。

 批評家の綿野恵太は、「ハラスメント」について論じるなかで、次のように指摘している。念のために言っておくと、綿野は「ハラスメント」を「いちゃもん」や「難癖」として片づけているわけではない。綿野が問うているのは、そのように捉えられてしまう経緯や力学についてだ。「ハラスメント」をめぐる問題は、個々の事例として注意深く見るべきであろう。

いま私たちがポリティカル・コレクトネスと呼ぶ言説において、重視されるのは「安心」であり、その告発の根拠となるのは「不快」であった。ポリティカル・コレクトネスに反感を持つ立場からすれば、女性の告発が「いちゃもん」「難癖」という客観的な判断を欠いたものに見えるのは当然だろう。なぜなら、客観的なデータや因果関係よりも、「安心」「不快」という感情が重視されている(あるいは、重視されることになっている)からだ。★4


 このように、現在、あらゆる場面において、言葉をめぐる文脈や関係性の軽視・希薄化が指摘されている。とはいえこれは、官僚答弁の問題ではないし、イデオロギーの問題にも還元されない。しばしば言われるような、政治家が言葉を大事にしないという話でもない。本稿の立場からすると、この文脈軽視の問題は、時代精神に関わる問題である。

 わたしたちは、どこかで文脈を軽視することに慣れていないだろうか。文脈を軽視しても仕方ない、と思っていないだろうか。言葉が字義通りにしか伝わらないと思ってはいないだろうか。あるいは、だからこそ文脈や関係性を重視しようと思っていないだろうか。だとすれば、わたしたちは、文脈や関係性が軽視される前提の、言葉が奥行きを失った、あるいは言葉の表面がむき出しとなった、いわば《一義性の時代》に生きている。

矢野利裕

1983年生まれ。批評家、DJ、イラスト。文芸批評・音楽批評など。著書に『コミックソングがJ-POPを作った』(Pヴァイン)、『ジャニーズと日本』(講談社現代新書)、『SMAPは終わらない』(垣内出版)。共著に『ジャニ研! Twenty Twenty』(原書房)など。

    コメントを残すにはログインしてください。