日本で哲学をするとは――アンスティチュ・フランセ東京「哲学の夕べ」ガーデントーク|國分功一郎+東浩紀

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初出:2017年7月21日刊行『ゲンロンβ16』

 二〇一七年五月二七日、よく晴れた土曜日の昼下がり、娘の運動会の観覧を終えたぼくは神楽坂のアンスティチュ・フランセ東京(旧東京日仏学院)に向かった。同日夜に予定されていた、ベルナール・スティグレール、石田英敬両氏とのシンポジウム出席のためである。緑に包まれた中庭で、初対面のスティグレール氏に向けてブロークンな英語で『観光客の哲学』の内容を説明していると、流暢なフランス語で介入してくる人物がいる。顔をあげると、ほぼ二年ぶりの國分功一郎氏だった。
 聞けば、國分氏はこれから「中庭の哲学講義」を行うことになっているが、話す内容はほとんど決まっていないという。他方のぼくはシンポジウムまで二時間ほど時間が空いている。それならということで、急遽公開で対談が始まった。あくまで気紛れから始まった企画で、話も陽光のもとビール片手にじつにリラックスした雰囲気で行われたのだが、ふしぎなことに内容は意外なほど双方の仕事の本質に迫るものになった。そこでここであらためて活字化する次第である。哲学的対話とは、本来はこのような偶然からこそ生まれるものなのかもしれない。
 なお、スティグレール、石田両氏とのシンポジウムのほうは、スティグレール氏の講演の記録および石田氏の解題をあわせて、九月刊行の『ゲンロン6』に掲載される予定である。そちらもあわせ読まれたい。(東浩紀)

剣道VS異種格闘技


國分功一郎 まずは『中動態の世界』(医学書院)についての感想を聞かせてください。

東浩紀 「いまふたたび言語から哲学をやる」のがよかったですね。言語への注目はオーソドックスすぎて古いように見えるかもしれないけど、言語学的な視点にはまだまだ可能性があるはずです。ぼくも『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン)でカール・シュミットの「友敵理論」に触れているのですが、それに関連して言えば、「わたしたち」という言葉も言語によっていろいろなちがいがある。よく知られているところでは「包摂的一人称複数」と「排他的一人称複数」があって、話し相手を入れる「わたしたち」と話し相手を入れない「わたしたち」がある。そういうところから友敵理論を読み直せば、また新しい視点が出てくるかもしれない。

國分 もともとフランス現代思想はものすごい言語偏重で、まさにジャック・デリダはそうでした。いまは逆に、言語の存在感がどんどん薄くなっていく傾向にあります。だからいまは、『中動態の世界』に対しても「言語がこんなふうにひとの精神に影響を及ぼすはずがない」と言われるかもしれない。そのような批判は覚悟で書きました。ある種反動的な試みだったと感じています。

 最近、千葉雅也さんの『勉強の哲学』(文藝春秋)と國分さんの『中動態の世界』、それにぼくの『ゲンロン0』がよくセットで取り上げられてますね。でもみんなかなりちがう本ですよね。そんななか國分さんは、千葉さんは自己啓発に、東は政治哲学にいってしまって、ちゃんと哲学をやっているのはおれだけだと思っているのではないか(笑)。『中動態の世界』は、まさに哲学の保守本流という本。ぼくは、出自や履歴の問題もあって、いろんな文脈を持ってきて、異種格闘技戦みたいに展開していく本しか書けなくなっている。『中動態の世界』にしても、もしぼくが同じ問題意識で論を展開したとしたら、分析哲学や京都学派、時枝文法の話なんかも入れたくなってしまうと思いました。國分さんの本は、きれいな剣道みたいに、型がしっかりしている。

國分 話を拡散するときりがなくなってしまうので、意識して禁欲したところがあります。東さんの場合、「哲学」と同時に「批評」という言葉も使いますけど、そのこと自体がハイブリッドなものを目指しているあらわれですよね。けれどもぼくは、哲学という言葉で、まさしく剣道のように、ぶれない思考をするためにはどうしたらいいかを考えている。

