ウィトゲンシュタインの家族的類似性──「訂正可能性の哲学、あるいは新しい公共性について」(『ゲンロン12』)より|東浩紀
初出:2021年9月17日刊行『ゲンロン12』
『ゲンロン』の最新刊『ゲンロン12』が、先日、9月17日に刊行されました。
冒頭部分の先行公開、その後の一部公開に続き、東浩紀による巻頭論文の一部を掲載いたします。わたしたちは「家族」の類型を逃れて社会を想像することはできない。ウィトゲンシュタインの「家族的類似性」を出発点に、「家族」の概念の再定義を試みます。全文は『ゲンロン12』をご覧ください。(編集部)
冒頭部分の先行公開、その後の一部公開に続き、東浩紀による巻頭論文の一部を掲載いたします。わたしたちは「家族」の類型を逃れて社会を想像することはできない。ウィトゲンシュタインの「家族的類似性」を出発点に、「家族」の概念の再定義を試みます。全文は『ゲンロン12』をご覧ください。(編集部)
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哲学は家族を否定し続けてきた。一方に家族的で私的で閉ざされた関係や制度があり、他方には家族を超えた公共的で開かれた関係や制度があると信じてきた。
けれども、家族的なものと家族的でないものの区別はそれほど明確なものではない。
しかもそのあいまいさは、たんなる論理的な不備ではなく、人間の思考そのものの限界である可能性がある。社会はたしかに家族よりも広い。にもかかわらず、ぼくたちはその社会なるものについて、結局のところ特定の家族類型に頼ることなしには想像できないのかもしれない。もしも共産主義が共同体家族のイデオロギーでしかなく、自由主義もまた絶対核家族が生み出したものでしかなかったのだとすれば、20世紀の長い冷戦はしょせんはふたつの「家族」の争いでしかなかったことになる。そのような可能性について、政治思想はいままでまったくなにも考えてこなかった。
それゆえ、ここからさきは、家族という言葉について、いままでのような二分法に頼って語るのをやめたいと思う。つまり、家族という言葉を、「親密」で「閉鎖的」で「私的」な領域を名指すものとして使うのをやめて、むしろ、親密なものと親密ではないもの、閉ざされたものと開かれたもの、私的なものと公的なものを統一して規定するような、より上位の関係概念として捉えなおしたいと思う。
ぼくたちは家族についてしか語れない。家族の外に出ることができない。いくら家族から離れても、そこにもまた家族を見出してしまう。だとすれば、そのさきに進むためには、家族の概念そのものを再定義する必要がある。
あらためて根本から考えなおしてみよう。家族とはなにか。こんどは同じ哲学でも、プラトンやヘーゲルやポパーとはまったく異なったタイプの哲学を参照してみる。
B 訂正可能性の共同体 ウィトゲンシュタインとクリプキ
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哲学は家族を否定し続けてきた。一方に家族的で私的で閉ざされた関係や制度があり、他方には家族を超えた公共的で開かれた関係や制度があると信じてきた。
けれども、家族的なものと家族的でないものの区別はそれほど明確なものではない。
しかもそのあいまいさは、たんなる論理的な不備ではなく、人間の思考そのものの限界である可能性がある。社会はたしかに家族よりも広い。にもかかわらず、ぼくたちはその社会なるものについて、結局のところ特定の家族類型に頼ることなしには想像できないのかもしれない。もしも共産主義が共同体家族のイデオロギーでしかなく、自由主義もまた絶対核家族が生み出したものでしかなかったのだとすれば、20世紀の長い冷戦はしょせんはふたつの「家族」の争いでしかなかったことになる。そのような可能性について、政治思想はいままでまったくなにも考えてこなかった。
それゆえ、ここからさきは、家族という言葉について、いままでのような二分法に頼って語るのをやめたいと思う。つまり、家族という言葉を、「親密」で「閉鎖的」で「私的」な領域を名指すものとして使うのをやめて、むしろ、親密なものと親密ではないもの、閉ざされたものと開かれたもの、私的なものと公的なものを統一して規定するような、より上位の関係概念として捉えなおしたいと思う。
ぼくたちは家族についてしか語れない。家族の外に出ることができない。いくら家族から離れても、そこにもまた家族を見出してしまう。だとすれば、そのさきに進むためには、家族の概念そのものを再定義する必要がある。
あらためて根本から考えなおしてみよう。家族とはなにか。こんどは同じ哲学でも、プラトンやヘーゲルやポパーとはまったく異なったタイプの哲学を参照してみる。
ウィトゲンシュタインは20世紀でもっとも有名な哲学者のひとりである。そしてもっとも謎めいた哲学者のひとりでもある。
彼は1922年に30代前半の若さで『論理哲学論考』という著作を発表した(雑誌初出は前年)。同書はまるで論理学の教科書のような独特のスタイルで記されている。そこで披露されているのは、ひとことで要約すれば、自然言語の文(命題)は、詩など特殊なものをのぞいてすべて世界の事象と対応し真偽が決まるべきであり、哲学はその対応の基礎づけとしてあるべきだとの強い信念である。同書は同時代の哲学者に絶大な影響を与え、いまでも古典として読まれている。
ウィトゲンシュタインの名前は、この『論理哲学論考』だけでも十分哲学史に残っただろう。ところが彼はそのあとねじれたキャリアを歩む。
