再帰的保守主義と持続的な公共性──「訂正可能性の哲学、あるいは新しい公共性について」(『ゲンロン12』)より|東浩紀
初出:2021年9月17日刊行『ゲンロン12』
『ゲンロン』の最新刊『ゲンロン12』が、本日、9月17日に刊行されます。
先日の冒頭部分先行公開に続き、東浩紀による巻頭論文の後半部分の一部を掲載いたします。現代における保守とリベラルの対立を脱構築するとはどういうことか。そんな対立を超えた新しい「公共性」の概念、新しい「家族」の概念の政治的可能性とはどのようなものなのか。全文は『ゲンロン12』をご覧ください。(編集部)
先日の冒頭部分先行公開に続き、東浩紀による巻頭論文の後半部分の一部を掲載いたします。現代における保守とリベラルの対立を脱構築するとはどういうことか。そんな対立を超えた新しい「公共性」の概念、新しい「家族」の概念の政治的可能性とはどのようなものなのか。全文は『ゲンロン12』をご覧ください。(編集部)
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ぼくはAパートで、公と私、国家と家庭、市民社会と家族、近代社会と部族社会、「開かれた社会」とその敵といった対立は、伝統的に多くの哲学者が前提としてきたにもかかわらず、ほんとうはそれほど一貫したものではないと記した。そのような問題提起をした背景には、じつはいまこの国でリベラル勢力が陥っている苦境に対する具体的な関心もある。
あらためて指摘するまでもなく、この20年ほど、日本ではいわゆる「リベラル」は影響力を失い続けている。とくにこの数年、すなわち、2016年のSEALDs解散と2017年の実質的な民進党解体以降、凋落はますます加速している。むろんいまでもリベラルの政治家はいる。言論人もいる。熱心な支持者も残っている。そんな彼らの声がSNSでバズり、政界を動かすこともある。けれどそのときも、彼らの声は個別事例についての参考意見になるだけで、社会変革につながる大きな立場の表明だとはみなされなくなっている。そもそもいまの日本のリベラルは、貧しいひとも働けないひとも差別されているひとも、原発事故の被災者もコロナ禍で苦しんでいるひとも、だれひとりまともに代表することができていない。そうした人々の多くは与党に投票している。
なぜそんなことになってしまったのか。個別の理由は無数に挙げることができよう。けれども、ここでぼくが政治学者でも社会学者でもジャーナリストでもない素人の立場から思うのは、まさにそれこそが、本論で検討してきた開放性と閉鎖性の逆説と関係するのではないかということである。
ぼくはAパートで、公と私、国家と家庭、市民社会と家族、近代社会と部族社会、「開かれた社会」とその敵といった対立は、伝統的に多くの哲学者が前提としてきたにもかかわらず、ほんとうはそれほど一貫したものではないと記した。そのような問題提起をした背景には、じつはいまこの国でリベラル勢力が陥っている苦境に対する具体的な関心もある。
あらためて指摘するまでもなく、この20年ほど、日本ではいわゆる「リベラル」は影響力を失い続けている。とくにこの数年、すなわち、2016年のSEALDs解散と2017年の実質的な民進党解体以降、凋落はますます加速している。むろんいまでもリベラルの政治家はいる。言論人もいる。熱心な支持者も残っている。そんな彼らの声がSNSでバズり、政界を動かすこともある。けれどそのときも、彼らの声は個別事例についての参考意見になるだけで、社会変革につながる大きな立場の表明だとはみなされなくなっている。そもそもいまの日本のリベラルは、貧しいひとも働けないひとも差別されているひとも、原発事故の被災者もコロナ禍で苦しんでいるひとも、だれひとりまともに代表することができていない。そうした人々の多くは与党に投票している。
なぜそんなことになってしまったのか。個別の理由は無数に挙げることができよう。けれども、ここでぼくが政治学者でも社会学者でもジャーナリストでもない素人の立場から思うのは、まさにそれこそが、本論で検討してきた開放性と閉鎖性の逆説と関係するのではないかということである。
そもそもリベラルとはなにか。とりわけ、保守と対立するものとしてのリベラルとはなにか。
政治学者の宇野重規は、ある著作で「あえていえば、仲間との関係を優先する[……]立場が保守と、普遍的な連帯を主張する[……]立場がリベラルと親和性をもつといえる」と記している[★1]。この規定は簡潔だがじつに有用である。
