北のセーフイメージ(3) 物語支配論|春木晶子

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初出:2020年08月21日刊行『ゲンロンβ52』

第1回
第2回
 
 本論では松前藩士蠣崎波響はきょう(1764-1826年)による12枚のアイヌ★1の肖像画《夷酋列像いしゅうれつぞう》【図1】を見てきた。描かれた12人は、寛政元年(1789)蝦夷地東部でアイヌが蜂起した事件で、蜂起したアイヌを説得して戦いをおさめた者たちとされる★2。その、勇壮なアイヌの肖像という表層の下には、いくつもの物語を複雑に織り込んだタペストリーが隠されていた。

【図1】下段3枚目の乙箇律葛亜泥以外は蠣崎波響筆《夷酋列像》(1790年、ブザンソン美術考古学博物館所蔵)。乙箇律葛亜泥は小島貞喜筆《夷酋列像模写》(1843年、個人所蔵)
 

 ここまで、12枚のうち5枚に言及しながら、その物語を紐解いてきた。大国主神おおくにぬしのかみや聖徳太子、蘇我馬子といった記紀の登場人物たち。牛頭天王ごずてんのうや毘沙門天、黄帝や門神、鐘馗しょうきといった和漢の神仙たち。それに関わる魔除けの儀式や慣わし。『三国志』の「桃園三傑」。浦島太郎、金太郎、桃(太郎)というお馴染みのお伽噺の英雄たち。絵の半分も見ないうちに、実に多様な和漢の神話伝説や物語と、そこに登場するキャラクターに言及することとなった。

 それら物語の断片たちを、アイヌの姿に重ねて織り直すことに、いったいどんな意味があるのか。疫病や悪鬼を除けようとする辟邪へきじゃの願い、鬼門(北東/蝦夷地)の守護、さらには古代の蝦夷征伐の物語までもが導かれることを、明らかにしてきた。どうやらこの絵は、古代以来の蝦夷地/鬼門へのおそれに応じた物語を内包する。先述の蜂起は、かの地とそこに暮らす人々へのおそれ──畏怖と恐怖──を増幅させたに違いない。それゆえに、蝦夷による蝦夷の征伐、鬼門の住人による鬼門の守護がもとめられた。この絵は、おそれの対象を守護者に反転させる「恐怖と安心のリバーシビリティ」を利用した防御壁であった。というのが、ここまでの小括である。

 しかしそれだけではすまない。12枚すべてを見渡すと、この絵の防御壁が北東/鬼門のみならず、南西/裏鬼門にも向けられていることがわかる。すなわちこの絵が天皇を中心とする国家=日本一円の守護、そしてその繁栄を寿ぐものであることが、見えてくる。

アイヌに重ねられた朝鮮征伐(1)乙唫葛律と神功皇后


 先に、本作のうち3図が、『三国志』の「桃園三傑」と「黄帝と門神」、いずれも北東/鬼門守護を担うものに重ねられることを見た。これと同様に、右から7番・8番・9番目となる、乙唫葛律イニンカリ卜羅鵶ポロヤ訥膣狐殺ノチクサの3図【図2】は、南西/裏鬼門の守護を担う。そこに重ねられるのは朝鮮征伐の神話だ★3

【図2】《夷酋列像》より、乙唫葛律、訥膣狐殺、卜羅鵶
 

 乙唫葛律イニンカリ色の着物をまとい、片手に槍を持ち、もう一方の手で子熊の縄をひいている。子熊★4を縄でひき連れる姿は、他に例がない。本図の範として考えつくのは、黒と白の犬を連れる姿で知られる狩場明神★5である。アイヌとは無縁と思われるこの神は、高野山を訪れた空海を一帯の地神・丹生都比売神にうつひめのかみのもとへ案内し、空海の高野山開山を助けたという。

 他方で、乙唫葛律イニンカリの持つ槍の先端にある赤い毛の房の装飾は「赤熊しゃぐま」と称される。子熊の姿に加えて、ここにも「熊」が見出せる。「赤」は丹生都比売神の「丹」に通じ、それは乙唫葛律イニンカリの着物の色でもある。「熊」と「丹」。ここから導かれるのは、やはり「熊」の字を含む大和朝廷に抵抗した集団「熊襲くまそ★6の征伐で知られる記紀の女傑、神功皇后じんぐうこうごうの物語である。
 神功皇后は、第14代仲哀天皇の皇后である。記紀によれば神功皇后は、大和朝廷に服属しない熊襲の一族を征伐しに筑紫に赴くが、そこで住吉神すみのえのかみの神託を受けたことによりその矛先を新羅しらぎへと転じる。『播磨国風土記』によれば神功皇后は、新羅に出兵するにあたり、先述の丹生都比売神の力を借りる。その神の教えに従い船体や着物を赤く染め、波を赤く濁らせて朝鮮に渡り、新羅を平伏させたという★7

 以上の神話を踏まえて再び本図を見る。その丹色の着物の袖や裾には、波文様が墨の輪郭線のみで描かれている。赤褐色の地色を見せるその波は、『播磨国風土記』にある赤く濁った波を思わせる。『日本書紀』★8によれば、神功皇后は男装して新羅征伐を果たしたという。

 すなわち乙唫葛律イニンカリには、男装した神功皇后が重ねられているのではないか。そして熊に縄をかける様は、熊襲征伐の比喩と見なせるのではないか。

アイヌに重ねられた朝鮮征伐(2)卜羅鵶と住吉神


 順番が前後するが、1図を飛ばして9番目の卜羅鵶ポロヤを見たい。彼は12図のなかで唯一、アイヌ文様の刺繍が施された上着をまとい、着物の襟元や裾には羽毛があしらわれている。そして、犬を縄でひいている。

 乙唫葛律イニンカリが熊襲征伐をあらわすという仮説を踏まえてこれを見ると、熊襲の系譜に連なり大和朝廷に服属した「隼人はやと★9と呼ばれる集団が浮かび上がる。隼人は、狗(犬)の吠え声をあげて内裏の護衛を務めたと伝えられるからだ。

 記紀の「山幸海幸」神話は、隼人の大和朝廷服属の起源譚とされる。海漁を生業とする海幸彦と山猟を生業とする山幸彦の兄弟が、あるとき互いの道具を交換して漁/猟に出たところ、弟の山幸彦は兄の釣り鉤をなくしてしまう。兄の怒りを買い途方に暮れた弟は、海神の宮を訪ねる。海神は山幸彦に失くした釣り鉤を与え、これを兄に返すときに呪文を唱えるように教えるとともに、潮の満ち干を操る潮満珠と潮干珠を授けた。山幸彦が教えの通りにすると、兄は次第に貧乏になり、怒って弟を攻撃した。これに弟は2つの珠で応じ、兄を溺れさせた。屈服した兄は、弟に仕えることになった。このとき兄は「狗人」になると誓い、山幸彦の子孫が皇族に、海幸彦の子孫が隼人に連なるとされる。

 江戸時代の国学者本居宣長は、隼人が携行した盾に「鈎形」の文様があったとの伝承(『延喜式』)について、その文様が「失せたるつりばりを徴りし」(『古事記伝』、1790-1822年刊)すなわち失った鉤をかたどったものだとする見解を示している★10。ここで卜羅鵶ポロヤの衣服に施されたアイヌ文様を見ると、肩や裾部分に施された紺色の切伏文(細い帯状の布を縫い付けてあらわす文様)の形状【図3】が、あたかもその鉤を思わせる。

