演劇とは「半々」である──『ブルーシート』と虚構の想像力(後篇)|飴屋法水+佐々木敦

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初出:2016年7月8日刊行『ゲンロンβ4』
 本稿は飴屋法水さんと佐々木敦さんの対談「演劇とは『半々』である——『ブルーシート』と虚構の想像力」から、一部を抜粋して掲載するものです。本対談は、今年4月にゲンロンカフェにて開催されたトークイベント、「ニッポンの演劇 #3 なにが演劇なのか——パフォーマンスの『正体』をめぐって」★1をもとに構成されたものであり、対談の全文は、2017年6月に刊行された『ゲンロン5』演劇特集「幽霊的身体」に掲載されております。ぜひこちらもご覧ください。(編集部)※本記事は前後篇の後篇となります。前篇はこちら。前篇は下のボタンからお読みいただけます。
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別人になるということ



佐々木敦 『ブルーシート』が岸田國士戯曲賞をとったときに、選考委員のひとりである岡田利規さんが、この作品は初演の出演者以外にはやれないんじゃないかとおっしゃっていました★2。岡田さんは岸田賞の選考委員としては、戯曲が持つ意味や機能にとりわけこだわっているひとで、それを選考の基準にしているところがある。戯曲が作者や初演の演出家から離れて、それを設計図にしてまったく別の演劇が生まれるというような汎用性を、この作品は持たないのではないかと岡田さんは指摘したわけです。
 これは『ブルーシート』の単行本に併録された『教室』★3という作品にも関わる問題です。『教室』は『ブルーシート』と前後して生まれた作品で、飴屋さんの本物のご家族が出演した「家族の物語」です。どちらも当事者あるいは当人ありきの戯曲なんじゃないか、そう思うひとは多かったのではないかと思います。これは飴屋さんの仕事を考えるうえで大きな問題です。
 そういう批判もあるなか、『ブルーシート』の再演では、あえてオリジナルメンバーをもういちど出すという選択を行った。その批判について、飴屋さんはどう思っていたのか。

飴屋法水 でもね、演劇の原理として、舞台に出ているのは絶対に当事者では「ない」ということがあるでしょう。自分じゃないものになるわけだから。けれど、そこにいるのは演じられている役そのものでもない。たとえば、ハムレットとか言っていても現実には、おまえは日本人じゃんと。これもぼくにすれば「半々」です。
 佐々木さんがふたたび演劇に興味を持つようになったきっかけは、岡田利規さんのチェルフィッチュだったらしいですね。じつはぼくもそうで、90年代や2000年代はじめはほとんど演劇から離れていました。仕事は来る来ないで決めているんだけど、見る見ないは勝手ですよね。だから見ていなかった。演劇を見ることを必要としてなかったんですね。ところが、六本木クロッシングという美術展でチェルフィッチュが『三月の5日間』をやっていた★4のをたまたま見て、すごいびっくりした。あ、これは「半々」だって思ったんですよ。ちゃんと両側がある。これはおもしろいと思って、また演劇を見るようになった。
 演じる、つまり役は必ず他者であって、当事者ではありえないということは演劇のスタートですが、一方で自分がやってることが「ドキュメンタリー演劇」と呼ばれるのも、まあわかる。岡田さんがおっしゃっていたのは、『ブルーシート』も『教室』も本人が本人役で出るなら汎用性がない、そういうものを戯曲と呼ぶのはいかがなものかということです。たしかにそうだと思う部分もある。だから、高校生から『教室』をやらせてくださいとオファーが来たときはびっくりした。しかし、静岡の高校生の『ブルーシート』は見に行きましたが、さきほど言った演劇の原理、当事者ではないということがしっかり行使されてました。体育館みたいなところで「ここは福島です」と。

佐々木 再演と同じことが起きていたわけですね。「ここは東京の豊島区です」と「ここは福島です」が「半々」になっていた。静岡のひとが『ブルーシート』をやれると思った時点で、飴屋さんの戯曲に汎用性があったことの証明になっているし、それは演劇の原理とも関わっている。

飴屋 裏を返すと、ぼくは演劇をやるときに、どんなときでも、たとえ飴屋役であろうが自分が当事者だと思ってないんだと思います。演劇の仕組みのなかには、演じることによって当事者ではなくなるという原理すらあるのかもしれない。だから私小説的な思いはまったくない。

佐々木 『ブルーシート』や『教室』に対して、作品自体がそれを最初に演じたひとたちと分かちがたく結びついていて、ほかのひとがやったら失われるものがあるんじゃないかという見方がある。最初はぼくもそうだと思ったんです。しかし他方、あらゆる戯曲はだれが演じてもいい。ぼくが『ブルーシート』や『教室』を他人が上演するのはありだと思えるのは、飴屋さんがかつて『3人いる!』★5という作品を演出していたからです。東京デスロックの多田淳之介さんが書いた戯曲を、飴屋さんは全公演別キャストで演出した。

