『ゲンロン0 観光客の哲学』草稿――第1部第3章「友敵、動物、匿名」より|東浩紀

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初出:2016年7月8日刊行『ゲンロンβ4』

 参院選が迫っている。野党側の期待と異なり、世間の盛り上がりはいまひとつ精彩を欠いているが、それでもネットでは恒例の政治談義や政局分析が繰り広げられている。ぼくもツイッターで意見を求められることがしばしばあり、そこでは、改憲与党対護憲野党という、あまりにもわかりやすい「友敵理論」の構図に陥った現在の政治状況、それそのものへの不満をいくつか書き連ねることになった。



 筆者は安倍政権にきわめて批判的である。現政権の愛国主義的で排外主義的な傾きは許容できない。また与党の改憲案もまったく受け入れられない。しかし同時に、改憲対護憲というあまりに単純な構図も受け入れられないし、デモに行かない人間、野党に投票しない人間はすべて「アベ暴走政治」の支持者と言わんばかりのキャンペーンにも大きな問題を感じている。このようなぼくの立場は、多くの読者に日和見のノンポリと理解されているようだが、哲学的には問題はもう少し複雑である。ぼくはそもそも、政治について「友」と「敵」の分割で語ること、それそのものに批判的であり、そしてぼくの哲学というのは、デビュー作の『存在論的、郵便的』から『一般意志2.0』から『弱いつながり』まで一貫して、まさにその友敵の分割を壊し、歪め転倒することを目的としてきたとも言えるからだ。現在執筆中の『ゲンロン0』でも、まさにその問題が扱われている。

 そこで今号では、「観(光)客公共論」を休載とし、かわりに『ゲンロン0』でカール・シュミットの友敵理論について議論した部分を転載することにした★1。ここに掲載する文章は、第1部第3章の前半部分と結末であり、昨年12月の『ゲンロン観光通信 #7』で公開した部分(第1部第2章の後半)のちょうど続きにあたる。省略された部分では、アレクサンドル・コジェーヴとハンナ・アーレントについて議論されている。(東浩紀)。
 

第3章 友敵、動物、匿名


 観光は最善説を否定する。観光は永遠平和を創設する。前章で、ぼくはそのような2つのテーゼを哲学史から引き出してきました。

 繰り返しますが、このような読みは学問的にはおそろしく強引で、できの悪い「二次創作」でしかありません。本書の構想もまた、ぼくのほかの仕事と同じく、多くの大学人(原作厨)には相手にされないことでしょう。それでもぼくは、いまはそんな二次創作こそが必要である、二次創作の提案こそが哲学史の本当の継承であるという確信のもと、議論を進めることにします。

 観光客の思想的な可能性。ぼくの考えでは、近代哲学はその可能性とともに生まれました。けれども、その後の哲学史においては、残念なことにその可能性は忘れ去られてきました。むしろ逆に、人間や社会についてまともに考えると「観光客」については議論できなくなる、いつのまにかそのような限界が生み出されることになったのです。

 どういうことでしょうか。この章では、その構造を3人の20世紀の思想家から取り出してみたいと思います。

『政治的なものの概念』


 カントの『永遠平和のために』から140年ほど下った、20世紀のはじめに同じドイツにカール・シュミットという思想家が現れます。シュミットは19世紀末に生まれた法学者ですが、問題含みの経歴の持ち主で、第2次大戦時にはナチスに協力し、戦後は逮捕されてニュルンベルク裁判で尋問まで受けています。けれども同時に、独特の理論構成で知られ、保守、リベラルの区別なく戦後の社会思想に大きな影響を与えています。支持者には極右もいれば極左もいる、そんなタイプの思想家です。

 そんな彼の仕事のなかでも、もっとも有名で、理論的にも重要なもののひとつが、1932年に出版された『政治的なものの概念』です。シュミットはこの小さな著作で、政治が政治として機能するのは、そこで「友」と「敵」とが峻別されるときだけである、というたいへん有名な理論を提唱しました。一般に「友敵理論」と呼ばれます。

 どのような理論なのでしょうか。『政治的なものの概念』は、タイトルのとおり「政治とはなにか」を主題としています。けれども、その答えを探るシュミットの方法はかなり独特です。


 まず、シュミットによれば、抽象的な判断には、必ずその観念を支える固有の二項対立があります。たとえば、美学的な判断は美と醜の二項対立(美しいかどうか)に、倫理的な判断は善と悪の二項対立(正しいかどうか)に、経済的な判断は利か損かの二項対立(儲かるかどうか)に支えられています。そして、それらの対立はすべて独立であるはずです。美しいけれど正しくないことや、正しいけれど儲からないというようなことは、世のなかにいくらでもあります。「美学」や「倫理」や「経済」の独立性は、それぞれが固有の二項対立をもっていることで保証されているわけです。だとすれば、政治的な判断を、美学的判断からも倫理的判断からも経済的判断からも区別する固有の二項対立とはなんだろうかと、シュミットは問いかけます。そして彼は、それこそが友と敵の対立だと答えるのです。