【図3】《夷酋列像》より、卜羅鵶(部分)
 

 そして潮の満ち干を操る2つの珠は、先に述べた神功皇后の伝承にも登場する。『八幡愚童記(甲)』(1308-1318年)によれば、神功皇后は竜宮の竜王から二つの珠を授かり、珠の力で新羅征伐を果たす。新羅国王は、「我等日本国ノ犬ト成、日本ヲ守護スベシ」と述べ、「新羅国ノ大王ハ日本ノ犬也」と書きつけたという★11。すなわち卜羅鵶ポロヤが犬を縄でひく姿は、隼人のみならず新羅の制圧をもあらわすと見なせる。

 第7図乙唫葛律イニンカリと第9図卜羅鵶ポロヤは、ともに動物を縄でひき、大和朝廷による熊襲/隼人、さらには新羅征伐の物語を内包する。両図は第八図訥膣狐殺ノチクサを挟んでそれぞれ右/左方向に歩みを進めつつ、顔を進行方向と逆に向け、その姿勢や持ち物(槍・縄)でV字のかたちをつくりだす。すなわち2図は、対をなす。乙唫葛律イニンカリ/神功皇后の対にふさわしい、卜羅鵶ポロヤに重ねられるべき神は、住吉神であろう。
 先述の通り住吉神は、神功皇后に新羅出兵の神託を授けた神である。『八幡愚童記(甲)』でこの神はより重要な役割を担い、2つの珠の力を得ることを神功皇后に説き、皇后率いる総勢375柱の神々からなる軍勢の大将軍となる。『古事記』★12によれば、神功皇后の夫仲哀天皇は住吉神の新羅征伐の神託に背いたために崩御する。同時に皇后は身ごもり、住吉神はその孕んだ子──応神天皇──こそが、国を治めると述べる。神功皇后は身ごもったまま新羅に赴き、月延石を腹にあて、出産を延ばしながら征伐を果たす。『住吉大社神代記』は、住吉神と神功皇后のあいだに「密事」があったこと、すなわち応神天皇の父が住吉神であることをほのめかす★13。《神功皇后縁起絵巻》(1443年、誉田八幡宮所蔵)では、神功皇后と住吉神の化身との出会いが、「詞書ことばがきに記された内容のうち最も重要な箇所として、豪華に念入りに」描かれるという★14

 あらためて絵を見よう。卜羅鵶ポロヤの衣服には、羽毛があしらわれていた。これは住吉神の使いの白鷺、あるいは八幡神(応神天皇と同一視される)のシンボルの白い鳩を思わせ、住吉神を導く★15。また波響の弟子高橋波藍はらんは、卜羅鵶ポロヤを単独で模写した掛け軸を制作しており、そこで卜羅鵶ポロヤを海浜風景のなかに配している。海浜風景は、航海の神あるいは海神と信仰される住吉神を踏まえての選択であろう。

アイヌに重ねられた朝鮮征伐(3)訥膣狐殺と武内宿禰


 では、その両者に挟まれた訥膣狐殺ノチクサにはどのような神話が重ねられているのか。まず目につくのは、かがみこんで鹿を担ぐ異様な姿勢である。鹿猟はよく知られるアイヌの習俗であるが、それを担ぐ姿は異例である。それは担ぐというより、まるで鹿をかぶっているように見える。

『日本書紀』の景行天皇紀には、天皇が熊襲を率いる厚鹿文あつかや迮鹿文さかやを討つために、市乾鹿文いちふかや市鹿文いちかやという熊襲の姉妹の協力を得たという伝記がある。ここでは熊襲に属する者の名に、いずれも「鹿」の字が含まれる。

 熊襲と鹿との結びつきは、同書の応神天皇紀にも見出せる。淡路島に遊猟した応神天皇は、たくさんの鹿が海を渡る様を見て驚く。それは鹿ではなく、角鹿の皮をかぶった人であった。熊襲/隼人の系譜に連なる日向国の諸県君牛諸井もろかたのきみうしもろいが大勢をひき連れて、娘の髪長媛かみながひめを天皇に貢上しにきたのだ。髪長媛は応神天皇の子、仁徳天皇の妃となる。鹿の皮をかぶることが、熊襲/隼人に連なる人々をあらわす習俗として記されていることが、注目される。

 すなわち鹿を担ぐ姿もまた熊襲征伐を指し示すとすれば、訥膣狐殺ノチクサに重ねられる人物は誰か。本作に描かれたアイヌの酋長たちは、松前藩の「功臣」とされたのであった。これを踏まえて思い起こすべきは、記紀に頻出する日本を代表する忠臣、武内宿禰たけのうちのすくねである。武内宿禰は、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5朝に244年間仕え、熊襲、そして蝦夷の征伐に多大な貢献を果たしたとされる。長寿と忠臣の象徴として信仰され、近世から近代にかけて盛んに造形化された。

 神功皇后の傍らで応神天皇を抱いて跪く姿が、その定型である。例えば玉蛾による絵馬《神功皇后と武内宿禰図》(【図4】、1865年、布川神社所蔵、利根町指定有形文化財)や渓斎英泉による『武勇魁図会』(【図5】、1838年刊)など、幕末の作例に見えるその姿は、豊かな頰髯をたくわえる。その相貌とお決まりの跪く姿勢が、訥膣狐殺ノチクサに通じる。

【図4】玉峨筆《神功皇后と武内宿禰図》(1865年、布川神社所蔵、利根町指定有形文化財)
 

【図5】渓斎英泉画『武勇魁図会』(1838年刊、国文学研究資料館所蔵)
 

 吉田家本『延喜式神名帳』によれば、360余歳のときに因幡国を訪れた武内宿禰は、宇部山中に双履そうりを残して行方知らずになったという★16訥膣狐殺ノチクサが履く、見る者の目をひく赤い靴は、この伝説を導くものではないか。

 乙唫葛律イニンカリ訥膣狐殺ノチクサ卜羅鵶ポロヤの三図にはそれぞれ、神功皇后、武内宿禰、住吉神が重ねられる。そこから浮かび上がるのは、神功皇后の熊襲、隼人、新羅征伐の物語、そして八幡信仰である。
 江戸時代、神功皇后の新羅征伐譚は、国家の守護の物語として認識されていた。記紀では「富を狙った遠征」であった新羅出兵譚は、鎌倉時代の文永の役(1274年)・弘安の役(1281年)、すなわち「元寇という大事件」を経て、「中世においては『防衛』へと微妙に変化」する★17。本稿でたびたび挙げた『八幡愚童記(甲)』は、八幡神の霊験を伝える物語でありながら、元寇(蒙古襲来)を記録した史料という側面を持つ。同書は、神功皇后の三韓征伐と応神天皇(八幡神)の誕生と活躍を記したのち、蒙古襲来とそこでの八幡神の霊験を説く。すなわち神功皇后の新羅征伐譚は、蒙古襲来という外敵の来襲と国家の危機、八幡神によるその撃退と降伏という八幡信仰のストーリーに取り込まれて普及してきたのだった★18