冷戦が終わって30年以上が経ついま、保守とリベラルの対立を、右翼と左翼、資本主義と共産主義といった大きなイデオロギー対立に重ねるのは無理がある。そもそも共産主義は破綻している。資本主義を単純に否定することはできない。それでも進歩や革命を信じれば保守と対立するということができるが、21世紀のいま、人類の進歩を素朴に信じ、革命でゼロから理想社会を構築すべきだと考えているリベラルはほとんどいないだろう。つまりいまの保守とリベラルは、世界観においても漸進的な方法論においてもあまり対立していない。ではどこに対立があるかといえば、それはもはや政策の優先順位にしか現れていないのだ。同じ公正を求めるとしても、リベラルがはじめから国籍や階級、ジェンダーなどを超えた普遍的な制度の実現を目指すのに対して、保守はまず「わたしたち」の公正の確保から始めようとする。だから対立する。
これは本論が親しんできた閉鎖性と開放性の対立に重ねれば、保守が閉ざされた社会から始めるのに対して、リベラルがつねに開かれた社会から始めようとするということを意味している。そしてリベラルは、いままさに、そのみずからの開放性への志向に足をとられているのではないか。
リベラルはいままで、「開かれていること」こそが、みずからの道徳的かつ理論的な優位を保証すると考えてきた。保守は自分たちの利益しか考えていない、他者を排除するからダメだというわけである。
けれどもその主張はいま、かつてのように素直には受け入れられなくなっている。リベラルはたしかに自分たちは開かれていると主張している。けれど現実には彼らは、そう主張しているだけの、きわめて均質な閉じた「リベラル村」をつくっている人々のように思われ始めている。
その視線の変化は日本のネットでは顕著だが、諸外国でも状況は変わらないようだ。最近ではノーベル賞受賞作家のカズオ・イシグロが似た指摘をしている。彼はあるインタビューで、ポピュリズムの台頭への危機感を表明しながらも、同時に知識人の無力も批判しつぎのように述べている。「俗に言うリベラルアーツ系、あるいはインテリ系の人々は、実はとても狭い世界の中で暮らしています。東京からパリ、ロサンゼルスなどを飛び回ってあたかも国際的に暮らしていると思いがちですが、実はどこへ行っても自分と似たような人たちとしか会っていないのです」[★2]。イシグロは「リベラルアーツ系」の代表格の作家であり、この述懐は短いながらも意味が大きい。二一世紀のリベラルは、国民国家の閉鎖性を批判し、グローバルな連帯を築きあげているようにみえながらも、結局は同じ「開かれた感覚」──ポストモダンでブルジョワでリベラルな感覚──を共有する人々とムラ社会をつくることしかできなくなっている。それは、プラトンやヘーゲルの開かれた社会の構想が、ポパーには閉じた部族の再来にしかみえなかったことと完全に同じ現象である。問題は繰り返されているのだ。
それゆえぼくは、ひとむかしまえの現代思想が好むいいかたをすれば、まずは閉ざされた社会と開かれた社会の対立そのものを「脱構築」したいと考えた。それはまた保守とリベラルの対立を脱構築するということでもある。
保守は家族から出発する。リベラルはそれを批判する。けれど、そんなリベラルも結局はべつの家族をつくることしかできない。だとすれば、最初から家族の概念の政治的可能性を開拓するほうがいいのではないか。
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家族の概念の政治的可能性とはなにか。ぼくは、まさにそれこそが、保守とリベラルの対立を超え、閉ざされてもいれば開かれてもいる新しい公共性の礎となるはずだと考えている。以下、そこへいたる理路を示し、議論の射程を『観光客の哲学』からさらに拡張して、本稿を閉じることにしたい。
そこであらためて参照したいのがリチャード・ローティである。(『ゲンロン12』に続く)
★1 宇野重規『保守主義とは何か』、中公新書、2016年、204頁。
★2 倉沢美左「カズオ・イシグロ語る『感情優先社会』の危うさ」、「東洋経済オンライン」、2021年3月4日。URL=https://toyokeizai.net/articles/-/414929?page=2
正義は、開かれていることにではなく、つねに訂正可能なことのなかにある。
『ゲンロン12』
飯田泰之/石戸諭/イ・アレックス・テックァン/井上智洋/海猫沢めろん/宇野重規/大森望/小川さやか/鹿島茂/楠木建/桜井英治/鈴木忠志/高山羽根子/竹内万里子/辻田真佐憲/榛見あきる/ウティット・ヘーマムーン/ユク・ホ/松山洋平/山森みか/柳美里/東浩紀/上田洋子/福冨渉東浩紀 編
¥2,860(税込)|A5判・並製|本体492頁|2021/9/17刊行
東浩紀
1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。