ウィトゲンシュタインは同書を書きあげたあと、出版を待たずにオーストリアの田舎に引きこもり小学校教師になってしまう。彼はじつはヨーロッパで有数の資産家の息子でもあり、たいへんな財産をもっていたのだが、それもすべて放棄してしまう。そして周囲には哲学から離れると宣言する。教師生活は5年ほどで破綻し、1920年代末には大学に戻ることになるのだが、そのあとも少数の学生に向けて講義するだけで著作や論文は発表しない。彼は1951年に62歳で亡くなるが、生前に刊行した文章は、上記の『論理哲学論考』のほかは、教師時代に著した子ども向けの小さな辞典と短い論文ひとつが知られているだけだ。
なぜそんなふしぎなキャリアを歩んだのか。ウィトゲンシュタインのその長い「沈黙」は、ある時期以降の彼が、かつての自分自身の思想に懐疑を抱き、そこから決別したことに起因すると考えられている。その断絶はきわめて峻烈なので、この哲学者について語る場合は、ふつう『論理哲学論考』の「前期」とその思想を疑い始めた「後期」に分けることが多い。
後期のウィトゲンシュタインは、前期とはまったく異なる言語観にもとづいた、まったく異なるタイプの哲学を模索し続けた。その歩みは、学生が残した講義ノート、口述で記されたタイプ原稿のほか、1930年代から1951年の死まで、20年間にわたって断続的に書かれた多量の遺稿に記録されている。
遺稿のほとんどは未完成の断章だが、ウィトゲンシュタインは1940年代にその一部をまとめ、序文まで用意して出版社と刊行を前提に交渉を行なっていた。彼の死のあと、その部分が弟子の手で『哲学探究』というタイトルのもとで公刊される。そしてこちらもまた20世紀の哲学に、『論理哲学論考』と同じか、あるいはそれ以上の衝撃を与えることになるのだ。
さて、そんなウィトゲンシュタインをここで呼び出したのは、まさにその後期の『哲学探究』に、「家族的類似性 Familienähnlichkeit」というたいへん重要な、そして印象深い表現が現れているからである。
家族的類似性そのものは理解がむずかしい概念ではない。たとえば、父がいて、母がいて、息子がいて、娘がいたとする。父と息子は背恰好が似ている。父と娘は目もとが似ている。母と息子は口もとが似ている。母と娘は話しかたが似ている。彼らはそれぞれ似ていて、あきらかに同じ家族だとわかる。けれども全員に共通の特徴を取り出すことはできない。そういうことはよくある。これが家族的類似性である。
なぜこれが重要なのか。そこを理解するためには、もうひとつ「言語ゲーム」という概念を知る必要がある。この概念は後期ウィトゲンシュタインの哲学を代表するもので、ウィトゲンシュタイン自身に興味がなくても、あちこちの哲学入門書に登場するので聞いたことのある読者は多いかもしれない。
前期のウィトゲンシュタインは、言葉は世界を記述するためにあると考えた。だからすべての命題は真偽が決まるべきだと主張した。
対して後期の彼は、ひとは言葉を使ってゲームをしているだけだと考える。たとえばぼくのまえに石板がある。そして日本語がわからないひとがいる。そのときぼくが、石板を指さしながら「石板!」と叫んだとする。それは「このものの名前は石板だ」という意味かもしれない。あるいは「それをもってこい!」という意味かもしれない。あるいは怒りや喜びの発露かもしれない。そのいずれの解釈が正しいかは、命題つまり発話そのものを分析しても決まらない。発話外の状況によってしか決まらない。ウィトゲンシュタインはそのような状況を「言語ゲーム」と呼んだ。そこではひとは、チェスやサッカーの規則をプレイしながら学ぶように、じっさいに発話を繰り返しながら、試行錯誤で言葉の規則を学んでいくしかないからである。
これそのものは単純な指摘である。にもかかわらず注目されたのは、そこにつぎのような逆説的な発見が加わっていたからだ。
ひとは言葉を使ってゲームをしている。そう聞けばふつうは、発話者つまりプレイヤーは、自分がなんのゲームをプレイしているか、いかなる規則にしたがっているかを理解しているはずだと考える。チェスのプレイヤーが、目のまえの盤面がチェスのものであることを認識し、チェスの規則に照らして駒を動かしているように。
けれどもウィトゲンシュタインは、そのような常識に反し、言語ゲームにおいては、発話者は自分がなんのゲームをプレイしているか理解することができないし、またなんの規則にしたがっているかも理解することができないと主張したのである。つまり、なんのゲームをプレイしているのかわからないまま、ただプレイだけを続けている、それこそが言語的なコミュニケーションの本質だと主張したのだ。この逆説が多くの哲学者に衝撃を与えた。
なぜそんな逆説が導かれるのだろうか。(『ゲンロン12』に続く)
正義は、開かれていることにではなく、つねに訂正可能なことのなかにある。
『ゲンロン12』
飯田泰之/石戸諭/イ・アレックス・テックァン/井上智洋/海猫沢めろん/宇野重規/大森望/小川さやか/鹿島茂/楠木建/桜井英治/鈴木忠志/高山羽根子/竹内万里子/辻田真佐憲/榛見あきる/ウティット・ヘーマムーン/ユク・ホ/松山洋平/山森みか/柳美里/東浩紀/上田洋子/福冨渉東浩紀 編
¥2,860(税込)|A5判・並製|本体492頁|2021/9/17刊行
東浩紀
1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。