飴屋 12日間だから12バージョン作ったんですよね。

佐々木 戯曲がフィクションの設計図だとすると、設計図は共通のまま、それをたまたまある3人がやるとその日の公演になるというわけです。結局、演劇はフィクションなのだけど、それはつねに、そのときその場所にいる、ある人間によって具現化されるものとしてある。『ブルーシート』も、いわきの高校生と作ったからああいう作品になってるけれど、いちどできちゃったらもうそれはあまり関係ない。

飴屋 テキストの残りの「半分」は交換可能でかまわないんです。

佐々木 実際、「このひとじゃないと」と思うのはそのひとがそこにいるからであって、別のひとがそこにいたら、その別のひとに対して「このひとじゃないと」と思うかもしれない。

飴屋 それが仮に演劇の原理だとすると、なぜひとがそれを必要とするのかが問題になる。ぼくは、本当にだれもが、ふつうに鼻歌を歌うようなレベルでその仕組みを必要としていると思うんです。だからこそ演劇はだれにでもできる。そこに意識的になったのは『転校生』が大きかった。あのときは演出の作業だけだったからです。やることはすでに戯曲で示されているから、じゃあ自分はなにができるのか、ということを、かなり深く考えた時間だったんですよ。
 オーディションがあったんですが、たとえばオーディションとはなんなのか、すごく考えました。『転校生』の戯曲は、雑な言い方をすると、どこにでもいるふつうの女子高生たちの日常会話のようなテキストです。ところがオーディションに来るのも女子高生なわけです。女子高生役をやりたいって言ってきた女子高生に対して、あなたは女子高生はやれませんって否定する根拠がまったくない(笑)。ぼくはそこで、実際の女子高生が女子高生の台詞を言って演劇になるとはいったいなにかという問題に直面したのかもしれない。結局、戯曲の台詞は基本的に変えなかったんですが、役名だけは本人の名前に変えました。衣装も、出演者が普段着ているそのままの制服にしてもらった。統一した衣装を用意するのに強烈な違和感があったんです。カバンとか靴とかもばらばらのまま。それで同じひとつのクラスっていう「虚構」に乗ってもらいました。そしてそこはあくまで劇場である、それがぼくの「半々」です。
 名前の話で言うと、本名というものがもう虚構じゃないですか。だれかがつけた名前ですよね。だからその「本当」性にも、そもそも根拠はない。

佐々木 『転校生』も『ブルーシート』も、そのひとがふだん自分で名乗って、他人に呼ばれている名前で出ている。でも、そのことによって逆に虚構の登場人物が生まれている。

飴屋 演劇ができないひとはいないというのは、まずそこです。生き物として生まれてきたときに、ある名前に命名されて生きるということをみなやってる。そのひとはそのひとを演じているとしか言いようがない、そういう虚構性がある。家では父親演じていますみたいなことのレベルでもなく、髪を切るとか服を着るとか、なんらかの言葉を喋るとか、ひとに生まれた以上、必ずなにかの虚構を選択するということです。動物でいう、刷り込みや社会化のレベルです。
【図1】イベントは満席のゲンロンカフェで行われた。右から飴屋法水さん、佐々木敦さん


そこには(い)ないもの



佐々木 清澄白河のSNAC★6というスペースで上演した『教室』と『コルバトントリ、』★7では、公共の道路が借景になっていました。道路沿いのガレージのようなスペースですが、ガレージの奥ではなく、手前の道路の側が舞台になっていて、道とのあいだにとくに仕切りもなかった。ひとも車もけっこう通る道で、作品とはまったく関係のないひとが行き来するのがいつも見えていた。それが作品の一部なんだけど、当然それは毎回違う。SNACのなかではフィクションが演じられているけど、むこう側は現実だということじゃなくて、むしろむこう側も虚構のように感じられてくる。

飴屋 ぼくはそもそも、その「むこう側」を現実や日常とは捉えていないんだと思います。あるいは、すべてが虚構というか。
 ぼくが人間の営みのそのような虚構性に気がついたのは、小学生のときです。教室で昼ご飯を食べていて。ぼくは床から1メートルの場所にいるけど、教室は3階にある。現実として自分はいま地上7メートルにいるけど、床から1メートルでもある。そのふたつの状況を完全に「半々」なものとして、同時に感じながら生きているということに気づいた。窓の外の木に登って、同じ高さまで行って給食を食べてみて確かめました。そうするとあきらかに地上7メートルの場所で食べている。でも横を見ると、教室の机で食べているひとはたぶん、床があるから安心して、地上7メートルではないという感覚でいる。その感覚をもたらしているのは人間が作った建物と床です。それで、現実や日常という言葉と、虚構や演技という言葉が、人間という生き物にとってはまったく同じものなんだと思った。だから、この原理が使えないひとがいるわけがない。

