ひら☆マン戦記(1)ひらめき☆マンガ教室、開講前夜|さやわか

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ゲンロンα 2021年5月6日配信
 2017年からスタートし、現在第4期が開講中の「ゲンロン ひらめき☆マンガ教室」。歴代の受講生は、雑誌への読み切り掲載や連載、単行本刊行やマンガ賞の受賞など、数々の成果を上げています。 

 その華々しい活躍を可能にした「ひらめき」のメソッドが生まれた背景には、主任講師であるさやわかさんの、人知れぬ戦いがありました。「人付き合いが得意ではない」と自認するさやわかさんが、なぜ受講生に徹底的に向き合い、コミュニケーションをとり続けることに決めたのか。その信念を守り抜くための苦闘を描く「ひら☆マン戦記」、第1回をお送りします(全3回)。(編集部)



 僕は他人が苦手だ。コミュニケーションがあまり得意ではない。 

 そう言うと、みんな「またまた、ご冗談を」と笑う。なぜなら、僕はゲンロンカフェのトークイベントで明るく話したり、マスメディアに登場して顔をさらしたり、またシラスの自分のチャンネルでも、活発に配信を行っている。そんな奴が人見知りを自称するなど、みんなからすると片腹痛いというわけだ。 

 だが本当に、僕は、人付き合いが得意ではないのだ。人間はしんどい。人と話すと、早く何か言わなきゃと思って、オロオロしてしまう。話したら話したで、もしかして変なことを喋ってしまったのではないかと思って、後でものすごく落ち込む。落ち込み続ける。引きずる。めちゃくちゃ疲れる。 

 こんなことなら、家に引きこもって、ずっとゲームしてる方がいい。もちろん、オンラインゲームで誰かと対戦なんてしない。愚かなCPUたちの頭を、超望遠のスナイパーライフルでヘッドショットして全滅させるのが一番好きなのだ。

 


 僕は、そんな人間なのに、ひらめき☆マンガ教室の主任講師をやっている。受講生は、30人以上もいる。聴講生と合わせると50人以上にもなる。大変だ。人間、しんどいのに。 

 しかも僕は、ほんとにわざわざ、受講生に対して「いつでもどこでも、どんな手段でも質問や相談をしてくれ」と宣言して、常に彼らの話を聞く体勢を作っている。どうかしている。 

 実際、受講生からはほとんど毎日、メールやらTwitterのDMやらDiscordのチャットやらで相談を持ちかけられる。いま確認してみたら、昨年の9月に開講した4期以降に来たメールだけでも、364件あった。 

 そして僕はそれらに対して、過剰な丁寧さで返事をしている。メールの例で言うなら、1通につきだいたい1500字から2000字くらいは書いている。場合によっては、もっと長くも書く。僕がこれまで4期で書いたメールの字数だけでも、単著2、3冊ぶんにはなるだろう。 

 また、ひらめき☆マンガ教室では、毎回ゲスト講師として著名なマンガ家の皆さんをお招きしている。もちろん、彼らはマンガに秀でている。しかし、彼らは、必ずしもトークのプロではない。だから僕がトークのプロとして、彼らからうまくマンガ創作術を聞き出す。面白おかしい、トークイベントとしての魅力も付加してみたりする。 

 さらに、今は新型コロナウイルス禍によって活発ではないものの、講義後には飲み会が行われ、それも朝まで続くのがざらである。飲み会と言っても、たぶん普通にイメージされるようなものとはちょっと違っている。僕は酒を飲みつつも、受講生からの質問や相談に応じ、さらには作品を手渡されて意見を求められたりする。 

 僕だけではなく、もし飲み会に残ってくれた場合には、ゲスト講師も受講生に囲まれる。大井昌和さんや武富健治さん、少年画報社の須見武広さんなど、このマンガ教室に意義を認めてくださる先生方や編集者さんもたびたび講義を見学にいらっしゃるが、やはり彼らも、飲み会で受講生の質問攻めにあっている。 

