ゲンロン新芸術校 第6期グループD展「『美術は教育できるのか?』に対する切り込みと抵抗 THE MOVIE」レポート――「召喚する空間」|中田文

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ゲンロンα 2021年3月30日 配信
 2020年12月5日(土)~12月13日(日)、ゲンロン新芸術校第6期グループDの展覧会『「美術は教育できるのか?」に対する切り込みと抵抗 THE MOVIE』が、ゲンロン五反田アトリエで開催された。出展作家として、赤西千夏、飯村崇史、甲T、星華、ながとさき、藤江愛、前田もにか、三好風太の8名が参加。CL(コレクティブリーダー)課程より中田文がキュレーターを担当した。展示指導は私塾パープルームを主宰する梅津庸一氏と第1期で金賞を受賞した弓指寛治氏、講評会のゲスト講師としてグループCの講師を担当した田中功起氏という顔ぶれだった。
 

展示会場の入口
 

 グループCに引き続き私がキュレーターを担当することになったグループD。9月から始まった4つのグループ展の中でも最後とあって、当初は時間がたっぷりある印象だったが、実際は数々の課題をこなしながら12月までモチベーションを保ち、いざ現実的な時期を迎えた時には意外と持ち時間が少なく追い詰められるという局面を体験した。今思えば、展示のための作家と講師の個人面談も、搬入のほぼ1カ月前に迫っていた。笑いが絶えない、テンションの高い面談だったのを鮮烈に覚えている。

 時間が足りない中では、躊躇せずにどんどん決断していく必要があるので、グループCの打ち上げ時に、グループAで作家だけでなくDMデザインも担当した宮野祐さんにグループDのDMデザインを依頼。ほっとしたのも束の間、展示タイトルを決めるという関門が待ち受けていた。叩き台の提案が却下され続けるうちに、自身も私塾の運営を通して美術教育の問題などに向き合い続けてきた梅津講師から驚きの本タイトル案『「美術は教育できるのか?」に対する切り込みと抵抗 THE MOVIE』が示された。一番のポイントは、「THE MOVIE」が付いている点で、しかもその映像を私が制作するという無茶振りである。だが、「THE MOVIE」を実際に制作し、展示会場の入口ど真ん中に設置した時に、初めて俯瞰的な目線が入ることに気づかされた。
 展示全体への個人的な印象を述べると、未知なる生命体の誕生を扱う作品や呪いが根底にある作品の存在が、同時多発的に生命を召喚する儀式を執り行っているようなダーク・ファンタジー感を与えていた。一方で、長く滞在する観客(特に子供)が多かったのは意外な現象だった。

 以下からは、各作家について取り上げていきたい。
 

飯村崇史《岐路》
 

 かつてスペインで見た風景の写真を引き伸ばして壁紙として再現し、壁紙周辺だけでなく会場のあちこちになめくじの模型を増殖させた飯村崇史の《岐路》。多才な飯村による手描きの漫画ステイトメントでも自身が向き合っている「岐路」について思いを馳せている。入口を入ってすぐ右手に広がる漆黒のゾーン、そのずっと奥に赤西千夏の作品が展示されたディープピンクの壁が見渡せる……この展示空間の構成は彼にとっての岐路がどれほど闇の中に在ったとしても、その先に明るく照らし出される日が訪れることを暗示しているかのように映った。
 

星華《Get☆LOVE!! GAME11-P.10/GET☆LOVE!! GAME9-P.35/Get☆LOVE!! GAME13-P.21》 撮影=星華
 
 入口近く左手の壁に展示された星華のアクリル絵画3点は、少年漫画的バトル描写と少女漫画的コマ割りや恋愛要素が組み合わさった漫画家、池山田剛の漫画ページを絵画で表現している。漫画はコマ割りやストーリー、アクションの要素があり、めくって読ませていくものだが、それを絵画上で実現するという意欲的な取り組みである。その躍動的なタッチをさらに活かすためには、未知のマテリアルとの格闘や直感の具現化など、さらなる可能性への試みが重要になってくるだろう。
 

ながとさき《作品名??》
 
 床に置かれた半円形ドームにはスライムが詰められ、そこへ向かって、編み物やキラキラ光る様々な物質がファンタジックに絡み合ったスライムなどが流れ込んでいる。まるで謎の生命体が突然出現したかのような、甘い悪夢とでも呼びたくなる作品。ながとに降りてくるひらめきは、そのまま自身の手で作品として生み出されていく。山手線をぐるぐるしながら編み物をするのが夢だという彼女と山手線に乗り、カメラを向けた。この生命体が生き続けるのだとしたら、この先の進化形はどんな姿かたちをしているのだろう。
 

前田もにか《延長計画》
 

 あたかもチューリップの精霊があちこちで俯瞰しているような画像や数多のドローイングなどが溢れ出したコラージュ的な眺めにラブリーな世界観を感じる。と同時に、宇宙人の侵略計画を垣間見たかのごとき胸騒ぎを覚えたのは私だけだろうか? まだ若い前田が、初デートでチューリップ園を訪れた時の思いを打ち明ける。「彼が綺麗なお花畑ばかり撮るのに対して、私はそんな彼ばかり撮る。私は女性という枠組みでしか見られていない。そんなかわいそうな自分を枯れた草花に重ねる」と。無数のチューリップたちは、彼女の切ない女心を背負って日夜パトロール中だ。
 