佐々木 演劇の原理について、ぼくは過去に何回か、「ここにはいないひとを、ここにいるひとが、ここにいることにしているのが演劇だ」と書いています★8。それどころか飴屋さんには『わたしのすがた』★9という役者の登場しない作品もあります。2010年のフェスティバル/トーキョーで上演された作品で、観客はいくつかの建物を巡っていくけれど、そこにはだれもいない。現実には存在しないひとが、存在しないのに存在することになるという経験が作られていた。それこそ演劇だと思いました。
 演劇で起きることは、結局は観客の頭のなかで起きている。だから本当は人間は必要ないというか、いなくてもいい場合もある。『わたしのすがた』はそれをやってみせた。

飴屋 演劇は、生身がそこにいてはじめてできるものです。でも同時にその生身の生身性をどんどん失わせていく行為でもあります。その延長線上には、ここに自分がいることといないことが完全に等価であるようなあり方がある。おおげさなことを言うと、そもそも自分は確実に死ぬらしい。生まれてはこなかったかもしれない。それをわかっている自分はいまここにいる。地球がいずれ消滅することを知っている自分が、いま生きて子どもを育てていて未来のことを考えている。そういうことが関係している。
 いま自分が「そうではなかった可能性」を半分は内包しつつ生きるということ、それが演劇がやっていることです。演劇がわざわざ必要とされている理由もそういうことなんじゃないでしょうか。


2016年4月13日 東京、ゲンロンカフェ
構成=山崎健太+編集部
撮影=編集部

★1 飴屋法水×佐々木敦「ニッポンの演劇 #3 なにが演劇なのか——パフォーマンスの『正体』をめぐって」 http://genron-cafe.jp/event/20160413/
★2 第58回岸田國士戯曲賞選評(白水社) http://www.hakusuisha.co.jp/news/n12258.html
★3 『教室』は飴屋法水自身とその妻と娘という、実の家族3人が出演した作品。『ブルーシート』初演と同年の2013年に、大阪国際児童青少年アートフェスティバルにて上演された。
★4 『三月の5日間』(初演:2004年)はアメリカ軍がイラクへの空爆を開始した2003年3月21日(アメリカ東部時間では20日)を間に挟んだ5日間における、数組の若者たちの行動を語る戯曲。第49回岸田國士戯曲賞を受賞し、2007年には「六本木クロッシング2007:未来への脈動」展(森美術館)で特別公演された。
★5 『3人いる!』は多田淳之介が主宰を務める劇団、東京デスロックが2006年に公演した作品。飴屋は2009年に同作を演出し、全12日間を連日異なるキャスト、設定で再演した。
★6 SNACは美術作家のマネージメント、展覧会の開催、コンテンツの制作、書籍出版などを手掛ける無人島プロダクションと、パフォーミング・アートの公演および企画を行う吾妻橋ダンスクロッシング、音楽レーベルHEADZが共同でプロデュースしているギャラリー、イベントスペース。http://snac.in/
★7 『コルバトントリ、』は山下澄人の小説『コルバトントリ』(文藝春秋、2014年)を原作に、飴屋が演出を手掛けた作品。2015年にSNACで上演された。
★8 佐々木敦「そこにはいないひとについて(ここにはいないひとについて)」、『批評時空間』、新潮社、2012年などを参照。
★9 『わたしのすがた』は巣鴨駅周辺の4ヶ所に点在している会場を、指示どおりの順番に巡っていく体験型の作品。飴屋が演出し、2010年のフェスティバル/トーキョー10で上演された。

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飴屋法水

1961年生まれ。演出家・劇作家。1978年、唐十郎の「状況劇場」に参加。1983年「東京グランギニョル」結成、演出家として独立。その後、発表をレントゲン藝術研究所など美術の場に移す。1995年にアニマルストア「動物堂」を開業、動物の飼育と販売に従事しながら、「日本ゼロ年」展(1999年)などに参加。2007年、平田オリザ作「転校生」の演出で演劇に復帰。2014年、『ブルーシート』で岸田國士戯曲賞受賞。著書に『彼の娘』(2017年)など。

佐々木敦

1964年生まれ。思考家/批評家/文筆家。音楽レーベルHEADZ主宰。映画美学校言語表現コース「ことばの学校」主任講師。芸術文化のさまざまな分野で活動。著書に『成熟の喪失』(朝日新書)、『「教授」と呼ばれた男』(筑摩書房)、『増補新版 ニッポンの思想』(ちくま文庫)、『増補・決定版 ニッポンの音楽』(扶桑社文庫)、『ニッポンの文学』(講談社現代新書)、『未知との遭遇【完全版】』(星海社新書)、『批評王』(工作舎)、『新しい小説のために』『それを小説と呼ぶ』(いずれも講談社)、『あなたは今、この文章を読んでいる。』(慶應義塾大学出版会)、小説『半睡』(書肆侃侃房)など多数。撮影=新津保建秀
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