 ギリシャ語やラテン語を参照するところなんか、まさにそうですね。特異点がハンナ・アレントなのかな。國分さんもあとがきで、アレントは本来の構想にはなかったと書かれている。実際國分さんは、アレントを使いながらも、政治的な含意はわざと書かないようにしていますよね。ところどころに政治に接続できる箇所はあって、國分さんの仕事からすれば当然触れていてもおかしくないのに、書いていない。たとえば文中で、「政治参加する」という意味のengagedが中動態的な用法の例として出されていたでしょう★1。あそこから、アンガジュマン(engagement=政治参加)自体が中動態的な行為である、というようにも展開することができたのではないか。実際にはアレントは政治参加を中動態的なものというより……

國分 ものすごく能動的に捉えている。

 そう。だとすれば、能動的な政治参加を規範的に打ち立てようとしたアレントのその限界に対して、中動態的なアンガジュマンの可能性を打ち立て、最後の『ビリー・バッド』論の再読へつなげると、かなりきれいな議論ができるはずですよね。でも、そこも禁欲してしまった。

國分 禁欲というか、どれくらい話題を広げていいのかわからなくなってしまった。これを書かなきゃいけないという気持ちの一方で、こんなことだれも関心持たないんじゃないかという気持ちがあった。

 実際、哲学はいまなにを書いても興味をもたれない。ぼくも今回はめずらしく、だれにも読まれなくていいと思って書きました。

國分 それは意外ですね。読まれないだろう、ではなく?
 読まれなくていいという気持ち。というのも、いちどそう思わないともう哲学が書けないと思ったんですよね。いまの世のなかに対してまともに付き合ったら、人生論しか書けない。

國分 とはいえ、「観光客」というタームの意外性とカジュアルさは非常に効果的だったでしょう。「中動態」とか、なんだよそれって感じですよ(笑)。だいたい出版社のひとも最初は「熊」だと思っていた。

 いいじゃない、中動熊!(笑) かわいいよ。

國分 それに比べて「観光客」はいいですよ。そもそも「観光客の哲学」という構想はいつから出てきたんですか? やっぱり『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』(ゲンロン)のころからでしょうか。

 いや、もっと古いですね。そもそもぼくには『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)のころから、アメリカ化した大衆を軽蔑するヨーロッパ知識人たちへの反発があって、そのような区別の外側を考えたいという気持ちがあった。だから消費文化やグローバリズムを肯定的に評価し、オタクカルチャーやショッピングモールなども論じてきた。人文的な教養のある人間からすると、そこにはまったく深みがなく、動物的なコミュニケーションしかないように見える。けれども、そんなコミュニケーションしかできない人々が大量にいて、しかもそのひとたちがいわゆる「クリエイティブ」な産業にかなり従事しているという現実を、知識人はもう少し謙虚に受け止めるべきだと思うんですね。「観光客の哲学」はその延長にある仕事です。

國分 ぼくはいま『中動態の世界』で言語の問題をあるていどやりきった気持ちがあるので、これを経たうえで、東さんが「動物」と呼ぶ領域をあらためて考えたいと思っているんです。ぼくには、人間が言葉を使わなくなってきているという感覚がある。たとえば千葉さんも、松本卓也さんといっしょに、最近は無意識が小さくなった、ぺらぺらの表面しかない非精神分析的な人間が現れてきているという議論をしているでしょう。あるいはジョルジョ・アガンベンも「言葉が人間を規定しなくなってきている」と言っている。さらに、そこに消費の問題を加えた東さんの「動物」の問題提起がある。ぼく自身は、言葉の問題を経たいま、このようななかでもういちど想像力の問題を考えたいと思っています。それは東さんの「観光客」の問題とも関わる気がしています。

【図1】『中動態の世界』を書き終えたいま、あらためて想像力の問題を考えたいと語る國分功一郎


貴族的な哲学と民主的な哲学


國分 とはいえ、ぼくには哲学的な言語を復活させたいという気持ちがあるんです。ひとが言語を受け取って考える、そのコミュニケーションの復活を考えている。東さんは哲学と批評の「あいだ」で書くというとき、昔の言葉で言えば「啓蒙」のような、「みんなでレベルアップしようぜ!」といった読者への期待はないんですか。

