【ゲンロン11より】革命から「ラムちゃん」へ(前篇)|大井昌和+さやわか+東浩紀
初出:2020年03月30日刊行『ゲンロンβ47』
以下に、その二つめの座談会の前半部を公開します。ここで幾度も話題にあがっている永田洋子という女性は、連合赤軍事件の主犯のひとりとして知られます。永田をとおして見えた、学生運動とジェンダー、そしてマンガ/アニメ表現の意外な関係とは。(編集部)
※本記事は『ゲンロンβ47』に「永田洋子と「かわいい」の思想──マンガは歴史を語れるか・特別編」として先行掲載されたものです。『ゲンロン11』掲載の本編とは一部内容が異なります。
永田洋子は「かわいい」か
東 議論の前提として、大塚英志の『「彼女たち」の連合赤軍』の話題から始めたいと思います。これはサブカルチャー批評史上でも非常に重要な本ですね。
大井昌和 大塚の著作のなかでもかなりいい。
さやわか この本は、永田洋子の獄中手記『十六の墓標』(1982-83年)と『続 十六の墓標』(1990年)を読んで書かれています。『続』には永田が書いた絵が出てくるのですが、大塚はその絵がマンガっぽいことに着目して、連合赤軍事件はじつは女性性の問題だったのではないかということに肉薄していく。
大井 とはいえ、二冊読むと、大塚はほとんど『続』のほうしか見ていないかんじもしますね。『続』で永田が描いたマンガっぽい絵を「乙女ちっく」と表現する。たしかに永田が描いているのは、昔の少女マンガのようなキャラクターです。
さやわか 女の子が三つ指をついて座っていて、その手前に障子やふすまではなく、刑務所の檻の格子があるという絵ですね。永田は獄中生活の途中から絵を描くようになり、大和和紀の『あさきゆめみし』や昔の浮世絵の模写も始めます。けれども大塚は浮世絵の模写についてはほとんど興味を示さない。永田をあくまでも「マンガを描く女性」として『「彼女たち」の連合赤軍』の議論を展開していく。
東 大塚の議論はきわめてクリアなんですよ。連合赤軍は、永田洋子を中心人物とする革命左派と森恒夫を中心とする赤軍派というふたつの党派が合体してできている。そこで赤軍派の男性原理と永田は衝突していた。そしてその原因は、大塚によれば、ほんらい永田が同世代の「花の二四年組」のマンガ家たちと同じ「かわいい」感性を持っていたにもかかわらず、それをうまく表現できなかったことにあった。それゆえに、そこで感じた違和感が攻撃性へと転化して、リンチ殺人という悲劇が起きることになった。その「かわいい」感性が刑務所に入ってから開花したのが、マンガ的な絵だということですね。
これは図式的にわかりやすいというだけでなく、かなり説得力があります。永田洋子だけでなく、植垣康博、坂口弘、坂東國男などの回想録も読んでみましたが、たしかに赤軍派と革命左派はかなり性格がちがう組織なんです。赤軍派は京都の大学生が中心なのに対し、革命左派は京浜地区の労働者が母体になっています。ジェンダー的にも、赤軍派が男性中心の集団だったのに対し、革命左派は看護学校の生徒なども入っていて、女性がかなり多い。永田自身も共立薬科大学の出身です。そして現実に、この性格のちがいが衝突して諍いが起きたことが、山岳リンチ事件の出発点にある。いわゆる「水筒事件」です。
さやわか 赤軍派が南アルプスに山岳ベースを作る。そこにあとから革命左派が合流する。そこで革命左派が水筒を持っていなかったことが、赤軍派から「山を甘くみているんじゃないか」と問題視されたという事件ですね。
東 そう。そのとき革命左派はすでに山中にアジトをもっていた。でもそれは奥多摩のバス停から歩けるような場所で、赤軍派の本格的なベースとはちがっていた。そのちがいは革命左派の家庭的というかのんびりした性格を表していたんだけど、赤軍派はまさにそここそを執拗に責める。だからこれは、赤軍派と革命左派のどちらが連合赤軍の主導権を取るかの問題でもあって、永田はこの件でとても屈辱を覚えた。そこで彼女は、一種の反撃として、赤軍派の遠山美枝子を批判することになる。遠山は赤軍派の幹部の妻で、特権的な存在として扱われ、化粧やパーマをしていた。それを永田は「兵士としてどうか」と攻撃する。主導権を握りたい赤軍派も、舐められてはいけないとそこに同調する。山岳リンチの総括の連鎖はここから始まったんです。
新人類世代とジェンダー
東 では永田と大槻の差異にはなんの意味があるのか。永田は、婦人解放の問題に強い関心があるひとでもありました。でも当時の左翼運動には露骨な男女差別があった。役割差別だけでなく痴漢なども横行していた。そして永田には、ほかの女性メンバーはその性差別を自然に受け入れているように見えた。『十六の墓標』にはそこへの苛立ちもかなり記されている。『十六の墓標』は、いまの視点だと、MeTooの告発本みたいに読めるんですよ。
さやわか それはおもしろいですね!