 シュミットの考えでは、政治の本質は、共同体の内(友)と外(敵)のあいだに境界を作ることにあります。世のなかには、敵のほうが美しい、敵のほうが正しい、敵と連携したほうが利益がでる、そういった事例はたくさんあります。けれども、たとえそのようなときでも、断固友のために、そして友のためだけに行動する、それこそが政治の本質であると、そして、美や善や利をもって友と敵の境界を揺るがすものはすべて政治の名に値しないのだと、そのようにシュミットは宣言するのです。裏返していえば、たとえそれが美しくなく、倫理的に正しくなく、大損だったとしても、友を守るためであればやらなければならないことがある、それを遂行する行為こそが政治だと言うわけです。

友敵理論と自己意識


 このようなシュミットの思想は、本論の言葉に置き換えると、まさに「観光客」を否定する思想だと言うことができます。世界を友か敵かの二分法で捉える、それはすなわち、共同体に関わる人間を、村人か旅人かの二分法で考え、そのどちらでもない両義的な存在を認めないということだからです。

 友敵理論は、一般に排外主義につながる思想として批判されています。シュミットにしたがえば、政治は政治として純粋であるためには、友か敵かわからない両義的な存在を認めてはならないということになるはずで、そこから排除の行動まではあと一歩です。実際、のちに彼が協力することになるナチスは、ユダヤ人やロマ(ジプシー)といった両義的な存在をつぎつぎに「敵」として認定し、国家の外へ排除していくことになります。そして、その排除が徹底された結果が「ユダヤ人問題の最終解決」(絶滅政策)であり、アウシュヴィッツです。ホロコーストは、本書の言葉でいえば、観光客的な存在の排除の論理的な帰結にほかなりません。

 とはいえ、この友敵理論は、理論としては、単純に排外主義として否定できるようなものではありません。なぜなら、それは、外国人が嫌いだとか外国文化が嫌いだといった感情的な理由で作られたものではなく、国家とはなにか、人間とはなにかを考え抜いた結果として、じつに論理的に組み立てられている主張だからです。

 どういうことでしょうか。19世紀の哲学者、ヘーゲルは、国家を市民社会の「自己意識」にあたるものだと捉えました。たとえばいま、ぼくたちは日本列島という地理的境界のなかに住んでいます。同じ言葉を使い、モノやカネを交換し、ひとつの社会を作っています。けれども、ヘーゲルはそれはまだ国家ではないと考えます。国家の意識は、住民が、われわれはひとつの場所に住み、ひとつの社会を作り、ひとつの歴史を共有する日本人なのだと自己意識を抱いたときにはじめて生まれる、それがへーゲルの考えです。つまり、国家とは、事実の産物というより、なによりもまず意識の産物なわけです。

 シュミットの友敵理論は、この哲学からまっすぐに導かれています。モノの交換だけでは国家は生まれません。その事実を意識的に捉えなおして、はじめて社会は国家へと変わり、人間は国民になります。その自己意識こそが政治と呼ばれるものだ、とシュミットは考えるのです。だから、そこでは当然、国民(友)と国民以外(敵)との境界が必要不可欠になるわけです。

国境はなくならない


 人間が人間であるかぎり、国境は必ず生まれ、国家は必ず生まれる。それがヘーゲルとシュミットの思想ですが、このような考えは、グローバリズムが支配し、インターネットが国境を越える21世紀のいま、時代遅れのものだと捉える読者もいるかもしれません。実際に情報社会論の世界では、伊藤穰一の創発民主制論や鈴木健の「なめらかな社会」論に代表されるように、国境を含めあらゆる境界は幻想にすぎず、情報技術の進展によりそれらの境界は今後解体されていくといった議論が、一定の影響力をもっています。それらの議論は、政治思想的には、次章で触れるリバタリアニズムに親和性があります。

 けれども、シュミットの友敵理論は、もともとそのような議論よりもいちだん「深い」話をしていると考えられます。というのも、そこで扱われている友敵の境界は、そもそもが事実の問題ではなく、「意識」の問題だからです。

 たしかに、モノの交換は国境を越えてどんどん広がります。その点では、いかなる国境も幻想といえば幻想です。けれども、ヘーゲルもシュミットもともに、最初からまさにその幻想の必然性こそを問題にしています。人間は、たえず自分の行動の意味、存在の意味を問わずにはいられない存在です。それゆえ、モノの交換についても、なぜこのひととこのようにモノを交換しているのかと、意味を問わずにはいられません。その結果として、人間は必ず、幻想の境界を引き、幻想の国家を作ってしまう。幻想のなかで友と敵を分割し、幻想の政治を行ってしまう。それがシュミットの主張です。