 住吉神と武内宿禰は、外敵の来襲に対する守護者の代表となる。将軍の教訓を説いた『明訓一斑抄』★19(徳川斉昭著、1845年)は、「夷狄を近づくべからざる事」と題する章のなかで、「昔し異国より日本を攻んとはかるときは[中略]神代には住吉大明神、人代には武内大臣を置かれたるぞ」と記す★20。そのうえで「異国乱るゝと聞ば、九州に能き武将を撰み、異国を押へさせよ」と説く。すなわち江戸時代には、外敵は九州、すなわち南西/裏鬼門から訪れるという前提があったようだ。

 神功皇后・武内宿禰・住吉神。三者は九州、すなわち日本の南西/裏鬼門からの外敵の侵入を防ぐ守護神であった。三者があらわす八幡信仰の拠点である石清水八幡宮は、京都の南西/裏鬼門を守護する、王城鎮護の社である。元寇以降同社は、「日本」の国土全体の守護の役割を担ったという。

 そうであるとすればこの絵が捧げられるべきは、松前藩主よりもなお、国家の中心たる天皇ではなかったか。

天覧と尊王


 京都三条大橋にある通称「土下座像」は、御所に向かって拝礼する尊王家高山彦九郎(1743―1793年)を象った銅像である。彼は、当時京都を中心に根を張っていた垂加すいか流の尊王思想の影響を受け、全国で人士との交遊を重ねた末、幕府の嫌忌するところとなり自刃する。幕末の志士の先駆をなす人物だ。

 この彦九郎こそ、《夷酋列像》の天皇による閲覧を実現した立役者であった。完成した絵をもって上洛した波響の動向は、この彦九郎の日記によって追うことができる。なぜかといえば彦九郎は、《夷酋列像》に並々ならぬ関心を向け、たびたび波響から絵を借り受けては、彦九郎の支援者であった岩倉家をはじめとする公家衆や豪商にそれを見せて回っていたためだ。そうしたキャンペーンが、光格天皇の《夷酋列像》天覧に結実したと考えられている。

 だが、そもそもなぜ彦九郎がこの絵に執着したのかという問いに対し、納得のいく説明はいまだ与えられていない。しかし《夷酋列像》には、天皇を強く意識して制作されたと思しき要素が、いくつもある。彦九郎はおそらくそのことを知っていたのだろう。

 光格天皇は、歴代天皇のなかでもとりわけ多くの朝儀や神事を再興・復古し、朝廷の権威回復に尽力した天皇と評される★21。例えばその復古事業の一つに、寛政の御所造営がある。光格天皇は、大火で焼失した御所を平安時代の様式や規模で、復古して再建することを幕府に要求し、実現させた。老中松平定信の指揮のもと、古代の御所の建築や障壁画が研究された。そして寛政2年(1790)4月、多くの見物人に見守られるなか、復古的に造営された御所に天皇が遷幸する行列が執り行なわれた。それは、主催者と見物者とが「古代」への憧憬を共有した一大イベントであった★22

 この寛政度御所造営で美術史上とりわけ注目を集めるのが、御所の紫宸殿の身舎、天皇の高御座の背面に描かれる《{賢聖障子》【図6】である。中国殷代から唐代までの功臣を描いたこの壁画の制作は、宇多天皇のときに、「麒麟閣の故事」に倣ってはじめられたという★23

【図6】住吉広行筆《賢聖障子屏風》部分(※御所の障壁画の完成見本か)(江戸時代、18世紀、東京国立博物館所蔵)
 

《夷酋列像》の制作もまた、「麒麟閣の故事」に倣って行われたことを、先に述べた。《賢聖障子》の制作が絵師に命じられたのは、寛政元年(1789)10月5日、《夷酋列像》が成る寛政2年(1790)10月の、ちょうど1年前のことである。すなわち《夷酋列像》の制作は、この《賢聖障子》を、そしてその絵を背後に座す天皇を、強く意識したものであったに違いない。

日月屏風というフォーマット


 それだけではない。《夷酋列像》のフォーマットもまた、天皇の背後に置かれるにふさわしいものであった。《夷酋列像》の構成は、中世の日月屏風じつげつびょうぶの型式に則る。このことは別稿★24で論じているので、詳しくはそちらを参照いただきたい。ここでは概略を述べる。
《夷酋列像》は現状では1枚ずつ独立し、もとの形態はわからない。模写の形態もまた多様であるが、各模写の検討から、12図は前半6図後半6図に別れ、それぞれ「春」「秋」と名付けられていたことがわかった。その制作当初の形態をもっとも忠実に伝えるのは、広島藩支藩藩士小島貞喜(雪そう)による模写【図7】であろう。これはジグザグに折って立てると小型の屏風の様相を呈し、表裏それぞれから前半6図、後半6図を見せる仕立てである。この模写には「夷酋列像 全」との題がつく。これは原画の「春」「秋」を一体化して「全」と名付けたものだろう。すなわち《夷酋列像》は、前半6図を右隻、後半6図を左隻とする、屏風のもっとも一般的な形式である六曲一双屏風【図8】の様相を示していたと考える。

【図7】小島貞喜筆《夷酋列像模写》(1843年、個人所蔵)
 

【図8】《夷酋列像》と六曲一双屏風との対応
 

 それを踏まえて絵を眺めると、屏風の冒頭(右端)と末尾(左端)の両端に位置する2図、第1図麻烏太蝋潔マウタラケと第12図窒吉律亜湿葛乙チキリアシカイの類似があらわとなる【図9】。2者はともに、異国渡りの織物のうえに毛皮(それぞれラッコ皮と白いヒグマか)を敷き、膝を曲げて座す。類似する2図には、金銀、黒白、男女の対照が見出せる。これらはいずれも、日(太陽)と月(太陰)の対応をあらわす。

【図9】《夷酋列像》より、麻烏太蝋潔、窒吉律亜湿葛乙
 

 太陽―金日―太陽に棲む黒い烏【図10】―陽=男
 月―銀月―月で仙薬を撞く白い兎【図11】―陰=女

【図10】寺島良安編『和漢三才図会』(1712年序、1824年刊)
 

【図11】寺島良安編『和漢三才図会』(1712年序、1824年刊)
 

 そして、「麻烏太蝋潔マウタラケ」の名と、居住地をあらわす「烏蝋亞斯蹩子ウラヤスベツ」の図中の漢字表記には、太陽に棲む「烏」の字が2つと、太陽の「太」の字がある【図12】。

【図12】《夷酋列像》より、麻烏太蝋潔(部分)
 

 つまりこの絵は、中世以来つくられた、日月を画面に配す屏風【図13】に倣って構成されている。それは、日月ともに、四季の景観や花鳥を配するもので、そこでは屏風の右左・日月・方位・四季が次のように対応する。

【図13】《日月山水図屏風》(室町時代、16世紀、東京国立博物館所蔵)
 

 右隻―日―東―春
 左隻―月―西―秋

《夷酋列像》で右隻に相当する前半6図が「春」、左隻に相当する後半6図が「秋」と題されることは、この定式に沿う。

 そして、第1図麻烏太蝋潔マウタラケと第12図窒吉律亜湿葛乙チキリアシカイにはそれぞれ、日と東、月と西に関わる神仙が重ねられる。

〈日月-東西〉に重なる神仙


 体育座りのポーズをとる麻烏太蝋潔マウタラケの、威厳があるとは言い難いその姿には、手本となったと考えられる仙人図が指摘されている。仙人図を用いる意義は不明であったが、ここに「日」を介在させることで、波響の意図が見えてくる。