東 つまり永田には、大塚英志の読解とは逆で、大槻的な「かわいい」あり方は、むしろ男女が結託した反革命を支えているように見えたんじゃないか。だからこそ彼女は女性同志のリンチを先導することになったんじゃないか。つまり、永田はそもそも「マッチョ/かわいい」という対立の外にある。そしてそこに、いまのMeTooにつながるような現代性がある。これがぼくの見方です。
さやわか 説得力がありますね。むしろ、東さんの話を聞いていると、なぜ大塚が永田と大槻を一緒にしてしまったのかがわからなくなる。
大井 不思議ですよね。永田の絵を見て「乙女ちっく」だと直感したとしても、『十六の墓標』の遠山や大槻についての記述を読めば、永田がその「かわいい」感性をあとから身につけたとわかりそうなものですが。
東 二つ理由があると思います。ひとつは世代的な問題で、大塚さんにかぎらず新人類世代の論客は、全共闘=団塊世代=家父長制的なマッチョな感性から新人類=消費社会=「かわいい」的な少女の感性へと世界は進歩したんだというシンプルな図式を好む。大塚はその図式のうえで、永田を反家父長的で反団塊世代的な感性の先駆者として見出そうとした。だから逆に女性のあいだの争いは見えなくなった。
さやわか なるほど。
東 もうひとつは読み方の問題です。さきほど大井さんが指摘したとおり、大塚は『続』のほうしかまともに関心を向けていない。『十六の墓標』はかなり硬い謎めいた文章で、ふつうにこの文章を読んだら「かわいい」感性の人だとはとても思えない。永田はひらたく言えば「生き方が不器用なひと」です。それはさきほども述べたとおり、一周回ってかわいいと言えなくもない。けれど、それはポストモダンな消費社会を肯定するような大塚的な「かわいい」感性とは真逆のもので、むしろすごく生真面目で一生懸命なものです。
ちなみにいうと、その生真面目さは植垣康博や坂口弘の文章ともちがう。彼らの回想もたしかに真面目で、イデオロギーの言葉に満ちているのですが、そちらではセカイ系的な短絡はない。社会との関係がもっと安定しているんです。その点で永田の文章はとても変わった印象を与えます。ちなみに安彦さんの『革命とサブカル』収録の対談で、植垣氏は『十六の墓標』は自分がリライトしていると述べています。でもぼくにはちょっと信じられない。文章の質がちがいすぎる。
大井 東さんがそういうところで永田に共感するのはすごくわかります。
東 大塚さんには、まさにその文章の「質」が見えていない。だから『続』の絵のイメージだけで永田を語ってしまう。いささか厳しくいえば、これは文学的感性の問題です。大槻と永田の文章を並べてともに「かわいい」とまとめられるというのは、文章が読めていないと思います。
さやわか たしかに本編と『続』では文体が変わっている。ぼくはもともと大塚さんが考える「文学性」に違和感を覚えていて、それは『「彼女たち」の連合赤軍』を読んでも感じました。彼の文学性は、つねに「人間を描けているか」という問題に収斂していく。表現が問われないわけです。だから、たとえば大塚はニューウェーブのマンガを評価しないんですよね。
大井 岡崎京子は評価してるでしょう。
さやわか 岡崎京子については、彼女はマンガの身体が記号としてしか描けないことを、消費社会における内面への忌避と重ねて表現した、という評価の仕方なんですよね。全体的に言うと、ニューウェーブは表層的で、内面を描いている二四年組のほうがいいという議論になるんです。「人間が描けている」かどうかが重視される。彼のまんが・アニメ的リアリズム論の中心をなす「傷つく身体」の概念も同じですね。マンガの絵は記号なのだと自覚しつつ、その記号によって描けないもの、すなわち死や内面を描くものが優れている、というわけです。だからニューウェーブでも、絵にリアリズムを求める大友克洋のようなタイプには感心しない。
東 それはべつの言い方をすれば社会学的ということだと思います。それは新人類世代の特徴のひとつです。彼らは批評家としてのぼくの先行世代ですが、たとえば浅田彰――57年生まれの彼は厳密には新人類といわないのですが、大きくみれば同じ世代です――はもとは経済学者ですし、大塚英志と並んで90年代に影響力をもったのは宮台真司です。90年代は社会学と心理学の時代だと言われていました。大雑把にいえば、日本の論壇における知的覇権が文学者から社会学者に変わるというのが全共闘世代から新人類世代への移行で起きたことで、大塚もまたそのなかにいる。その限界が、いま読むとジェンダー問題の理解の粗雑さに結びついているというのが、おもしろいところだと思います。
大井 大塚は民俗学ですからね。社会学者というとすごい腑に落ちる。
さやわか 『物語消費論』も社会学的ですね。彼は一方では「文学的」とは内面や身体を描くものだと論じながら、その社会学的な機能についてばかり語っている。
大井 そう。身体と内面を、なぜ、どのように描く必要があるかについては、じつはまったく語ってない。その弱点が『「彼女たち」の連合赤軍』に出ているということですね。だんだんわかってきました。
2020年1月9日 東京、ゲンロンカフェ
構成・注=編集部
本座談会は、2020年1月9日にゲンロンカフェで行われた公開座談会「マンガは歴史と社会を語れるか2――大学紛争と『ビューティフル・ドリーマー』の問題、あるいは大塚英志とジェンダーについて」を編集・改稿したものです。
『ゲンロン11』
¥2,750(税込)|A5判・並製|本体424頁|2020/9/23刊行
大井昌和
東浩紀
さやわか