 要するに、とにかく、ひらめき☆マンガ教室は、コミュニケーションが多い。 

 だが、それでも僕はこれをやる。以前にそう決めたのだ。以下、その話を書く。



 ひらめき☆マンガ教室の前身は、2009年に講談社で立ち上げた「ひらめき☆マンガ学校」だ。これは受講生を募って無料で講義を行い、その講義録を出版するという企画だった。もともとの発案者はマンガ家の西島大介さんで、僕は彼に、パートナーとして誘われた。 

 講義を二人の対談形式で行い、それを本にするというアイデアは、かつて菊地成孔さんと大谷能生さんが行った東京大学の授業にヒントを得たものだ。当初は「1学期」から「3学期」までの3学期制で、受講生に対して各学期に3回、全9回程度の講義を行う計画だった。単行本は、各学期をまとめて全3冊を出そう、ということに決まった。 

 西島さんは直感的な人で、毎回の講義でやりたい面白い仕掛けを色々と提案した。それらは主に、東浩紀さんが同じころに講談社でやっていた批評家育成イベント「ゼロアカ道場」の、リアリティショー的な面白さにインスパイアされたものだった。 

 ただ、その仕掛けをやるだけでは、教育と言うより単なる面白イベントになってしまう。そこで僕は、西島さんのやりたい仕掛けが組み込まれた講義全体の台本を書き、毎回のパワーポイントを作った。その台本通りに講義を行えば、受講生を巻き込んだ面白いリアリティショーを行いつつ、ちゃんと理論的なことが語れるわけだ。そして、話した内容はそのまま講義録として出版もできる。 

 後には全くやらなくなったが、当時この台本を作るには、西島さんと毎回打ち合わせをした。西島さんに講義内でやりたい仕掛けや言いたいキーワードを教えてもらい、それが筋の通った講義となるように、僕がプロットを作るのだ。その場で考えねばならないので、この打ち合わせは毎回2時間以上もかかった。しかもそれで終わりではなく、それを持ち帰ったら、統一的な理論に基づいた内容として、台本やパワーポイントを詳細に作り込まねばならない。 

 では、この「学校」の理論とはどんなものだったか。それはひと言で言えば、技術偏重のマンガ教育へのカウンターだった。

 たいていのマンガ塾や、大学のマンガ教育コース、あるいはマンガ教本などは、まずは技術力を育てようとする。絵の描き方やキャラの作り方、物語の組み立て型などを教えるのだ。 

 我々の「学校」でも毎回、課題を出して、それに沿った作品を描かせるような技術的な講義を行った。しかし一方で、絵を上手に描く方法などは全く教えなかった。代わりに、コマ割りや構図、読者が読む時のリズム感などは重視し、それらの効率的な訓練術を講義に盛り込んだ。そういう内容自体が、技術に偏重した従来的なマンガ教育へのカウンターとして考えたものだった。 

 そもそも、技術を学んだところで、マンガ家になれるとは限らない、というのが我々の考えだったのだ。マンガの技術と、マンガ家になる技術は、別物だ。日本のマンガ家の多くは商業作家であり、個人事業主なのだから、「職業としてのマンガ家」も教えるべきだろう。それを教えないからマンガ家という職業は神秘化されるし、一般に伝わるマンガの創作術も、ペンの使い方や物語の組み立てなど、小手先と言っていいレベルに留まっているのではないか。つまり商業作家たちがいかにして「面白いマンガ」「読ませるマンガ」「売れるマンガ」を描いているか、その技は、世に出ないのだ。 

 しかも今の時代、マンガは多様化し、マンガ家も多様化している。『ジャンプ』や『マガジン』の作家や作品を頂点とするような考え方は崩れ去った。いわばマンガのポストモダンである。その時代を生き抜くには、自分が多様な作家や作品の中から、何をモデルとし、誰になるかを意識することが必須である。 