 したがって、友敵理論は単なる排外主義ではありませんし、また時代遅れの理論として片付けられるものでもありません。そもそもシュミットの『政治的なものの概念』は、交通や交易の発展によって国境は遠からず消滅し、世界はひとつになるという当時の思潮、つまり、いまのグローバリズムやリバタリアニズムにまっすぐつながる自由主義的な思潮を批判するためにこそ書かれた本です。だから、シュミットの議論は、本格的なグローバリズムに曝された2010年代のいまこそ、読み返すに値します。

 シュミットの自由主義批判、いま風に言うとグローバリズム批判はじつに徹底しています。グローバリズムの批判者は、たいていの場合、市場の開放が自国産業にとって損になると、あるいは自国文化を破壊するといった主張を行います。実際にいまの日本ではそのような議論が行われていますし、当時のドイツでも同じ議論はありました。けれども、シュミットはその議論には関わりません。なぜなら、彼は、そのような反論は、政治的判断を、経済的判断あるいは美学的判断(グローバリズムは損だ、あるいはグローバリズムは醜いといった判断)と混同しているものだと考えるからです。

 シュミットがグローバリズムを拒否するのは、個別の利害や美学に基づいてのことではなく、グローバリズムがそもそもが友と敵の区別の抹消、政治的な判断そのものの抹消を目指していると考えるからです。シュミットは、自由主義の議論は「国家および政治を、一方では個人主義的な、したがって私法的な道徳に、他方では経済的な諸範疇に従属させ、その独自の意味を奪い去ることを目指している」ものでしかなく、それゆえ政治の重要性を掴んでいないのだと記しています★2。シュミットの考えでは、国家あるいは政治は、個人の利益になるから(経済的に得だから)存在するものでもなければ、個人の心の支えになるから(美学的に美しいから、あるいは倫理的に正しいから)存在するものでもなく、人間が人間であるかぎり、その精神の構造から必然的に要請されるものなのです。ところが、グローバリズムを肯定する自由主義の議論はその基本がわかっていない。人間が人間であるかぎり、人間は必ず友と敵の境界を必要とするということがわかっていない。したがって、その区別を消滅させるグローバリズムの流れは、たとえそれが自国経済にプラスになろうと、あるいは自国文化の拡大につながろうと、とにかくダメなのだとシュミットは考えます。グローバリズムが進み、友と敵の境界がなくなってしまったら、人間はもはや人間でなくなってしまう。

 シュミットは、世界国家(世界共和国)の理想についても、たいへん厳しい評価を与えています。


政治的なものという概念徴標からは、諸国家世界の多元論が生まれる。政治的単位は、敵の現実的可能性を前提として、と同時に、共存する他の政治的単位を前提とする。したがって、およそ国家が存在するかぎりは、つねに、複数の諸国家が地上に存在するのであって、全地球・全人類を包括する世界「国家」などはありえない。[中略]もしも地上のさまざまな民族・宗教・階級その他の人間集団がすべて一体となり、相互間の闘争が事実上も理論上も不可能となるならば、[中略]そこに存在するものはただ、政治的に無色の世界観・文化・文明・経済・道徳・法・芸術・娯楽等々にすぎず、政治も国家もそこには存在しないのである。地球・人類のこのような状態が果たして到来するのか、またいつ到来するのか、わたくしは知らない。★3


 人間は人間であるかぎり、国家を作り、友を作り、敵を作る。だから国家は必ず複数存在するし、それがすべての政治の前提になる。裏返せば、もしこの惑星上にただひとつの国家しかなくなり、公的な敵がいなくなったとしたら、それはもはや人間がいない世界というほかない。シュミットはそのように主張するのです。

 さて、最善説に似て、これもまたきわめて強力な主張です。なんといっても、人間が人間であるかぎり、友と敵の分割はなくならないし、政治もなくならないというのです。

 シュミットは、観光客の相互訪問が開く政治的な可能性などといった本書の議論は、鼻で笑って相手にしなかったにちがいありません。それはそもそも政治の話ではない、経済や文化の話だ、おまえはなにも政治のことがわかってないと説教をしたにちがいありません。本章の冒頭で、近代の人文思想のなかには、人間についてまともに考えようとすればするほど、観光客についてはまともに考えることのできない構造があると記したのは、具体的にはこのような構図を意味しています。

 だとすれば、観光客の哲学を設立するためには、なんとかしてこの強固な構図をこそ解体しなければなりません。そこで、ぼくは以下、ふたつのキーワードを導入し、ふたりの思想家を補助線として召喚したいと思います。