 ありますよ。ただ、それは人文書の啓蒙とはちがうかもしれない。ぼくは昔から英語圏の科学啓蒙書の存在感をうらやましいと思っているんです。日本では想像がつかないけれど、むこうではけっこうハードな内容の、それこそダニエル・デネットやスティーブン・ピンカーの本なんかが空港の本屋で売っているんですね。完全に無国籍な、あらゆる文化的文脈が脱色された空港の本屋というのは、人々が単に機内の時間をつぶすために本を買う場所じゃないですか。そういうところに啓蒙書が置かれているのはすごいことだと思うし、そこには憧れがあります。人文系の啓蒙書もそうじゃなければいけないと思わされる。

國分 英語圏だとちゃんと科学系の啓蒙書の流儀がある。そういうことが日本の人文書でもできるといい。人文書だけど空港やドライブインでも売られているような。『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)もそういう気持ちで書いた本です。
 そうでしたね。ぼくも『ゲンロン0』で同じところを狙った。それこそ本当の哲学だと思う。こう言うと、日本だとTSUTAYAで売られる自己啓発本みたいなものが想像されるけど、ぼくはそれはあまり書きたくなくて、もっと厚くてハードコアな、だけど啓蒙書として売られるようなものが理想です。けれどもそれは、難しい文章を書いてひとを「啓蒙」するといういまの人文書の発想とはちがうんですね。ぼくは文体という点では、『ゲンロン0』でけっこう理想に近いところに行けたなと思っています。そもそもぼくは、いわゆる難しい単語がたくさん出てくる文章は、哲学の文章として完成度が高くないと感じる。たとえばフランス語は、日本語に比べてそもそもボキャブラリーが少ない言語ですね。歴史的な経緯からもそうなっている。

國分 英語よりも圧倒的に少ない。

 それはやはり哲学に向いていると思うんですよね。哲学書を読めるとは、特殊な語彙をいっぱい知っているということではない。哲学書は本当は、論理的な操作こそ難しいかもしれないけど、語彙は日常用語からそんなに離れてはいけないんです。実際フランス語の哲学書はそうなっているし、日本語の哲学書もそうなるべきだと思います。日本語はそもそも言文一致がヨーロッパのようにうまくいかなかった。だから論文をそのまま読み上げても、だれも理解できない。それは日本人の頭が悪いからではなくて、書き言葉と喋り言葉がまったくちがう言語としていまだに存在しているからです。けれどもどうもそのせいで、日本人は、論文みたいな言葉を使うのが学問だと思ってしまうところがある。そうではないんですよね。哲学は基本的に日常言語でやるものであり、哲学を哲学として規定するのは概念操作のほうです。

國分 東さんは以前、『漱石研究』でも言文一致について書かれていますよね★2

 はい。夏目漱石は、漢文や江戸の戯作の教養のもとで小説を書いていた。つぎの世代になると、自然主義をモデルにした言文一致の文学になる。でも日本では、そこで捨てられた非近代的で非ヨーロッパ的な言葉遊び、あるいは民話的な想像力が、けっして消滅することなく、大衆文学に流れ込んでいくんですね。その影響はいまでも残っていて、実際日本では、エンターテイメントの作家のほうが漢字も多いし語彙も多様だったりする。たとえば一九九〇年代には京極夏彦というベストセラー作家がいましたが、彼やその周辺の作家なんて、まさに言文一致がはじき出した想像力が戻って一ジャンルを形成したところがある。そういう文学史の存在を真剣に受け取らないあいだは、日本の人文知は根本的に弱いままだと思うんですね。そういう点でぼくは大衆的想像力と言われるものに関心を持っています。つまり、やさしい内容を書こうとしているというわけではなくて、ぼくなりの言文一致を実践しているつもりなんです。

國分 いまの話を聞いていて、デリダのことを思い出しました。ぼくは学部生のときにデリダに対して反発があった。翻訳のせいです。デリダの翻訳は、数学の記号、カッコやイコールがたくさん出てきて、ぜんぜんわからなかった。だからフランスに行ってはじめてデリダの授業を受けたときには感動しました。デリダはエクリチュールのひととして知られているけれど、彼の書き言葉はじつは喋られた言葉でもある。その喋られた言葉特有のいきいきとした感じがわかった瞬間に、すごくデリダが読みやすくなった。

 デリダは翻訳と原文の印象がすごくちがうひとですよね。彼の翻訳の難しさには二種類あって、ひとつはいま國分さんが言ったようなカッコやイコールがたくさん出てくる問題。つまり「表象=上演=再現ルプレザンタシオン」といった名詞の処理の問題です。そしてもうひとつが時制や態の問題で、こちらのほうが本質的なんですが、デリダは条件法を多用するんですよね。ところが、そうすると日本語訳は「~であろう」とか「~かもしれない」とか、とても冗長な文章になっていく。ドゥルーズはあまり条件法を使わないでしょう。

