外面を飾ることこそが感情を豊かにする──中島隆博×東浩紀「中国において正しさとはなにか」イベントレポート

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webゲンロン 2022年9月22日配信
「感情の政治」という言葉がある。SNSを開けば、だれかが怒りや憎悪をむき出しにして、自分が「悪だ」とみなしたものを口汚く罵るさまをいくらでも目にすることができる。そこでは、異なる者どうしの「対話」の余地は失われてしまっている。われわれは、どうすればいま陥っている分断から抜け出すことができるのか。そのヒントが詰まった対談だった。 

 2022年5月13日、哲学者・中島隆博の『中国哲学史』の刊行を記念して、中島と東浩紀との対談が行われた。両者の対談は2018年以来4年ぶり2回目。ともに「悪」の問題に関心をよせ、互いの論考に刺激を受け続けているふたりの哲学者が大いに語りあった。対談の途中、中島は、東からのさまざまな問いかけが「自分という鐘をうまく叩いてくれ、自分でも聞いたことのない音が出ている気がする」と語った。ゲンロンカフェならではの醍醐味にあふれたイベントの模様を、以下でレポートする。(ゲンロン編集部)



 



『中国哲学史』は、中国で生まれた数々の思想をたんに並べて解説した本ではない。中島にとっての中国哲学史とは、「中国(語)の経験を通じて、批判的な仕方で、概念を歴史において洗練し、普遍に向かって開いていくこと」だという。一体どういうことだろうか。 

 東が挙げた例をもとに考えるとわかりやすい。4年前、ふたりの最初の対談では、フランソワ・ジュリアンの著書『道徳を基礎づける』が取り上げられた。孟子の「惻隠の情(あわれみの気持ち)」を議論の中心にすえた本だが、ジュリアンは「孟子がいかに西洋哲学とちがうことを言ったか」をたんに解説したわけではなかった。むしろ、孟子の議論をルソーやカントの哲学と対話させながら、「人間にとって道徳とはなにか」といった、より普遍的な問題に迫ることを目指した。 

 中島は、本書の執筆にあたってジュリアンの「普遍」に対する姿勢を参考にしたという。中国哲学をきっかけとしながら、中国と外の世界との相互作用を踏まえたさまざまな概念の歴史をダイナミックに描き、人類にとっての普遍的な問題を考え直していくこと。それが中島の『中国哲学史』における挑戦なのである。 

 

「礼」とはなにか



『中国哲学史』第3章のタイトルは「正しさとは何か」。イベントでも、「正しさ」にまつわるさまざまなトピックが議論された。なかでも話題の中心となったのが、中島が注目している「礼」という概念である。 

 中島によれば、礼とは「感情に根ざした規範」であるという★1。ひらたく言えば、「良い感情を生み出すための行動のパターンやルール」のことだ。卑近な例を挙げるなら、「こういう挨拶の仕方を守るとお互いに気持ちがいい」といったルールがあてはまるだろう。このようなルール(規範)は、西洋哲学における神や理性から導き出されるような厳格で確固としたものではない。時代の変化とともに移り変わりもする。しかし、そんな「弱い規範」である礼にこそ可能性があるのだと中島は言う。 

 礼の問題を追求した思想家のなかで中島が重視するのが、荀子である。一般的には、孟子の「性善説」を否定して「性悪説」を唱えた人物と理解されることが多い。しかし、中島によれば、荀子はむしろ孟子の可能性を引き継いだ思想家なのだという。 

 孟子は「惻隠の情(あわれみの気持ち)」を人間が善に向かっていくための端緒のひとつとしてとらえた。井戸に落ちそうな子どもをみれば、多くのひとは思わず助けるために手を伸ばす。このような感情は、やむにやまれず反射的に、身体的に生まれてくるものだ。孟子は、そこにこそ人間が道徳的な存在になるためのスタート地点があると考えた。 

 それに対し、荀子の性悪説は「人間は放っておくと悪になる」という発想をとる。荀子はそこから「人間が悪にならないためにはある種の介入が必要だ」と考えた。ポイントは、そこで必要とされた「介入」こそが「礼」だということだ。礼とは、「いい挨拶をすれば気持ちがいい」といったような感情に根ざした規範のこと。つまり荀子は、感情にかかわるものを道徳の基礎にすえるという点で孟子を継承しているのだ。孟子が人間の善に向かう「兆し」と考えた感情の問題を、荀子は礼という「行為の型」の議論へと高めた。中島はそこに荀子の重要性をみてとる。 

  
 
 

現代人をしばる倫理観の根っこ



 東も、道徳の基礎に感情をおくことに賛成する。それは、現代人をしばる倫理観へのオルタナティブになりうるという。 

 その一例がカントの定言命法だ。「〇〇について、ひとはつねに△△しなければいけない」という、理性にもとづく道徳である(AI的な道徳とも言えるかもしれない)。このような道徳のかたちはとても危うい。極端な例では、「いかなるときも嘘はついてはいけない」というものがある。人殺しから逃げている友人をかくまっているときでさえ、人殺しがたずねてくれば、馬鹿正直に友人を差し出さなければならないとカントは言う。なぜなら、そのような状況においてさえ、ひとは「友人をかくまってなどいません」と嘘をついてはいけないからだ。 

 東の見解では、ナチスによるホロコーストに協力してしまったドイツ人の心性はこれに近いものだった。彼らの多くはユダヤ人の友人をもち、ユダヤ人に対して同情心をもっていた。しかし、彼らは「ナチスという絶対的善」に従うために「私心」を捨て、人類史に残る犯罪行為に手をかしてしまったのである★2。 