 彼らもまた、シュミットと同じく観光客的な存在を排除した思想家でした。けれどもそのふたりの議論は、シュミットとは立論が異なり、それゆえに上記の構図を解体する手がかりを別方向から与えてくれます。

(中略)

消費する匿名の動物たち


 さて、アーレントの哲学の再検討は専門家に任せるとして、本論の文脈で重要なのは、『人間の条件』のその弱点が、まさにシュミットの友敵理論やコジェーヴの動物論と同じ動機から生まれたと考えられることです。

 シュミットの政治哲学もコジェーヴの歴史哲学も、ともに20世紀前半の大きな社会変化のなかで、あらためて「人間とはなにか」を問うために生み出されたものでした。そこでシュミットは友と敵の境界を引くものが人間だと答え、コジェーヴは他者の承認を賭け闘争するものが人間だと答えたわけですが、アーレントは、顕名で議論し、公共を作るものこそが人間だと答えたわけです。答えはいっけん三者三様ですが、裏にある「人間でないものとはなにか」を考えると、問題意識がきわめて近いことに気がつきます。

 シュミットが1930年代に友敵理論を構築したのは、友と敵の分割を気にせず、人間は物質的な利益だけを追求するべきだと主張する人々(自由主義者)が現れたからです。コジェーヴが1940年代に闘争し歴史を前進させる精神こそが人間だと主張したのは、闘争も歴史も必要としない、快楽に自足する人々(動物的消費者)が現れたからです。そしてアーレントが1950年代に『人間の条件』を執筆したのは、ふたたび引用を繰り返せば、「自分の肉体の私事の中に閉じ込められ」た、他者を必要としない「労働する動物」が現れたからにほかなりません。自由主義者、消費者、労働者と表現は異なりますが、当時彼らが共通して危機意識を向けたのが、労働者がそのまま消費者でもある大衆社会の出現であり、それを支える経済優位の自由主義的で個人主義的な思潮でした。それゆえ、その三者は同じ事態を指しています。

 実際、アーレントはしばしば、労働と消費を同じものの表裏と見なしています。彼女は「〈労働する動物〉の余暇時間は、消費以外には使用されず、時間があまればあまるほど、その食欲は貪欲となり、渇望的になる」と記します。現代の労働者は、労働から解放されても、商品を買う消費者になるだけです。そして消費は、徹頭徹尾「私的」な体験であり、公共につながらない。顔もなく名前もない。コンビニのレジ係は、労働が終わったあとこんどは客としてほかのコンビニに行き、消費者になるかもしれませんが、そこにもやはり他者はいません。アーレントはそのサイクルの全体を問題にしました。

 ですから、アーレントの労働批判は消費批判でもあります。実際彼女は、「苦痛と努力の足枷から完全に『解放された』人類は、世界全体を自由に『消費』するようになり、人類が消費したいと思うすべての物を日々自由に再生産するようになるだろう」が、その「ユートピア」で生まれるのは「幸福」を追求する「大衆文化」だけで、人間の生になにも意味を与えてくれないだろうと記しています★4。その筆致は、さきほど引用した国境なき世界国家の理想を批判するシュミットの筆致、ポスト歴史の「動物」の生を皮肉交じりに描くコジェーヴの筆致と、おどろくほど印象が似ています。

 シュミットもコジェーヴもアーレントも、みな一致して、顔のない、それゆえ友もいなければ敵もいない、匿名の動物的な消費者の出現こそを批判し、人間とはもっと社会にコミットするものなのだ、歴史にコミットするものなのだと訴えていました。

 裏返せば、ここから近代の人文思想の構図が見えてきます。観光客は消費者です。観光は私的な行為です。観光客は住民に対して匿名です。観光客は住民の承認を求めません。議論もしませんし、歴史にも介入しません。観光客は、国境を越えて惑星上を無責任に飛びまわり、友も作らなければ敵も作りません。シュミットやコジェーヴやアーレントの人間観を継承するかぎり、ぼくたちはこのような存在についてまともに考えることができません。彼らの哲学では、観光客は、最初から人間の外側に弾き飛ばされています。ぼくは、本書で、その構図の全体をひっくり返すことを目指しています。



★1 『ゲンロンα』掲載にあたっての注記:ここに再掲するのは『ゲンロン0 観光客の哲学』の草稿です。実際に出版された書籍とは章構成・内容とも大きく異なります。(編集部)

★2 『政治的なものの概念』、田中浩、原田武雄訳、未来社、1970年、92頁。

★3 同書、61‐62頁。

★4 『人間の条件』、志水速雄訳、ちくま学芸文庫、1994年、193‐196頁。

『ゲンロン0 観光客の哲学』
東浩紀 著

¥2,530(税込)|A5判・並製|本体326頁|2017/4/1刊行

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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