國分 使わないですね。ただ、東さんがどこかで書いていて感心したのだけど、デリダのほうが難しいと思われがちだけれどじつは語彙は少ない、対してドゥルーズのほうが複雑な語彙を使っているのだと。ぼくもそう思います。一方でパロールと結びついたデリダのエクリチュールがあって、他方で簡潔だけど複雑な語彙を使うドゥルーズのエクリチュールがある。これはいわば、民主主義的なデリダと貴族主義的なドゥルーズという対立につなげられるのではと思いました。デリダの哲学はパロールとの結びつきが強いから、息づかいさえ掴めばわかりやすく読める。けれどドゥルーズの場合はそうじゃない。ぼくは『ドゥルーズの哲学原理』(岩波書店)を自由間接話法の話から始めましたが、あれはまさに、議論の対象である哲学者との一致を叙述の面でつくりだして、読者をその思考の水準までいっきに引きずり込むやり方です。これはだれにでもできるわけではない名人芸で、ある種の貴族的な感性に支えられたものです。それに対してデリダのデコンストラクションはだれにでもできる。とても民主的なんですよ。

 あまり考えたことがなかったけれど、その対比はおもしろい。まったくそのとおりだと思う。逆にぼくがデリダに惹かれたのは、デリダが根本で民主的だったからだと思いますね。デリダの哲学については、よく、七〇年代のアメリカで誤解され、単純化された形で広がってそれがダメだったのだと言われるのだけれど、ぼくはむしろその誤解され単純化されたデリダこそが本質だと思うんですよ。そもそもデリダ自身が、哲学においては本質なるものは存在せず、むしろ非本質こそが本質になるんだということを言っていたわけで、デリダが「誤解」されたという議論はデリダ的に成立するわけがない。だから、アメリカで誤解され単純化され方法論化された、だれもができる脱構築こそがデリダの本質なんです。いまの話はすごく納得できる。

國分 逆にドゥルーズ業界にいて居心地が悪いのは、みんなドゥルーズを民主主義者として読もうとするところなんですよね。もっと貴族主義的に読まないと。

 さすが國分さん、哲学の貴公子(笑)。「貴族的哲学復興に向けて」がテーマですね。

國分 印象悪い!(笑)

子どもから考える、徳と誤配


國分 とはいえ、ぼくが最近アレントに関心があるのも、まさに貴族的なものの復権と関係していて……。どうですか、まじめな話、貴族は必要じゃないですか?

 ええっ(笑)。でも、アレントの言うギリシャ的貴族性のうしろには、現実には奴隷がいっぱいいるわけでしょう。さすがにそこは肯定的に評価できない。

國分 もちろんギリシャ市民社会のそういった面は問題だけど、ぼくは徳のような精神的な貴族性は重要だと思うんです。ぼくはじつは、ネトウヨ的なものの蔓延に耐えきれなくなって、絶望してイギリスに行った。サバティカルが取れたからじゃなく、逃げ出したんですよ。けれどもイギリスでは、現代でもこんなにひとの権利を尊重することが可能なんだと感動した。たとえばぼくの娘は現地の小学校に通っていたのだけど、学校は英語の喋れない娘のためじつにいろいろなことをやってくれた。一年間しかいないのにね。そういうことを日本にも根付かせたい。以前にフランスに行ったときも、人々の権利が尊重されているのを見た。だからぼくは、精神的貴族性を訴えたいという気持ちを捨てきれないんですよね。

 その気持ちはいまも、きみの佇まいから十分伝わってくる(笑)。

國分 佇まいじゃなく、本で伝えたいですよ!(笑)はっきりとは書いてないんですが、『暇と退屈の倫理学』もみんなで貴族になろうという話なんです。精神的貴族性はぼくのなかの裏テーマになっている。ドゥルーズもそうだしアレントもそうです。ぼくはやっぱりヨーロッパが好きな人間なんですよね。

 気持ちはわからなくもないですよ。とはいえ、ぼくの「観光客の哲学」は、そのような貴族主義は大衆との分割線を引いてしまう、そこはまちがいだから別の可能性を見出していこうという話で、そこはまったくちがう。