 手がかりは隣接する図にある。第2図、白髪の老人超殺麻チョウサマ【図14】は、「鍬形くわがた」と称するアイヌの宝器を掲げ、腰に刀剣をげる。鍬形や刀剣、耳飾りや帯には、多数の玉の装飾がある。玉は《夷酋列像》12図すべてに確認できるが、本図は特にその数が多いうえ、他図には見られない勾玉の形状が確認できる【図15】。刀剣と勾玉の組み合わせは、これに鏡を加えた3つからなる、三種の神器を想起させる。

【図14】《夷酋列像》より、超殺麻
 

【図15】《夷酋列像》より、超殺麻(部分)
 

 鍬形は、鏡の見立てだ。《夷酋列像》と同時期に制作された《蝦夷島奇観》(東京国立博物館所蔵)で、鍬形は「蝦夷第1品の神器」と説明される【図16】。また鍬形には金属製の円盤が貼り付けられるのが通例であり、超殺麻の携える鍬形にもそれを確認できる。その形状は鏡に通ずる。つまり、刀剣と勾玉とともに描かれる鍬形は、「神器」という共通概念と形状の類似によって、八咫鏡やたのかがみに転化する。

【図16】《蝦夷島奇観》(部分)(1800年成立、東京国立博物館所蔵)
 

 八咫鏡は、天岩戸にこもった天照大神を外に出すためにつくられた。超殺麻チョウサマはその八咫鏡/鍬形を、画面の右方、すなわち右隣の麻烏太蝋潔マウタラケに向けて掲げる。これにより日/太陽を内包すると見た麻烏太蝋潔マウタラケは、太陽神・天照大神へと転じる。天岩戸神話を描く絵では、天照大神を正面から捉えて描くのが一つの定型である。同じく正面から捉えられる麻烏太蝋潔マウタラケの、膝を立てて座すその体勢は、天照大神が天岩戸にこもる姿をあらわすのではないか。
 そうであるとすれば、波響が仙人の図像集『列仙図賛』所載の「廣成子こうせいし」図【図17】を参照する意図が説明できる。廣成子は、崆峒山の石室に居た古の仙人で、伝説上の皇帝「黄帝」がこれを師と仰いだことからその名が知られる。『列仙図賛』のもととなった明代の『有象列仙全傳』(王世貞著)はその伝承に基づき、黄帝がその石室を訪ねる場面を描く【図18】。洞窟の中に座す廣成子に対し、黄帝は深々と頭を下げる。『列仙図賛』では二仙はそれぞれ独立した1図となるが、2図は見開きの左右に配され、右頁の廣成子に対し左頁の黄帝がやはり頭を下げる。『列仙図賛』には石室は描かれないが、廣成子の膝を曲げて座すその体勢は、石室に隠る様をあらわすものと解せる。

【図17】月僊画『列仙図賛』(1780年刊、国立国会図書館所蔵)
 

【図18】王世貞著『有象列仙全傳』(明代、国立国会図書館所蔵)
 

 中華民族の祖とされる黄帝の崇敬を受ける廣成子の格は、皇祖神天照大神のそれに比肩しうるだろう。天照大神と廣成子、両者は和漢の最上格の神仙であり、ともに岩戸/石室に隠る。つまり麻烏太蝋潔マウタラケは、〈太陽/日―天照大神/石戸に隠る最上格の神―廣成子/石室に隠る最上格の仙人〉という連関を内包する。

 ここで日月屏風の定式〈右隻―日―東―春〉を思い起こすと、麻烏太蝋潔マウタラケの錦を飾る大きく口を開ける青い龍は、四神のうち東をつかさどる青龍であると気がつく。龍の刺繍は他図にも見えるが、青い龍は本図だけだ。また、超殺麻チョウサマの造形には、波響の師宋紫石そうしせきが手がけた仙人「東方朔とうほうさく」の図が利用されていると見え、これもやはり東と関わる。

 東方朔は、仙女西王母せいおうぼの仙桃を盗んで食べ、不老長寿を得たとの伝説で知られる。絵画や文学、芸能に、二仙はしばしば対で登場し、長寿を言祝ぐ。西王母は単独でも、波響を含む近世の画人たちに盛んに描かれた。その多くは西王母を若い美女とするが、古代中国の地理書『山海経』が伝える西王母は、「豹尾虎齒」(豹の尻尾と虎の歯)を持つ老婆だ。窒吉律亜湿葛乙チキリアシカイはこれに似る【図19】。

【図19】『山海経』(1902年刊、国文学研究資料館所蔵)
 

 とすれば窒吉律亜湿葛乙チキリアシカイの右隣、第一一図、弓を張る泥濕穀未決ニシコマケの傍にこれ見よがしに置かれる長靴【図20】は、窒吉律亜湿葛乙チキリアシカイ/西王母の見立てを解く鍵であろう。豹を思わせる斑点模様は、それが蝦夷の産物「水豹あざらし」の毛皮であることを示す。その履き口を通り靴の後方から出る紐は、地面に向かって垂れさがるべきところが、つま先に向かって不自然に伸びている。水豹の靴から尻尾のように伸びるこの紐は、「豹尾」、すなわち『山海経せんがいきょう』の西王母をあらわす。

【図20】《夷酋列像》より、泥濕穀未決(部分)
 

 窒吉律亜湿葛乙チキリアシカイの錦には、西王母の居所「崑崙山」や西王母の使いの「三青鳥」を喚起する文様が確認できる【図21】。着座する彼女の錦の裾が捲れあがり、白い裏地を見せるのも、仙人が飛翔しする様をもとにした、人物が常人でないことをあらわす記号である。

【図21】《夷酋列像》より、窒吉律亜湿葛乙(部分)
 

 西王母は不老長寿の桃を持つと伝えられ、桃とともに描かれるのが通例である。他方で彼女は、月にまつわる著名な伝説「嫦娥奔月じょうがほんげつ」にも登場する。前漢の思想書『淮南子』の次の一節に基づく伝説だ。


 弓の名手羿げいは、十ある太陽のうち九つを射落とし地上を日照りから救い、人々に讃えられる。ところが射落とした太陽の産みの親、天帝の恨みを買い、妻の嫦娥じょうが(恒娥)とともに不死の力を奪われる。そこで二人は西王母に不死の薬を請いうけるが、嫦娥は一人それを盗み、月に逃げた。


 月の仙女嫦娥は、平安時代以来詩歌や物語にたびたび登場し、波響による賞月の漢詩にもその名が見える。泥濕穀未決ニシコマケの弓を張る手元、赤い甲あてには、金彩による青海波紋が描かれる【図22】。それを海面と見なせば、上空を飛翔する三羽の鳥がある。本図の弓と金の鳥との組み合わせは、太陽/金烏を射落とした羿を喚起する。羿が太陽を射落としたことにより、乾いた土地は潤いを取り戻したという。「泥濕穀未決ニシコマケ」の漢字表記は、土地が「しめ」り「泥」となり「穀」物が実るという、羿が太陽を射落としたことによる恵みを思わせる。

【図22】《夷酋列像》より、泥濕穀未決(部分)
 