 以上のような考え方によって、ひらめき☆マンガ学校は、受講生の自己プロデュース力を育てることを重んじた。自分はどんな作家になるのか。お金を儲けたいのか、マンガが描ければ趣味でもいいのか。どんな媒体で作品を描くのか。誰に向けて描くのか。有限なリソース(物理的・時間的・経済的・心身的な猶予)をどう配分して描くのか。それらを自己啓発的に見つめ直し、正しい戦略を採れば、もしかしたら絵の上手さや、物語の面白さが伴わなくとも、商業作家としてデビューできる可能性だってあるに違いない。 

 受講生にはとにかく積極性を求めた。もともとマンガ家になりたがるような人はコミュニケーションが苦手だったり、引きこもりがちな人も多い。だが職業としてのマンガ家とは、主に出版社からの受託事業なのだから、生きていくためには積極的に営業を行った方がいいだろう。そうすることで、他のライバルから抜きん出ることができる。持ち込みに行き、出版社のパーティーに潜り込み、仕事を「取りに行く」。この逆転の発想によるマンガ(家)理論を、我々は「ひらめき」と名付けた。 

 実は、僕が人間と接するのがしんどいにもかかわらず、それでもひらめき☆マンガ教室をやり続けるのは、まさにこの「ひらめき」の理論があるからだ。

 というのも、この「学校」を始めてすぐに、僕は自分がこの理論を体現しなければならないと気づいたのだ。僕は受講生にこの理論を「正しいこと」として教え、彼らを積極的な活動に追い立てている。にもかかわらず、自分は人見知りなので積極的な活動はしないと言っていては、おかしいだろう。この理論の正しさを証明するためにこそ、自分も積極的に活動しなければならない。 

 そう思った僕は、僕は2010年から、しゃにむに積極的に仕事するようになった。それまでもフリーライターとしてそれなりに評価されるものを書いていたが、さらに(渋々ながら)前向きに仕事相手と接し、あらゆる仕事を引き受けた。 

 その結果、僕は物書きの仕事が忙しくなって会社を辞めることになり、2012年には初の単著を出すことになった。 

 だから今の僕は、実は「ひらめき」の理論を自ら人体実験のように試した結果なのである。もちろん、実験は成功だったと言っていいだろう。 

 



 ただ、講談社はすぐにこの「学校」に見切りを付けた。数回行った講義はやたらと準備や運営に手間がかかった上に、2010年にようやく出した「1学期」の単行本が全く売れなかったのだ。 

 それでも僕と西島さんは自費でレンタル会議室などを借りて、「2学期」以降の講義も勝手に継続して行った。ほとんど言いがかりのように編集者を説得し、2012年にはその内容をまとめた2冊目の単行本を出せたが、以後、講談社は運営に全く関わらないようになり、編集者も会場に来なくなった。 

 この時点で、「学校」は僕と西島さんの個人的なプロジェクト、いわば二人のコンビ名のようなものになった。我々は2013年にゲンロンカフェに打診し、公開トークイベントとして「3学期」を行わせてもらい、講談社時代から引き継いだ16名の受講生を、ようやく全員「卒業」させた。 

 ところがこの「学校」コンビはそこで終わることなく、その後もいろんなところに出講し、登壇した。今なお大学でゲストに呼ばれたりもする。当初のリアリティショーのノリを維持して、とにかく行き当たりばったりに、無茶苦茶で手作り感のある、でも本当は役に立つ講義をやるのが、僕らのスタイルとなった。そしてもちろん、この「学校」こそが、やがてゲンロンでいま開講している「教室」のルーツにもなったのだ。 

 ……というのが定説ではある。だが、実はこの「学校」だけを「教室」のルーツとするのは、厳密には正しくない。たしかに「学校」の理論の大部分は現在にも受け継がれているが、「教室」にしかないものがあるからだ。その代表格が、ゲスト講師の存在だ。