國分 貴族主義は差別をすることじゃないんです。各人が徳を身につけることです。道徳規則を知っているだけでは徳は身についたとは言えない。たとえば、だれかが来たら自然に「どうぞ」と招き入れるというような、身体が勝手に動いてしまうこと。それを徳と言うんです。

 でもそれは、結局「子どものころからいい教育を」という話なんじゃないかな。

國分 いいじゃないですか、それで。

 いや、どうかな。まずいんじゃないかな。最近古市憲寿さんが「保育園で人生が決まる」と言っていたのを知ってる?★3 これからは保育園格差が重要だ、いい保育園に行ったやつは年収も高いはずだと……。

國分 日本の保育園は、ベンツで子どもを送迎するようなひとと生活保護を受けているひとがいっしょに子どもを預ける、世界的に見てもめずらしい施設です。これはイギリスではありえない。キャバ嬢として働くお母さんが上流家庭のお母さんにいろいろ教えてもらって教養を取り戻す、というようなことが、まさしく「誤配」によって実際に起きている。権利という概念だって、そういう学びがなければわからない。ぼくが「いい教育」と言っているのは、そういうことも含めてのことで、「精神的貴族性」という言葉で、みんなが人々の権利を尊重する精神を持とうということを言いたいんです。権利は踏みにじろうと思えば踏みにじれるものです。みんながそれを大事にしなきゃいけないと思ってるからこそ、権利は成立する。

 たしかに、子どもを持つことの見逃せない利点として、子どもの初等教育を通して別の階層の親と知り合う、知り合わざるをえないということはある。人間は二〇代や三〇代になると、生活の型が固定されてきて、気に入ったひと、同じ職業や階層のひととしか会わなくなってしまう。でも初等教育はそれを撹乱するんですよね。そこはたしかに大事で、ぼくも自分の子どもが保育園に通っていたときに同じような可能性について考えていた。いくらひとりひとりが自分の階級を守ろうと思っていても、子どもをつくるという「誤配」は、否応なく本来ならば接触しないはずの人々をたがいに接触させてしまう。

國分 東さんが『ゲンロン0』の第二部で「家族」をキーワードにしたのも、保育園における誤配のようなことが念頭にあったんでしょうか。

 むろんあったけれども、ただ、そこで「家族」という言葉は、生物学的な意味だけで解釈してほしくはなくて、ぼくとしては、むしろ家族の概念そのものを哲学的に再解釈し拡張したいと考える。柄谷行人は贈与を「交換形式X」として昇華させるべきだというけれど、それならば、贈与と深く結びついた集団である家族についても考えるべきだと思うんですよね。そしてまた、より実践的にも、子どもというのは徹底して偶然で生まれるものであり、親に対しては親の意志にかかわらずに責任を押しつけてくる存在でもある。

國分 なかなか難しいところですね。

 子どもをつくるというのは、意志によるようで、じつはまったく意志によっていない行為だと思うんです。なぜならば、子どもは選べないから。これはまったく素朴な生物学的な話です。たとえばいま、世界を全部リセットして完全に同じようにやり直すことができたとしても、ぼくのいまの娘と同じ娘はまず存在しえないはずです。なぜかというと、単純に精子の数が多いからです。人間の誕生にはじつに大きな偶然が絡んでいる。同じ日に同じパートナーと同じ性行為をしたとしても、同じ子どもが生まれる可能性はきわめて低い。親が選べるのは「子どもをつくる」というきわめて抽象的な選択だけで、どんな外見の、どんな性格の子を授かるかはまったく選べない。にもかかわらず、親はその責任を数十年単位で負うわけです。このとんでもない事実は、主体や責任という概念を考えるにあたってきわめて重要だと思うんですよ。

國分 東さんにとって、子どもができたことは本当に大きなことだったんですね。

 そうですね。そもそもデリダの哲学自体にも子どもという問題は隠れてずっとあったんです。最近伝記も出て明らかになったように★4、彼自身実際に子どもで問題を抱えていて……。