 以上のことから左端の2図は、西王母と「嫦娥奔月」を介して、西と月に結びつく。

不老長生の願い


 ここまで、《夷酋列像》が日月屏風のフォーマットに沿うことを見てきた。島尾新によれば、朝鮮半島で李朝時代に用いられた日月屏風には、「永遠の生命の象徴である桃の置かれたもの」、「月を欠く代わりに松・竹・霊芝・鹿・鶴・龜といつた、やはり長壽の象徴をふんだんに盛り込んだもの」があった★25。すなわち日月屏風は、不老長生の願いと関わる。
《夷酋列像》もまた、桃と関わることはすでに述べた。第3、4、5図が、『三国志』の桃園結義や鬼門守護の桃に結びつくのであった。また超殺麻チョウサマ/東方朔と窒吉律亜湿葛乙チキリアシカイ/西王母が長寿の桃と結びつくことも見た。

 それだけではない。第1図麻烏太蝋潔マウタラケに重ねられる廣成子は、明代の『封神演義』では、「桃源洞」あるいは「桃園洞」の仙人となり登場する。また、第6図失莫窒シモチから導かれる蘇我馬子は「桃原墓」に葬られたことが『日本書紀』に記される。すなわち前半6図は、いずれも桃と縁がある。

 対して後半の6図はいずれも、不老長生をもたらす薬と関わる。仙人や道士がつくる薬は、仙薬あるいは丹薬と呼ばれ、神仙思想で重視された。古代日本が受け容れた神仙思想は、江戸時代には広く庶民にまで浸透していた。第7図乙唫葛律イニンカリの導く丹生都比売神は、丹生、すなわち丹薬の材料となる丹砂(辰砂)の産出と関わる。第8図訥膣狐殺ノチクサは、武内宿禰に重なることで長寿をあらわす。福岡の香椎宮には、武内宿禰に縁のある「不老水」と称する湧水がある。第9図卜羅鵶ポロヤがひく犬と衣服の羽毛は、江戸時代の人々には馴染みの故事「鶏犬昇天」──昇天を果たした淮南王劉安が残した丹薬を家畜の鶏と犬が舐めともに昇天した──を喚起する★26。続く第10図乙箇律葛亜泥イコリカヤニは大国主神と結びつくと先に述べた。大国主神は、皮を剥がれて苦しむ素菟しろうさぎ蒲黄がまのはなで傷を癒すことを教える(因幡素兎伝説)。故に大国主神は病を治癒する神とも知られる。兎は月で仙薬を撞く【図11】。また蒲黄がまのはなの「ガマ」の音は蝦蟇ガマに通じ、月に昇った仙女嫦娥が蟾蜍ヒキガエルになったとの伝承、すなわち、末尾の2図の「嫦娥奔月」と結びつく。これは西王母の仙薬をめぐる物語であった。

《夷酋列像》の前半6図は桃、後半6図は薬と結びつき、不老長生を導く。この点でもこの絵は、日月屏風の定式に従うと言える。

屏風の中央に立つ者


 ではなぜ《夷酋列像》は、日月屏風のフォーマットを用いてアイヌの肖像を描いたのか。それは日月屏風が、権威ある人物の背景に用いられてきた伝統を有するためだろう。例えば朝鮮半島の《日月五岳図屏風》【図24★27は、皇帝の玉座の背後に置かれ、皇帝を「日と月の間」、「道教的な宇宙の中心」に位置づけ★28、「天と地の間に立つ者というイメージを作り上げる」という★29。ミッシェル・バンブリングによれば、日月の屏風(あるいは衝立)の前に皇帝/王(あるいはその玉座)を描く伝統は、東アジア各地に伝播していた★30。注目すべきは、バンブリングが挙げる作例すべてに、日月図とともに君主に仕える臣下たちが描かれることである。つまりそれらの絵はいずれも、君主、功臣、日月図の、三つの要素から成る。《夷酋列像》は、そのうちの君主の姿を絵の外に出し、功臣図と日月図を融合したものと言える。

【図23】景福宮の玉座の後ろにある日月五峰図
 

 したがって、この絵が讃えるのは、描かれた「夷酋」たちではない。屏風の中央に立ち、自らの左右に12人の「夷酋」たちを従える者をこそ、絵は讃える。日本の鬼門/北東と裏鬼門/南西の守護を内包するこの絵の中央に立つべきは、国家の中心たる天皇に他ならない。

 天皇の居所である御所の鬼門守護は手厚い。御所の北東の「け」、すなわち築地塀が内側に凹む一角は「猿が辻」と称され、塀の上には猿の像が安置される。猿は、魔が「去る」に通じ、また猿/申が鬼門/北東と反対の南西を指すことから、鬼門除けの標とされた。御所の北東に位置し、皇上鎮護の社とされる幸神社さいのかみのやしろの祭神は猿田彦神である。そして、京都の鬼門鎮護の霊場と名高い比叡山延暦寺の鎮守社・日吉大社は猿を日吉神の使いとする。すなわち御所の北東には、猿による鬼門守護が幾重にも施されている。

 鬼門守護は御所内部の障壁画にも及ぶ。御所の清涼殿の北東隅に位置する「荒海障子」は、異形の「手長」と「足長」をともに描くもので、「足長」に背負われた「手長」が水中の魚を捕らえる【図24】。彼らは『山海経』が東にあると記す「長臂国」と、北にあると記す「長股国」の住人である。他方で南西隅にある「鬼間」には、『三才図会』に「害を除く」獣と記される「白沢王」が、鬼を切る絵があったという。岸文和は「手長足長が魚を捕らえる行為と、勇士が鬼を切ろうとする行為」は、それぞれの絵が北東/鬼門と南西/裏鬼門に位置することによって、「仙霊が邪気を払う(祓う)行為として見なしうる」と言う★31

【図24】『鳳闕見聞圖説』(国文学研究資料館所蔵)
 

 かように魔除けの標や魔除けの絵画は、「しかるべき場所に設置され」てはじめて効力を発揮する。《夷酋列像》もその一つだ。その「しかるべき場所」とは御所ではなかったか。

《夷酋列像》の居場所


《夷酋列像》と同時代に刊行された京都の地理書に、『都名所図会』(1780年刊)および続編の『拾遺都名所図会』(1787年刊)がある。同書は京の都を、平安城の周囲を「帝都鎮護の四神」がつかさどる「四神相応の地」であることを踏まえて、都を「平安城」「左青龍」「右白虎」「前朱雀」「後玄武」に区分けし、その区分ごとに神社仏閣山川地理を紹介するという構成をとる。こうした当時の地理・方位感覚を踏まえて、12図を見ていこう。

 第1図麻烏太蝋潔マウタラケは天照大神に重ねられ、衣服には青龍が描かれていたのだった。青龍は四神のうち東をつかさどり、天照大神を祀る伊勢神宮は、御所から見て遠く東に位置する。

 第2図超殺麻チョウサマに重ねられる東方朔の、西王母の桃を盗んで食べたという伝承は、明代の長編小説『西遊記』で、怪猿孫悟空が西王母の桃を盗む一節の由来となったという。さらに超殺麻チョウサマの造形には、天岩戸神話を描く絵に頻繁に登場する異形の神、猿田彦神の姿が利用されていると見える【図25】。すなわち本図は、東方朔―桃を盗む―孫悟空―猿―猿田彦神という連想を内包する。超殺麻チョウサマの長く垂らした左袖の内部には、右手とは明らかに異なる体毛が見え、それはあたかも本図と猿との結びつきをほのめかすようである【図26】。本図が指し示す「東」と「猿」は、先に見た御所の猿による鬼門守護を喚起する。