赤西千夏《Like@Angel》 撮影=赤西千夏
 
 自撮りによって内向する力を無限に拡張しようと企む赤西千夏による自画像、名古屋系のビジュアル系バンドのミュージシャンを描いた油彩画とパフォーマンス映像(筆者撮影)が、アトリエ一番奥のディープピンクの壁面に展示されている。ロマンティックに映る世界の根底で、蝶々の痙攣を思わせる刹那が透ける。赤西自身が微妙な境界線を超えてしまえば、きっとまた新たな別のステージが現れるだろう。「堂々と、したたかに、渡っていこうよ」と、撮影するカメラのこちら側で彼女に囁きかけていた。
 

藤江愛《記憶にある初めて描いた絵は保育園児の時で母の日用の母の絵。紫色が好きで紫のクレヨンで目鼻口を描き何かが違うと思って横に描き直した。そして初めて作った立体物はプッチンプリンの容器に砂場の砂を入れて型取りドングリや花びらでデコレーションした砂ケーキ》
 

 ものを作るとは? 表現とは? ……まだグループDが始まるか始まらないかの時期にZoomで対話した頃から彼女は悩み続けていた。100枚ドローイングの課題中に、自分が何をしたいのかわからなくなってしまったという藤江は、これまで「何」を作ってきたのか振り返ることにして、これまでのドローイングやメモ、映像、衣服などを展示。それらの生活感に溢れた断片は無造作に見えるからこそ暗号のように振舞っているのだが、そこに配置された時計から規則的な音が鳴り続けることで、すべてが記憶として繋がる効果を生み出している。彼女の率直な疑問と苦悩に答えは出たのだろうか? 直接聞いてみたら、「少し見えたような気がする」との返答だった。
 

三好風太《くだんのおや》
 

「犠牲者」と「被害者」の違いについて思考する三好風太のゾーンは、映像作品《くだんのおや》の人身牛面バージョンを大型モニター、牛身人面バージョンをブラウン管テレビで映し出し、着ぐるみの頭部などと共に舞台装置のように構成されている。天変地異や大きな厄災の前触れとして出現し、未来を予言するか災厄が収束するとすぐに死んでしまうとされる「くだん」は、自らの犠牲的な運命を平静に受け入れる。そんな「くだん」をめぐる「犠牲」「被害」「加害」について、「くだん」を襲って焼肉シーンで締め括るというあっけらかんとした映像に仕上げた三好。そもそも実物を撮るからリアリティがあるわけではないのだが、どうしたって「くだん」を撮るのは難しい。うっかりすると「くだん」のCMになってしまう。実は、この制作に入る前に「私なら『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999年公開)のようなモキュメンタリーにする」と話した記憶がある。いずれにせよ、呪いを拡散させる儀式によりアトリエ空間が重たくなったのも無理はない。
 

甲T《〇》
 

 台所を中心としたエリアで、複数のモニター装置やオブジェなどで展開されている作品。ある日突然ゴミの塊から生まれた「〇」という存在を育てていた甲T。実は、「甲T」という作家名が相模原障害者殺傷事件での被害者名の表記から着想されたことを知り、ひっそりとTwitter上にアップされていた「〇」の観察記録を、不穏な写真集でも覗くように興味深く見守って来た。しかし、不意に投稿は打ち切られ、あとは展示までにどんな変化が起きるのか待つしかない状況になったのも束の間、ゴミの塊であるはずの「〇」に魂が宿っていくような感覚を覚えた甲Tは、「〇」の存在を放棄してしまう。展示では失われた存在と向き合う作品として、台所周辺を中心に設置された……はずだった。ところが、講評会のプレゼン時、彼は黒い全身タイツ姿でレストルームから現れ、「〇」を蘇らせるパフォーマンスを行った。失われた「○」を召喚したのだ。この筋書きが用意されていたことに対して、講師陣は残念がっている様子だった。ただ、甲Tという作家の出自を考えると、この復活劇には伝えたい意味があったように思えてならない。
 審査の結果、藤江愛とながとさきが選抜成果展に進出することに決まり、他の作家たちには敗者復活のチャンスが残された。いずれにせよ、生命を息吹かせた儀式のその後を受けとめることになるのだろう。
 

 
 

 最後に、やはり今回のタイトルにもなった「美術は教育できるのか?」問題について触れておきたい。当然ながら、コミュニケーション・アプリを使用したオンラインでの交流を中心とした最近の傾向は、今後の検討材料になると思われる。ネット上でのやり取りの受けとめ方は、作品同様、個人の感受性によってまったく異なる。その良し悪しは長い目で見ないとわからないかもしれない。難しいテーマではあったが、新芸術校でしか切り込めない教育があるのは確かであり、「THE MOVIE」の俯瞰視線も加わって、抵抗と受容の狭間で学びを深められる貴重な展示だったと思っている。
撮影=株式会社ゲンロン
 

中田文

映画作家&アロマ研究家。
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