國分 デリダはあちこちで子どもをつくっている。

 そういう意味で、現実に子どもをつくるまえから、ずっと哲学的に考えていたことでもあります。ちなみに補足的に言えば、ファロサントリズム(男根中心主義)という言葉がありますが、現代思想の世界では、男性は単一の原理に、逆に女性は多数的で多産的な複数性の原理に重ねられることが多いじゃないですか。たとえばジュリア・クリステヴァが典型ですね。そんななか、デリダは「散種」と言い出すわけですが、これはすごくいい着眼点だと思うんですね。散種とは要は精子をばらまくということですが、これはつまり、クリステヴァ的な母性的なものだけが多数でなく、男性だって精子に着目すれば多数だという話だと思うんです。

【図2】子どもがもたらす偶然性と主体の関係について『ゲンロン0 観光客の哲学』で論じた東浩紀


國分 すごい定義が出ましたね。ペニスより射精だと。

 ペニスはひとつだけど、精嚢の中身に目を向ければそこにあるのは無数なんですよ。むしろ卵子のほうがひとつなんです。母のほうが単数。

國分 『無痛文明論』(トランスビュー)で有名な森岡正博さんが、男性のセクシュアリティは精神分析ではファロスが規定するとされているけれど、問題なのはむしろ射精のほうじゃないかと言っていて★5、これは鋭い指摘だと思います。彼は精液が漏れることに注目するんですね。漏れるというのは多数というか、一箇所じゃないわけです。そういう点で、一対多を男対女のジェンダーの対立に重ねるのは非常に単純だし、そのデリダの読みはおもしろいと思います。

日本から哲学をするために


國分 東さんはマッケンジー・ワークの『一般知性 二一世紀の思想家二一人 General Intellects: Twenty-One Thinkers for the Twenty-First Century』(未邦訳)のうちの一人に選ばれたそうですね。ぼくも四二歳になって、海外発信を真剣に考えるようになっています。日本の人文系の学者は、海外にどうやって売り込んでいくかをずっと考えてきた。東さんは最近そういう話をしないけれど、『動物化するポストモダン』を英訳するなど、海外発信には積極的ですね。

 積極的といえば積極的で、『ゲンロン』でも巻末に英訳をつけたりしています。ただ最近は、ヨーロッパのスタンダードに一生懸命追いついても、あまり意味がないと考え始めている。たとえば海外の学会に行くだけでは意味がなくて、むしろ継続的に付き合える国境を越えた人間関係をどうつくるかのほうが肝心で、そうなると研究者のネットワークの主体性をどう握っていくかが大切になると考えています。言い換えれば、自分たちが出ていくよりむしろ招いたほうがいい。ぼくは昨年、中国の杭州のシンポジウムへ行って★6、そのときに石田英敬さんに二〇年ぶりくらいにお会いした。それがきっかけで今日に石田さんの仲介でベルナール・スティグレールさんとの対談に呼ばれたわけだけれど★7、その出会いをつくったのが杭州というのはじつに皮肉なことだと思うんですね。ぼくも石田さんも東京にいるけれど、東京では会わない。杭州で会う。これは言い換えれば、いまや研究者のネットワークを杭州に握られてしまっているということで、本来ならば日本がそういう場所になるべきだった。ドゥルーズ研究のほうは、台湾でシンポジウムをやったりアジアでも活発な動きがあると聞くけれど、そちらに可能性はないのかしら。

國分 ぼくはかなり積極的に海外の学会とかに行っている方だと思いますが、継続的に付き合える人間関係を国境を越えてつくるのが大切というのは完全に同意ですね。単に学会に行くだけじゃダメです。東さん自身のテクストの国外での受容はどうですか。ぼくもいま英語で本を出すという話があるんですけど、自分が本当に海外に向けて書きたいのかどうか、目指しているものはなにかがわからなくなってきている。海外発信をしなきゃいけないと強迫的に言われてきたけれど、本当にそうかなと。

 わかります。ぼくも、海外発信そのものを目的にしても意味ないと思う。ただ、スラヴォイ・ジジェクやボリス・グロイスがやっているように、日本という辺境からヨーロッパのモダニティに対して別の視点を提示するということは意味があるし、日本人がやるべきだと思う。アジアからはまだそういうひとは出ていない。ジジェクもグロイスも英語の発音は下手じゃないですか(笑)。単純な発想かもしれないけれど、あれでもいけるのなら、ぼくの英語でもなんとかなるような気がするんですよね。