【図25】宮司宇治土公家定哉賛《猿田彦大神》(1726-1781年頃、猿田彦神社所蔵)
 

【図26】《夷酋列像》より、超殺麻(部分)
 

 第3図貲吉諾謁ツキノエもまた、関羽の武器「青龍偃月刀」を介して、東に結びつく。加えて本図は赤に縁があることを先に見た。赤は、やはり御所の鬼門守護をつかさどる赤山禅院を導く。本尊の赤山大明神は、唐の赤山にあった泰山府君を勧請したものだ。泰山府君は、中国五岳(五名山)のなかでも筆頭とされる岳・泰山の神で、東岳大帝とも称される。

 第4図贖穀ションコには黄帝が重ねられ、衣服には黄龍が描かれる。黄龍は四神と並び、中央をつかさどる。他方で本図には、『三国志』の劉備玄徳が重ねられるのであった。「玄」は、四神のうち北をつかさどる玄武を導く。先に、黄帝の昇仙伝説が《夷酋列像》制作の契機となった事件と結びつくことを見た。その昇仙伝説はさらに、清和源氏の祖・源基経の父貞純親王が龍となり昇天したという『前太平記』に載る逸話とも通じる【図27】。貞純親王はその居所「桃園宮」にちなんで、桃園親王とも称された。桃園宮は現在の首途かどで八幡宮のあたりにあった。同社の社伝によればそこは、桃園親王の旧跡であり、平安京御所★32の北東隅に位置し、皇城鎮護の社として重んぜられたという。首途八幡宮の名は、源義経が奥州平泉へ出立する際に同社に立ち寄ったことに由来する。王城の中心にあってなお、そこは、北東/鬼門への入り口となる。

【図27】宝田千町作、歌川芳重画『前太平記』(江戸時代、19世紀、国会図書館所蔵)
 

 第5図乙箇吐壹イコトイの内包する浦島太郎は亀を、張飛の「蛇矛」は蛇を導き、亀と蛇ははやり玄武/北だ。乙箇吐壹イコトイに重ねられる牛頭天王は、それを祀る祇園社/八坂神社を導く。

 御第6図失莫窒シモチは、京都の北を守護する鞍馬寺、そこに祀られ北をつかさどる毘沙門天を内包する。祇園社も鞍馬寺も、古代以来、鬼門守護と結びつけられてきた場所である。

 つまり前半6図は、いずれも東あるいは北に結びつき、6図全体で北東/鬼門の方位に対応する。そのうえさらに、御所あるいは京都の東から北に位置し、都を守護する神社仏閣と結びつく。

 同様に、第7図から第9図の乙唫葛律イニンカリ訥膣狐殺ノチクサ卜羅鵶ポロヤが、京都の南西/裏鬼門の守護をつかさどる石清水八幡宮を導くことを先に見た。加えて、第7図で述べた丹生都比売神を祀る丹生都比売神社は、京都の南、第9図が導く住吉大社は京都の南西に位置する。それらはいずれも、外敵の脅威から国家を守護するという文脈と結びつくものであった。

 前半6図と後半3図は、北東/鬼門と南西/裏鬼門を守護する物語を内包し、鬼門/裏鬼門を守護する場所と結びつく。

 他方でのこりの3図は、別の文脈を孕む。
 大国主神を導く第10図乙箇律葛亜泥イコリカヤニは、京都のはるか西、出雲大社を喚起する。のみならず、大国主神には、京都の西を流れる桂川上流にある保津峡を開削したという伝説(蹴裂けさき伝説)がある★33。現在の亀岡盆地は、かつて赤土の泥湖「の湖」であった。大国主神は、この地を治める神々とともに山に鍬をいれて渓谷を開き、溜まっていた水を山城に流して豊かな土地を生んだという。保津峡を流れる保津川は、大堰川、桂川と名を変え、石清水八幡宮の近くで木津川、宇治川と合流する。

 大堰川の名は、秦氏はたしによる葛野大堰が築かれたことに由来する。秦氏の一族は、応神天皇のときに渡来した弓月君の子孫という伝承を持つ新羅系の渡来人で、五世紀後半に京都(山城国)の葛野の地に移り住んだといわれる。彼らは京都に、養蚕や織物、農耕と治水の技術を伝え、とりわけ葛野川(桂川)の大堰による治水は、都に恵みと繁栄をもたらしたという。弓を持つ第11図泥濕穀未決ニシコマケは、月と関わり、太陽を射落として恵みをもたらした羿に重ねられるのであった。弓、月、そして羿の物語は、京都に恵をもたらした弓月君や秦氏の歴史と重なり合う。

 窒吉律亜湿葛乙チキリアシカイが敷く織物は「朝鮮毛綴」と呼ばれる★34。朝鮮と織物の結びつきはやはり秦氏を喚起する。秦氏の祀る松尾大社は「西の猛霊」と称される皇城鎮護の社である。摂社の月読神社には、神功皇后の出産を遅らせた月延石が祀られる。桂川周辺には、月神を奉祀する信仰の遺跡が広範に確認されている。古代以来文学にあらわれる「月に生える桂」が、葛野の地の「かつら」と結びついたのだという。《夷酋列像》の後半6図のうち5図に、この「葛」の字が記される。

 すなわち以上の3図は、京都の西、葛野の地と結びつく。そのうえで、西に去った神、あるいは西からの渡来人が、京都に恵みと繁栄をもたらす物語を内包する。それは後半6図が、神功皇后伝説や大国主神を介して、出産や子孫繁栄を物語ることに沿う。

 記紀の神功皇后紀や応神天皇紀には、天皇家が渡来人や熊襲/隼人の系譜に連なる一族と血縁を結ぶ物語が含まれる。加えて、《夷酋列像》をつくった松前藩の氏神は、新羅明神という渡来神であった。松前藩の祖は、三井寺園城寺に祀られる神羅明神の前で元服し、新羅三郎と名乗った源義光である。松前藩の藩史を綴る歴史書は、その名をまさしく『新羅之記録』(1646年)という。

 渡来神や渡来人、あるいは大和朝廷にまつろわぬ一族。天皇家が、松前藩が、そうした「外」なるものを取り込んで繁栄してきた歴史を、後半6図は指し示す。

 これを踏まえて再び前半6図の鬼門守護と蝦夷征伐の物語に目を向けよう。それが示すのはもはや、脅威の防御ばかりではない。アイヌもまた、その脅威を取り除きこれを内に取り込めば、日本に恵みと繁栄をもたらすのだ。この絵は声高にそう主張するように、見えてくる。

 鬼門と裏鬼門の守護、「外」なるものがもたらす国家の繁栄、天皇の不老長生。絵に込められたこうした祈願の力は、それが御所に置かれたとき、すなわち、光格天皇がそれを目にしたとき、最大限に発揮されたに違いない(【図28】・【図29】)。

【図28】《夷酋列像》絵解き表
 

【図29】《夷酋列像》御所の守護マップ
 

光格天皇


「外」なるものが繁栄をもたらすというメッセージは、光格天皇には格別に響いたかもしれない。光格天皇は江戸時代で唯一、天皇の父をもたずに皇統を継いだ人だ。その強い「君主意識、皇統意識」は、その出自が閑院宮家という傍流であったことに起因するといわれる。例えば尊号一件──光格天皇が実父典仁親王に対して太上天皇(上皇)の尊号を贈ろうと望んだのに対し幕府がこれを拒んだ事件★35──は、その傍流意識の強さをよくあらわしている。

