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    コロナの肖像/災害の風景──『新写真論』補遺|大山顕

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    初出:2020年10月23日刊行『ゲンロンβ54』
     10月23日配信予定の『ゲンロンβ54』より、大山顕さんひさびさのご寄稿となる「コロナの肖像/災害の風景」を先行公開します。
     その原因も結果も可視化されない新型コロナウイルスの流行。ウイルスという「敵」をつくり、その敵に「顔」を与えさえすれば、わたしたちはウイルスに「勝つ」ことができるのでしょうか。どうしてわたしたちは、現在の状況を、わかりやすく、きれいなものとしてビジュアル化してしまうのでしょうか。ゲンロン叢書で大好評、紀伊國屋じんぶん大賞2021で第9位にランクインした『新写真論』補遺としてもぜひお読みください。(編集部)
     
    「新型コロナウイルス」と聞いて、どんなビジュアルを思い浮かべるだろうか。多くの人が次の画像を想起するのではないか【図1】。ニュースサイトやテレビなどで使われていて、いまや世界で最もよく見られている画像と言えるだろう。これは米疾病対策センター(CDC)のアリサ・エッカート氏とダン・ヒギンス氏によるイラストである。

    【図1】出典=CDC/ Alissa Eckert, MSMI; Dan Higgins, MAMS
     

     本稿で考えてみたいのは、目に見えない災厄をビジュアルによって示すことについてだ。そもそも「コロナ」という名前がウイルスの見た目に由来している。現代人がビジュアルに深く依存していることを表していると思う。

     まず、ぼくにとってこのイラストが興味深いのは、その絵作りがスマホのポートレイト・モードによる撮影に似ている点だ。多くのスマホのカメラアプリに搭載されているポートレイト・モードは、瞳を中心にピントを合わせ、それ以外の部分、耳や首の側面、背景をボカす処理を行う。この新型コロナウイルスのイラストも、中央にだけピントが合っていて、側面に回り込んだ部分が極端にボカされている。つまりこれはコロナウイルスの今時風の「肖像写真」なのである。

     このような一部だけにピントが合ってそれ以外はボケている絵作りは、ポートレイト撮影のセオリーとしてスマホ以前から定番になっている。長めの焦点距離を持つ明るいレンズを一眼レフカメラに取り付け、絞りを開けて撮るとこうなる。いわゆる被写界深度が浅い写真である。ところがスマホに付いているレンズはこのようなボケを演出できる性能を持っていない。ポートレイトモードによる写真は画像を処理して作られたものだ。つまりわざわざボカしている。同じように、このウイルスのイラストもわざわざボカして描かれている。さきほどから「イラスト」と述べているように、これは写真ではない。この被写界深度の浅さは、わざと描かれたものなのだ。色も同様だ。灰色の球体から生えている突起がいかにも毒々しい朱色で描かれているが、実際にはこんな色ではない。そもそもウイルスの大きさは可視光線の波長より小さいので、人間にとっての色というものがそこには存在しない。ボケといい、カラーリングといい、この「肖像写真」は実に「映える」ように演出されているのだ。

     写真について詳しい人なら、この被写界深度の浅さは、顔写真に似せた結果ではなくウイルスの小ささを示した演出だ、と言うだろう。被写体が小さくなると、すべてにピントを合わせるのがむずかしくなり、結果としてこのようなボケになるからだ。たぶんその通りで、ポートレイト・モードの写真に似ていると思うのは、ぼくの穿ち過ぎだろう。しかし一方で、実際にアリサ・エッカート氏とダン・ヒギンス氏はインタビューで「私たちはウイルスに『顔』を与えたのだ」と言っている★1。いずれにせよ、ほんらい見えないウイルスに「顔」を与えた結果、それがポートレイトの演出に似た、というのはたいへん興味深い。

    ウイルスは「敵」なのか

     未曾有の混乱を引き起こした元凶であるウイルスの「肖像写真」が世間に流布しているという状況は、あるものを彷彿とさせる。それは「指名手配」だ。エッカート氏は先のインタビューで「あまり明るい雰囲気にはしたくなかったが、かといって恐怖感を与えることも望ましくない。それにリアルな感触を持たせたかった」とも言っている。これはまさに指名手配の似顔絵作りそのものではないだろうか。要するに、コロナウイルスは人類の「敵」として指名手配されているのだ。2020年3月28日、ドイツのメルケル首相は、ポッドキャストを通じた国民へのメッセージのなかで「ウイルスとの戦いでは、1人ひとりが当事者です」と演説した。いまやぼくらが行っているのは公衆衛生や治療というよりも「敵」との「戦い」なのだ。