國分 柄谷さんはそういう視点を提示したのではないですか。

 あるていどそうだと思います。実際に、韓国人や中国人の研究者にも柄谷行人の名前は通じます。それこそ、ぼくが柄谷の弟子で、しかもいまは疎遠だということまで知っている(笑)。そういう場所を切り開いたのは柄谷さんで、本当にすばらしい。ただ残念なことに、柄谷さんがいま、世界のなかでアクチュアルに存在感のあるひとになっているかといえば、そうではないと思う。だから、柄谷さんが切り開いたものをどうやってつないでいくかを考えなければいけない。たとえばいまは、柄谷さんの時代と異なって、韓国人や中国人、あるいはタイ人にもポストモダニズムの問題意識が通じるようになっている。哲学や思想の魅力のひとつは、国籍も年代も関係ない共通言語であることですが、いまやポストモダニズムはアジアのひととも共通言語になっている。これは現代思想に新しいチャンスを生み出すと思います。たとえばドゥルーズやデリダのアジア的な読みが登場して、そのなかで個性のある書き手が出てきて、その全体がヨーロッパへの思想への異議申し立てになるという構図がありうるかもしれない。このように言うと京都学派を連想されるけど、実際ぼくは、彼らがやろうとしたことそのものは先駆的だったと思うんですよね。

國分 東さんは梅原猛さんとも対談されていましたよね★8。あのときから京都学派への興味はあったんですか?

 いや、その興味はかなり古くて、ぼくはそもそも中高生のころ小松左京というSF作家が大好きだったのですが、彼は梅棹忠夫の「万国博を考える会」のメンバーで、大阪万博のスタッフも務めたひとだったんですよね。だから当時は戦後の新京都学派の言説には自然と親しんでいて、最近になってそれが戻ってきているという感じですね。いずれにせよ、京都学派や新京都学派は比較文明論で哲学をアップデートするといった話だけど、二一世紀のいまならもっと普遍的に展開できる気はしています。

國分 ぼくは二年前にイタリアのサマースクールでアガンベンに会ったんですが、そのとき彼は「わたしはこれから英語で喋るし、ドイツに呼ばれたときも英語で喋っている。でも、これは問題だと思っている」と言っていた。哲学は母語と分けられない。彼自身はイタリアにずっといて、イタリア語で書いて、世界的に知られる哲学者になった。イタリアの思想はいまではよく知られているけれど、かつては思想的にはだれも注目しなかった場所ですよね。でもいま、アガンベンをひとつの突破口として、あそこまで注目されるようになった。ぼくはそこにひとつの範を見たように感じた。だから、英語でやることも大事かもしれないけど、日本語で考えることは自分の思想から絶対に切り離せない。

 それはまったく同意見です。そもそも哲学は自然科学とはちがって、ある場所、あるときに、ある人間がやっているという個体の問題と切り離すことができない。その個体性を手放してしまうと、哲学は魅力がなくなる。だから、ぼくたちはどうのこうの言いながら日本人で、いくら海外に出ていったとしても、その出自や履歴の意味は問われざるをえない。

國分 もうひとつ、ぼくはこの数年で、いま日本の政治状況が哲学を必要としているということを痛感しているんです。立憲主義や民主主義について、あらためて哲学せざるをえなくなっている。ぼくにもそのなかで役割が回ってきているのだけど、巻き込まれたという感じがあります。哲学が進歩するのは社会が不幸だからです。柄谷さんが書いた古代ギリシャでも、イオニアのポリスが危険になったからこそ哲学が出てきた。だからぼくには、哲学が進歩することを本当に喜んでいいのかという気持ちもある。でも日本でこそ哲学が必要とされている。

 それもまた哲学の本質だと思いますね。ぼくはときどきニコ生などで社会批評をするけれど、あれはけっしてサービスでやっているわけでもなく、現実から出てくる生々しく卑小な対立を抽象化し概念にする、それこそが哲学の本質だと思うからやっているんです。たとえば『ゲンロン0』の最終章はドストエフスキー論になっていますが、ぼくが彼の小説が好きなのは、書かれているのは殺人事件でも、それが同時に哲学でもあるからです。というよりも、哲学とは本当はそういうもので、殺人事件でもなんでもいいけれど、なにか具体的な依り代がなければ語れないもので、概念だけを組み合わせて議論をするものではないと思うんですよ。つまり、哲学はつねに、なにか別のことについて語っている「ふり」をする言説で、抽象的な概念と概念の話になってしまってはならない。それはもう哲学研究でしかない。