 光格天皇がその座に就いたとき、天皇家は危機を迎えていた。光格天皇から遡ること6代、東山天皇(第113代)以来、天皇と上皇の短命が続いた。なかでも、桃園天皇と後桃園天皇は、ともに22歳という若さで譲位に先立ち崩御し、皇統は危機を迎える。《夷酋列像》天覧のあった寛政3年(1791)、光格天皇は21歳で、2人の先帝が没した年齢を目前にしていた。絵に込められた不老長生の願いはこのとき、天皇家にとって、ひとかたならぬものであったに違いない。

 天覧があったのは、7月10日、11日であり、その翌12日は桃園天皇の命日にあたる。《夷酋列像》が内包する「桃」と「月」は、追号に「桃園」の語を持つ2人の先帝を、2者が眠る「月輪陵」を、天皇家の人々に想起させなかったか。
《夷酋列像》が内包する物語は、朝廷の権威や権力の回復と神聖(性)の強化という、光格天皇の動向に沿うものであった★36。天覧の実現のために奔走した尊王家・高山彦九郎の行動こそ、本稿の読み解きが荒唐無稽なものではないことの一つの証左となろう。

うつろなアイヌの身体


《夷酋列像》が内包する物語は、和人たちが共有していた物語群から引き出されたものたちだ。例えば、当時の江戸の山王祭の行列には、猿、鍾馗、浦嶋、竜神、神功皇后、武内宿禰といった、本稿で挙げた物語をあらわす山車が曳き出された★37。都の安寧と繁栄を寿ぐ祭礼は、そこに暮らす人々が物語を共有する場であり、それによって共同体を形成し強化する場でもあった。

 一見するとアイヌを賛美すると思われたこの《夷酋列像》もまた、和人が和人の物語を共有し、和人の共同体を強化するための場であった。描かれたアイヌの身体からはアイヌに固有の物語は抜き取られ、空洞化したうつろな身体には和人の物語が詰め込まれた。ただひたすらに、和人の物語の容れ物となること。彼らのうつろな表情が、その虚しさを物語っている。

 これこそが北のセーフイメージの極まりである《夷酋列像》の内実だ。アイヌの物語から切り離され、和人の物語や秩序のなかに組み込まれ、アイヌは身体を奪われていく。《夷酋列像》を契機にはじまったこの身体の収奪がおそらく、幕末から明治にかけて急速に増大する日本神話の神々の造形に結実していく。日本の古代に結びつけられ、すなわち、和人の歴史という物語に組み込まれることでますます、アイヌは固有の歴史や文化を失っていく。かくして失われた内実をもとめて、アイヌの身体は彷徨い続けることとなる。その漂流は今日もなお続いている。

 未知を既知に、恐怖を安心に変えんとする、波響の類稀なる想像力と切実さの痕跡。和人にとってそれは、幾重にも織り込まれた既知の物語同士の思いがけない連関と、それをアイヌに重ねる妙を楽しむ装置であった。そうした絵を読み解く愉楽が、結果的に支配を押し進める暴力となった。波響はそのことを知ってか、以降アイヌを描くことはなかった。

 しかし《夷酋列像》は、セーフイメージのお仕着せをやめない。今日に至るまで連綿と続く、さまざまなアイヌの表象も、同様である。アイヌに対してだけではない。はじめに述べたように、「安心」をもとめてあらゆるものにセーフイメージをお仕着せる営みが、その裡にある享楽と暴力を知ってか知らずか、臆面もなく繰り広げられる現況がある。絵を描くことやイメージを紡ぐこと、それを見ること消費すること、それによって安心を得ること。その裡にある享楽と暴力、その内実を説き明かす営みは、今日ますます大きな責務を帯びているように、思われてならない。
  【画像出典】 図1、8、28、29(乙箇律葛亜泥イコリカヤニ以外)、図2、3、9、12、14、15、20、21、22、26:ブザンソン美術考古学博物館提供©Besançon, musée des beaux-arts et d’archéologie - Photographie P. Guenat 図1、8、28、29(乙箇律葛亜泥イコリカヤニのみ)、図7:北海道博物館提供 図4:タヌポンの利根ぽんぽ行「利根町の絵馬」(http://toneponpokou.tanuki-bayashi.com/fukawajinjya/index.html)より転載(許諾取得済み) 図5、19、24:日本古典籍データセット(国文学研究資料館所蔵。人文学オープンデータ共同利用センター提供。URL= http://codh.rois.ac.jp/) 図6、13:ColBase( 国立博物館所蔵品統合検索システム。URL= https://colbase.nich.go.jp/) 図10、11、17、18、27:国立国会図書館デジタルコレクション 図16:東京国立博物館提供(https://webarchives.tnm.jp/) 図23:Wikimedia Commonsより引用(URL= https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Seoul_Gyeongbokgung_Throne.jpg)。Creative Commons BY・SA(権利者=Frayed) 図25:鎌田東二編『謎のサルタヒコ』(創元社、1997年)より転載(許諾取得済み) 図29:京都大学貴重資料デジタルアーカイブ(https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/)の画像をもとに作成

