「傷付く」ための倫理――磯野真穂×小松理虔×東畑開人「コントロールの倫理とケアの倫理」イベントレポート
「傷付くこと」を避ける社会
議論の焦点になったのは「傷付くこと」について。東畑は臨床心理士として、日々トラウマを抱えた人びとと接している。その中で患者のトラウマに触れることは多々あるが、患者からすると自分のプライベートの中に侵入され、傷付けられる行為であり、不快な経験になりうる。しかしトラウマの克服を目指す治療の過程では、この経験は避けられない。
登壇者3名はともに、「傷付くこと」は人間が生きていく上で必要なものだという。小松は東日本大震災を例に挙げ、それが大きなトラウマであるがゆえに、それを語る時に被災者を傷付けることが恐れられ、震災についての語りがつねに腫れ物を触るように、表面上でしか行われていないのではないかと危惧している。磯野もこれに同意し、いまの日本では社会全体が傷付くこと、傷付けることへの恐怖感を抱いており、そこで生じるかもしれないリスクを徹底的に排除していると述べた。傷付くことのリスクが忌避される一方で、すべてを個人の思い通りにコントロールすることが良しとされている。東畑もまた、現代の人びとが、リスクをなるべく最小限にするためのリスク・マネージメントを過度に重視していると分析した。だが、果たしてそれでよいのか。
傷付けることと信頼
もちろん、傷付けることは、相手にとって耐え難い不快を呼び起こしてしまうことにもなりかねない。正しく傷付ける-傷付けられる関係を結ぶためには、相互の信頼が欠かせない。その前提で東畑は、信頼を築くには相応の時間が必要だと指摘した。小松もこれに同意し、浜松にある障害者支援のNPO法人「クリエイティブサポートレッツ」の活動を紹介した。レッツは障害者が社会と関わるための支援を行っているが、彼らが実社会に出ることはリスクに満ちている。時には障害者自身、そしてその周りの人びとが傷付く結果を生んでしまうかもしれない。それでもなお、レッツでは障害者と社会の溝を埋めるために、障害者を社会に開く活動を続けている。それを可能にしているのはレッツの濃密な人間関係であり、そこで築かれている信頼関係なのだという(詳しくは小松の新著『ただ、そこにいる人たち』を参照)。
磯野は、新型コロナウイルスに対するワクチンについての議論も、信頼の問題と関わっていると指摘する。ワクチンの効果は、目に見えないのではっきりとはわからない。ワクチンを使うかどうかは、ワクチンの効果や、それを提供する製薬会社、および政府への信頼にかかっている。現在のように信頼が薄くなっている社会では、ワクチンへの信頼も失われかねない。だとすれば、コロナ禍の混迷はさらに深くなるだろう。現代において信頼をどのように作るかは、あらゆる分野で大きな課題となっている。
「知らんがな」精神で生きる
リスク・マネージメントを突き詰めると、そもそも人は人と出会わないほうがよいということになってしまう。そんな中で、我々はどのようにリスクと付き合っていけばよいのか。小松は、いわきの方言である「しゃあんめ」(しょうがない)という言葉を取り上げ、いかに人間が安全な世界を求めていても、地震や津波のようなリスクがゼロになることはなく、そうした不確定な要素を受け入れることが必要だと述べた。「しゃあんめ」は、その諦念を端的に表現した言葉だ。そして人と関わる中で傷付くことがあっても、それを受け入れ、人との関わりを続けていくことが必要なのではないかという。その蓄積の中で徐々に、人との間の信頼も育まれていく。
磯野自身は、人生が思い通りにならないことを受け入れ、未来のことは考えすぎてもわからないという「知らんがな」のスタンスで生きているという。磯野は今年3月に大学を離れ、現在フリーとして活動しているが、まさにこれはリスクを大きくする行為に見える。しかし磯野は、いつ死ぬかわからない人生の中で、リスク・マネージメントだけを考えていても仕方がないのではないかと思い、決断したという。先の人生がどのようになるか、そんなことは「知らんがな」なのだ。
トークは、まさに不確実性に身を委ねるように、話題を行きつ戻りつしながら進んでいった。その中で「当事者とはなにか」や「書くという経験」、各人の今後の執筆予定にまで、話題は幅広く展開した。現代はコロナ禍のために、人との関わりが以前にもまして避けられつつある。そんななか、人と関わることの意味合いやその重要性を考えさせる濃密なイベントとなった。興味のある方は、ぜひアーカイブ動画を見て欲しい。(谷頭和希)
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