 東は、現代のSNSでみられがちな「正しさ」の理屈を例に挙げながら、上述のようなカント主義や功利主義(コスト計算に基づく倫理)の問題を指摘した。いまのネットでは、「あなたは〇〇を支援しているようですが、おなじ境遇にあるすべてのひとをつねに支援できるのですか?」(カント主義)、あるいは「その支援は全体のコストを計算したうえで合理的に行なっているものなのですか?」(功利主義)といった理屈がよくみられる。この理屈は正しいではないかと思う読者もいるかもしれない。しかし、こんな理屈を気にしていては、ひとは目の前で苦しむ人間を救うことができなくなる。このような理屈は「どんな場面でも適用できる」「きちんと数値化できる」という悪い意味での普遍にとらわれてしまっている。 

 いっぽう、「憐れみ」などの感情にもとづく倫理は、あくまで「そのとき助けたいという気持ちになったから助ける」というランダム性をはらむ道徳である。確かに、そこにはある種の不平等性がある。しかし、そのようなランダム性や不平等性を引き受けるかたちでしか、ナチスのような悪を回避する人間的な倫理はありえないのではないか。その可能性はもっと哲学的に追求されるべきだと東は言う。 

  
 
 

感情の政治にあらがうための礼



 冒頭で述べたとおり、礼は、現代社会における「感情の政治」に対抗するためのひとつの指針を与えてくれる。礼は、感情に根ざしながらも、行動にまつわるルールによって素朴な感情を変化させるものだからだ。 

 中島はけっして、いま盛んにみられる「怒りなどにもとづいて抗議を行う社会運動」の重要性を否定するわけではない。しかし、自身の感情にもとづいて声をあげるひとが、他者の感情の政治に対しては冷淡なことも多く、社会は人々の感情が豊かになる方向には進んでいない。「感情の政治に取り込まれない仕方で感情に向かいあう」ために、いまこそ礼が必要だというのだ。 

 中島によれば、礼のポイントは、「かのように」の次元、すなわちフィクションの次元を含むことにある。たとえば、人々がお互いを尊敬している「かのように」、あるいはお互いを愛している「かのように」振る舞うことが、それにあてはまる。 
  
 これは、必ずしも相手を心の底から尊敬したり愛したりしていなくてもできることだ。「それは偽善ではないか」と思うひともいるかもしれない。 

 しかし、中島はその見方に疑義を呈する。偽善を云々するひとは、人間にははじめから確固とした「内面」があって、それに誠実に生きるべきだと考えている。しかし、人間は身体と切り離された状態で生きることはできない。人間が「身体を生きる」ものである以上、内面はあくまで外に表現されるかたちでしか生じないとみることもできる。 

 そうだとすれば、むしろ徹底的に「外を飾る」ことによって、内面を変化させていくこともできるのではないか。相手を尊敬している「かのように」振る舞うことで、自身のうちに相手への尊敬を生じさせる。その外面の振る舞いをつうじて、相手にもその感情が波及する。中島が礼の「感情を豊かにする」力に注目するのは、そのような可能性を重視しているからなのである。 

 礼や礼儀といっても、古くさいしきたりや上下関係の押しつけの話ではない。いまの世界のあり方にあわせて、人類はいかに新しい人間関係のつくり方を発明できるのか。そのためのヒントが、両者の議論には詰まっていた。

 



 中島は、ゲンロンから8月に刊行されたユク・ホイ『中国における技術への問い』(伊勢康平訳)に解説をよせている。東いわく、同書は人文系の翻訳書としては異例な、たいへん読みやすい画期的な本になっている。イベント後半では、礼の話題とも関係し、ホイの議論に対して両者が厳しい意見を提示する場面も見られた。 

 ほかにも対談では興味深い論点が数多くあがった。なかでも最終盤、中島が東の論考「悪の愚かさについて」(『ゲンロン10』『11』所収)に対する問題提起として投げかけた「悪の推論」についての議論は、ここで紹介できないのが残念なほどにスリリングなものだった★3。 

 アーカイブ動画にて、ぜひふたりの哲学者のあいだの議論の熱を体感してほしい。(住本賢一) 

  
 
  

シラスでは、2022年11月10日までアーカイブ動画を公開中。ニコニコ生放送では、再放送の機会をお待ちください。 

 


中島隆博×東浩紀「中国において正しさとはなにか──『中国哲学史』刊行記念」 
(番組URL= https://genron-cafe.jp/event/20220513/



★1 イベントでは、洗練された定義として、中国史家マイケル・ピュエットによる以下の文章が紹介された。「人々が状況に対応していく中で、その対応のいくつかが後に範例的であったと見なされるようになり、それらが高められて礼となる。次世代は礼を反復し、自分たちを訓練し、感情面での対応の仕方を洗練していく」「礼は感情に由来する。それは範例的だと見なされた対応であり、次世代を訓練してその感情を様式化するのを助けると考えられている」。この文章は、『中国哲学史』でも引用されている(87-88頁)。 


★2 東のこの見解については、以下も参照されたい。東浩紀「悪の愚かさについて2、あるいは原発事故と中動態の記憶」、『ゲンロン11』、ゲンロン、2020年、32-34頁。 


★3 同論考における「悪」とアジアの関係については、昨年11月に行われた梶谷懐と東浩紀による対談もたいへん刺激的だった。以下のイベントレポートを参照されたい。谷美里「善悪を越えた『正義』のために──梶谷懐×東浩紀『アジア的愚かさと公共性について』イベントレポート」、「webゲンロン」、2022年4月5日。URL= https://webgenron.com/articles/article20220405_01/

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