★1 本稿での「アイヌ」「和人」の用法は前回に倣う。括弧つきの「日本人」から「異人」と見なされた蝦夷/アイヌを「アイヌ」、彼らを異人と眼差した「日本人」を慣例に従い「和人」と称する。
★2 事件は今日「クナシリ・メナシの戦い」と称される。これについては次を参照した。 『新版 北海道の歴史 上 古代・中性・近世編』、北海道新聞社、2011年、287-308頁、田端宏執筆部分。 菊池勇夫「松前広長『夷酋列像附録』の歴史認識」『キリスト教文化研究所研究年報 : 民族と宗教』45号、宮城学院女子大学、2012年。
★3 新羅征伐、三韓征伐ともいう。「征伐」の語は、次の金時徳による定義に倣って用いる。「前近代の東アジアにおいて、「異国いこく」「外そと」「夷狄いてき」という存在は、文明の中心としての自己集団(華か)に対して、文明化されていない野蛮(「夷い」)として捉えられる。世界の秩序を乱す「夷」に対して、「華」は侵略される存在であり、「夷」の行為から世界の秩序を守る義務が課せられる。「華」によるその義務の遂行と正義の実現とが「征伐」・「征討」などと呼ばれる。」金時徳『異国征伐戦記の世界──韓半島・琉球列島・蝦夷地』笠間書院、2010年、4頁。
★4 国後島や択捉島には世界で唯一白いヒグマが生息していると言われており、2009年に国後島でその姿が撮影された。URL= https://www.chikyu.ac.jp/publicity/news/2016/img/0502.pdf
★5 狩場明神の画像は以下の「和歌山市の文化財」ウェブサイトで閲覧できる。URL= http://wakayamacity-bunkazai.jp/shitei/3668
★6 「古代の南九州には、熊襲あるいは隼人と呼ばれ、中央の人々から異民族視された人々が居住していた。『古事記』『日本書紀』に記載されているところの熊襲・隼人の征伐伝承は、大和政権に反抗する異民族としてあつかわれ、たびたび反乱を繰り返している。[中略]『日本書紀』の伝承記録からみても、3~4世紀代、大和朝廷に抵抗した南九州の人々が熊襲と呼ばれ、大和朝廷に服属した5世紀代以降は隼人と呼ばれたとみてよいであろう。」大林太良「合流と教会の隼人世界の島々」『海と列島文化 第五巻 隼人世界の島々』小学館、1990年、82-83頁。金時徳『異国征伐戦記の世界──韓半島・琉球列島・蝦夷地』
★7 秋本吉郎(校注)『風土記』(岩波書店、1958年)、482-483頁。
★8 以下本稿では、坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野晋校注『日本古典文学大系 日本書紀』、岩波書店、1976年、を参照する。
★9 前掲註★6参照。
★10 駒井和愛「熊襲・隼人考」『古代学』16、古代学協会、1969年、118頁。
★11 桜井徳太郎、萩原龍夫、宮田登校注『日本思想大系 寺社縁起』岩波書店、1975年、176頁。
★12 以下本稿では、倉野憲司、武田祐吉校注『日本古典文学大系 古事記・祝詞』、岩波書店、1958年、を参照する。
★13 吉田修作「海を越えた皇后―神功皇后と新羅・筑紫」『福岡女学院大学紀要 人文学部編』15号、2005年、412頁。
★14 メラニー・トレーデ著/永井久美子訳「永享五年八幡縁起絵巻の生涯とその余生」『中世絵画のマトリックス』青簡舎、2010年、227頁。
★15 石川県の本土寺が所蔵する《観音経絵》(重要文化)には、神功皇后が祈りを捧げる神の頭部(両耳の上)に白い羽根状の装飾がある。このことからその神は、「八幡信仰と関わる住吉神」に比定される。加須屋誠「本土寺蔵観音経絵小論」『中世絵画のマトリックス』Ⅱ、青簡舎、2014年、88頁。
★16 山下和秀「宇部神社」『社寺縁起伝説辞典』、志村有弘、奥山芳広編、戒光祥出版、66頁。
★17 清水由美子「延慶本『平家物語』と『八幡愚童訓』―『中世に語られた神功皇后三韓出兵譚―』」『国語と国文学』第80号、1988年、417頁。
★18 阿部泰郎「八幡縁起と中世日本―『百合若大臣』の世界から」『現代思想』第20巻第4号、1992年4月。
★19 将軍に向けられた武士家訓類の一つ。江戸時代最後の将軍徳川慶喜の父、水戸藩主徳川斉昭が老中阿部伊勢守正弘に贈られた書。
★20 石井紫郎校注『芸の思想・道の思想3 近世武家思想』、岩波書店、1974年、150頁。
★21 藤田覚「光格天皇の意味 復古と革新」『大航海 歴史・文学・思想』45号、新書館、2003年、414頁-418頁。藤田覚『天皇の歴史06巻 江戸時代の天皇』、講談社、2011年、248-257頁。
★22 「寛政2年の御遷幸」本居宣長記念館ウェブサイト内記事。URL= http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/gosenkou.html(2020年8月1日閲覧)
★23 五十嵐公一、武田庸二郎、江口恒明『天皇の美術史 五 朝廷権威の復興と京都画壇 江戸時代後期』、吉川弘文館、2017年、50頁。
★24 春木晶子「《夷酋列像》と日月屏風―多重化する肖像とその意義―」『美術史』、美術史学会、2019年、445-464頁。下記リンクからPDFファイルをダウンロードできる。URL= https://researchmap.jp/harukishoko/published_papers/19980046
★25 それぞれ、《日月天桃図屏風》(韓国・国立中央博物館所蔵)、《十長生図屏風》(韓国・湖巌美術館所蔵)を指す。島尾新「花鳥図屏風の図像学―出光美術館蔵「日月四季花鳥図屏風」について―」『國華』第1201号、國華社、1995年、213頁。
★26 滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』第94輯(1820年刊)の見返し絵はこの故事を踏まえたもので、馬琴は息子の宗伯を医師として召し抱えた松前道広への追悼の意を込めてこの画題を選んだという。播本眞一「『南総里見八犬伝』を読む(四)」『近世文芸 研究と評論』第73号、早稲田大学谷脇研究室、2007年。
★27 韓国の昌徳宮仁政殿が所蔵する李朝時代(1392-1910)後期の作例をはじめ、同様の屏風が、約20点確認されるという(ミッシェル・バンブリング「金剛寺蔵日月山水図屏風―東アジアにおける日月山水図屏風の伝統の探求」『鹿島美術財団年報』第15別冊、鹿島美術財団、1997年、638頁。
★28 前掲註★27ミッシェル・バンブリング、638頁。
★29 前掲註★25島尾新、217頁。
★30 4件の作例は、《尚円王御後絵》(15世紀、原画は消失し1921年撮影の白黒写真が現存する)、《大禹皇帝図》(1507年、山西省新絳県の稷益廟壁画)、陳洪綬《宣文君授経図》(17世紀前半、クリーヴランド美術館所蔵)、《老政官参集記念画帖》(1748年、韓国国立中央博物館所蔵)である(前掲註★27ミッシェル・バンブリング、634頁-646頁)。
★31 岸文和「魔除けのメディア学―白沢王の絵はいかにして鬼を鎮めることができるか」『美術フォーラム21』第6号 越境する美術史学、醍醐書房、2002年、716頁-816頁。
★32 現在の京都御所は、光厳天皇の即位以来御所とされ、明徳3年(1392)の南北朝合一によって皇居と定められた場所である。
★33 上田篤、田中充子『蹴裂伝説と国づくり』、鹿島出版会、2011年、175頁。
★34 本作と同様の朝鮮毛綴を、祇園山鉾連合会前理事長の吉田孝次郎氏が所蔵している。吉田氏によれば、現在世界で京都にのみに伝わる織物という。祇園祭祭礼の際には、この織物をはじめさまざまな高価な珍しい織物を町衆が競って家の前に飾ったという。
★35 谷本晃久によれば、《夷酋列像》の天覧があった寛政3年7月は、幕府が朝廷からの太上天皇号宣下要求を退けた時期にあたると同時に、その翌月には再びその問題が朝廷側から蒸し返されるタイミングにあたるという。佐々木利和・谷本晃久「『夷酋列像』の再検討に向けてシモチ像と「叡覧」と」『北海道博物館アイヌ民族文化研究センター研究紀要』第2号、北海道博物館、2017年、148頁。
★36 光格天皇が再興した神事のなかには、本稿でもたびたび挙げた石清水八幡の、臨時祭祀の再興も含まれる。
★37 文化七年(1810)の祭礼番付による。竹内道敬『江戸の祭礼 資料集成 その壱 一枚番付』、株式会社南窓社、2017年、14頁。

春木晶子

1986年生まれ。江戸東京博物館学芸員。専門は日本美術史。 2010年から17年まで北海道博物館で勤務ののち、2017年より現職。 担当展覧会に「夷酋列像―蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界―」展(北海道博物館、国立歴史民俗博物館、国立民族学博物館、2015-2016)。共著に『北海道史事典』「アイヌを描いた絵」(2016)。主な論文に「《夷酋列像》と日月屏風」『美術史』186号(2019)、「曾我蕭白筆《群仙図屏風》の上巳・七夕」『美術史』187号(2020)ほか。株式会社ゲンロン批評再生塾第四期最優秀賞。
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