國分 それは、ドゥルーズがスピノザを依り代にして書く、ライプニッツを依り代にして書くというのと近いのかもしれませんね。

 近いといえば近いのだけど、ぼくはいまは、そのような哲学が哲学のテクストに自己言及していくスタイルだけでは、やはりだめだと考えています。これはデリダの弱点でもある。

國分 でもデリダの場合は、哲学的テクストを入口に社会制度まで入って壊すという構図だったわけでしょう。

 たしかにそうなんだけど、やはり「哲学について語る哲学」になってしまった段階で、決定的に弱くなってしまった。昔はちがう可能性もあったんです。たとえばデリダが一九六七年に書いた『グラマトロジーについて』はすごく変な本で、マヤ文字について書いたり、サイバネティクスについて書いたりしている。だけどそういう部分がある時期にすべて消えて、デリダはいまぼくたちが知っている、「過去の哲学テクストしか扱わないデリダ」になる。ぼくはそれはよくなかったと考えています。そういう点ではフーコーのほうがはるかにまっとうな哲学者だし、もう少し軽薄で通俗的なところでも、ロラン・バルトやジャン・ボードリヤールのほうが哲学の本来のかたちに近いんじゃないかと思う。

國分 ドゥルーズも、過去のテクストを読むばかりの自分に不満を持って、フェリックス・ガタリと組んだわけですしね。

 そういうことが重要なんですね。だからぼくは、たとえばジジェクのような存在を通俗的だからダメだと言う気にならない。たしかにジジェクはいつも同じことばかり言っている。でもそれは、逆に言えば、どんな事件が起きてもそこに哲学を生み出せるということでもある。そういう存在は大切だと思います。

國分 どんなことが起きてもそこには哲学を見出せるし、見出すべきだし、概念を扱うだけが哲学じゃない。すばらしい結論になったと思います。実際、いまここの対話にしても、本来はプログラムになかったわけで、それが庭の木陰で適当に話していたらいつのまにかこんなにひとが集まってきている。きっとギリシャのアゴラだってこういう空間だったはずで、これこそが哲学の原初形態ですよね。ゲンロンカフェだって、なんとなく帰りにぶらっと寄って話を聞く、そういう場を目指しているわけでしょう。

 そこまではまだ道遠しですね。なによりも、こんな緑に囲まれた気持ちがいい空間ではなく、繁華街の雑居ビルだからなあ……。

國分 そこでやはり貴族主義ですよ(笑)。冗談はともかく、今日は東さんから原理的な話がうかがえてよかったです。ありがとうございました。

 今日はぼくもとても贅沢な時間を過ごせました。屋外の哲学対話もいいですね。ありがとうございました。
2017年5月27日 アンスティチュ・フランセ東京 構成・注・撮影=編集部 編集協力=富田香織

★1 國分功一郎『中動態の世界――意志と責任の考古学』、医学書院、二〇一七年、一九三頁。
★2 東浩紀「写生文的認識と恋愛」、『漱石研究』第二号、一九九四年五月。『郵便的不安たち』(朝日文庫、二〇〇二年)にも収録されている。
★3 古市憲寿「保育園義務教育化なぜできない――2020年『日本の姿』」、「文春オンライン」、二〇一七年。記事は現在削除されている。
★4 ブノワ・ペータース『デリダ伝』原宏之・大森晋輔訳、白水社、二〇一四年。
★5 森岡正博『感じない男』、ちくま新書、一七一頁。
★6 中国美術学院主催「网絡化的力量 Forces of Reticulation」、二〇一六年一一月一四一六日開催。 URL=http://caa-ins.org/archives/338
★7 シンポジウムの模様は『ゲンロン6』(二〇一七年)に小特集「遊びの哲学」として収録されている。
★8 「草木の生起する国――京都」、『日本2・0 思想地図β vol.3』、二〇一二年。

國分功一郎

1974年生まれ。哲学者。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。現在、東京大学総合文化研究科・教養学部准教授。著書に『スピノザの方法』(みすず書房)、『暇と退屈の倫理学』(太田出版)、『ドゥルーズの哲学原理』(岩波書店)、『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)『原子力時代における哲学』(晶文社)など。

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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