「学校」は、僕と西島さんだけで行われ、どちらかというと「ひらめき」を重視して語る講義を行っていた。ところが「教室」にはゲスト講師が登壇し、どちらかというと(「学校」時代には極力減らしていた)技術論に近い内容を話す。 

 この体制はどこに起源があるのか? それは実は、2015年8月28日にゲンロンカフェで行った「描きたい人のための漫画術」というイベントにある。 

 このイベントの登壇者は僕のほか、マンガ家の今井哲也さんとふみふみこさんだった。西島氏はいない。これはもともと、今井さんがマンガの技術論についてイベントをやりたいと僕に話を持ちかけてくれたため実現したものだ。僕が司会となって、今井さんとふみさん、二人の作家のネームの描き方や作画の仕方を聞き出しつつ、それを比較しながらみんなでマンガについて語ろう、という内容だった。 

 このイベントを受けて、翌2016年の8月30日には、ふみさんと今井さんが生徒役となり、師走の翁さんからエロマンガの描き方を学ぶという第2弾を行った。これも、エロマンガ創作術のイベントがやりたいねという、今井さんたちとの会話から生まれたものだ。 

 この第2弾が、実にいい内容だった。師走の翁さんは素晴らしく理論的にエロマンガの極意を語り、参加者はイベント終了後もゲンロンカフェ内で車座になり、マンガについて熱く語り合っていた。 

 そしてこの講義の終盤、当時ゲンロンの代表だった東浩紀さんが見学に来られて、とても感心していた。単にマンガ家が深くものを考えて描いているというだけでなく、その内容が、創作者の側から立ち上がるマンガ論として高度なものになっていると、東さんはイベント終了後、僕に言ってくれた。 

 さらに東さんは、「このような内容を、スクールとしてやることはできると思うか?」と僕に聞いた。そして間髪入れず以下のように言った。 

「しかし君は、西島くんとも『ひらめき』をやっているわけだから、やるならば彼も一緒がいいと思う。西島くんはやりたいだろうか?」 

 そこで僕は家に帰ってから、考えた。実は、西島さんと東さんとは旧知の仲である。90年代からの付き合いで、僕には計り知れないほど親しいはずだ。そのよしみもあり、西島さんは以前から、ゲンロンと深く関わる仕事をやりたそうにしていた。まして、西島さんは直感やフィーリングを重視する人でもある。東さんからスクールに誘われたと言ったら、喜んで即座にOKしそうだ。しかし、それでいいのだろうか。 

 そこで僕は西島さんに電話して「東さんからこういう話をもらった」と説明しつつ、次のように述べた。 

「ただ、やるかどうかは、ちゃんと考えないといけないと思う。今までと違って、受講生からお金を取ってやるのだし、ゲンロンでスクールをやるって、相当大変なことだよ。軽はずみに引き受けて、後で面倒になって辞めたりもできない。それに、技術的な内容も増やす必要がある」 

 しかし、西島さんの返事は即答だった。 

「いいね! 時が来たね!」 

 それで僕は、とにかく西島さんにはやる意思があると、東さんに返事をした。こうして、ひらめき☆マンガ教室は、僕と西島さんの二人ともが主任講師となる形で開講したのだ。 

 だが、実はこのとき、僕は決定的な誤りを犯していた。それが、のち大きな波乱を呼ぶのである。

つづく

さやわか

1974年生まれ。ライター、物語評論家、マンガ原作者。〈ゲンロン ひらめき☆マンガ教室〉主任講師。著書に『僕たちのゲーム史』、『文学の読み方』(いずれも星海社新書)、『キャラの思考法』、『世界を物語として生きるために』(いずれも青土社)、『名探偵コナンと平成』(コア新書)、『ゲーム雑誌ガイドブック』(三才ブックス)など。編著に『マンガ家になる!』(ゲンロン、西島大介との共編)、マンガ原作に『キューティーミューティー』、『永守くんが一途すぎて困る。』(いずれもLINEコミックス、作画・ふみふみこ)がある。
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