     しかしぼくは思う。ほんとうにウイルスは「敵」なのだろうか、と。そして病を「敵」に対する「戦い」として認識することで、ぼくらはなにか見失っているのではないか、と。目に見えない脅威に対処するために、人はしばしば感情的に「敵」を作りだすが、それでよいのだろうか。

     ウイルスは病の原因であり、ならば撲滅すべき敵である、それは当たり前ではないかと現代人なら思うかもしれない。しかし百数十年前まで人類はウイルスを知らず、従ってそれまで人々は病に対してもっと別の見方をしていたはずだ。もちろんウイルスの発見をはじめとする科学の成果は多くの人命を救った。それは人類の輝かしい勝利である。

     しかし、病原と症状が病のすべてではない。疾患に伴って発生するあらゆるできごともまた対処すべき問題なのだ。そのできごとには肉体的なことだけではなく精神的、経済的なことも含まれる。さらに個人的なことだけではなく、社会的、政治的なことも。特に大規模な感染が発生したときにはこういった疾病そのものの外部で起こる問題が重大になる。これは今回のパンデミックでみなが実感したことだろう。現に今回、世界中で感染が広まると同時にさまざまな問題が発生している。ウイルスだけを戦うべき「敵」としてしまうと、こういった外部の問題を引き起こす元凶のほうが見えなくなってしまうのではないか。

     しかもこういった外部の問題は弱者に襲いかかる。なぜならその元凶はウイルスではなく社会のほうにあるからだ。ウイルスを唯一の「敵」とすることは、パンデミックを人間社会の力関係が関与しない天災なのだと思わせてしまうのではないか。あたかも気まぐれな自然が格差を超えてあらゆる人々に「平等に」被害を与えたと。ぼくが懸念しているのはそういうことだ。

     病はほんらい複雑なものなのに、ウイルスの発見によって、「敵」によって引き起こされるものだ、という風に単純化されてしまった。これは先に言った「人はしばしば感情的に『敵』を作りだす」という現象と結果的には同じだ。科学的成果が人間の不合理な反応と一致してしまうとは皮肉なものである。

     なにが言いたいのかというと、ウイルスの正体と感染メカニズムを明らかにし、それに対処するというのは対策の一部でしかなく、社会において病をどう認識するかも重要であり、それには病の表象の仕方が大きな影響を及ぼすのではないか、ということだ。

     

     細菌よりも小さく、光学顕微鏡では見ることができない病原、現在ウイルスと呼ばれているものの存在が報告されたのは19世紀の終わりである。電子顕微鏡を用いることでそれがはじめて可視化されたのは1935年、アメリカの生化学者・ウイルス学者のウェンデル・スタンリーによってだ。人間の病気の歴史からすると、ウイルスが姿形を持つようになったのはつい最近のことなのだ。細菌にしろウイルスにせよ、病原体は肉眼で確認できない。見えるのは病に冒された人間の姿だ。そして前述したような病の外部で起こる問題の原因もまた社会的なものであり、目に見えない。「原因」は見えず「結果」だけが見える。ここに病を表象することのむずかしさがある。

     ウイルスが発見される前、中世ヨーロッパで猛威をふるったペストは、患者を治療する医師の独特のいでたちによって表象された【図2】。日本においては、ウイルスと同じように目に見えない災害の代表として地震があり、それは鯰として描かれた。大鯰を退治したりあるいはなだめすかしている錦絵を見たことがあるだろう。東日本大震災では、さらにそこに原発事故によって放出された放射性物質というこれもまた目に見えない災厄が加わり、これはシンボル化されることなく今にいたっている。こうなると、病に限らずほとんどの災厄において、その原因は見えないものなのかもしれないと思えてくる。

    【図2】〈医師シュナーベル・フォン・ローム〉パウル・フュルスト(1656年)
     

    大山顕

    1972年生まれ。写真家/ライター。工業地域を遊び場として育つ・千葉大学工学部卒後、松下電器株式会社(現 Panasonic)に入社。シンクタンク部門に10年間勤めた後、写真家として独立。執筆、イベント主催など多様な活動を行っている。主な著書に『工場萌え』(石井哲との共著、東京書籍)『団地の見究』(東京書籍)、『ショッピングモールから考える』(東浩紀との共著、幻冬舎新書)、『立体交差』(本の雑誌社)など。2020年に『新写真論 スマホと顔』(ゲンロン叢書)を刊行。
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