VR時代のポルノとセックス──二村ヒトシ×濱野ちひろ「二村ヒトシが考える、これからのポルノ」イベントレポート
ゲンロンα 2020年10月27日配信
VR技術によって新しいポルノ体験が生まれている。伝説的なAV監督、二村ヒトシは現代のポルノをどう考えているのか。聞き手を務めるのは『聖なるズー』の著者、濱野ちひろ。動物を性愛のパートナーにするひとびとについて濱野が語った2月のイベントを踏まえて、トークの「受け」と「攻め」を交代したかたちになる本イベント。後半からはVR作品を中心に活躍するAV監督、秋山メメ(ソフト・オン・デマンド)も登壇し、ポルノについての議論はますますの広がりを見せた。10月16日に行われた配信イベントの模様をレポートする。(ゲンロン編集部)
写真、映画、ビデオ――ポルノは新しい視覚メディアといち早く結びついてきた。いま発展途中にあるのがVR技術を使ったポルノだ。
VRならば、じっさいにセックスをしているかのような体験ができる。すると、いままでのポルノがとても奇妙なものに思えてくる。三次元に生きるわたしたちが、なぜ二次元の平面を見て興奮できていたのだろう?
イベントの前半では、二村のライフヒストリーを濱野が聞きだしていった。
少年時代、二村がエロと出会ったのはマンガだった。吾妻ひでおの『やけくそ天使』や永井豪の『イヤハヤ南友』といった作品は、ギャグマンガなのにエロかった。そのとき二村少年は「ひとは笑いながら勃起できる」ことに気づいた。その感覚は、AV監督の仕事にも活かされている。エロの感覚は、ほんらい様々な感情とごちゃまぜに結びついているものなのかもしれない。
80年代には、たんにエロを供給するだけでなく、ひとを考えこませるようなAVも多かった。これは当時、AV消費の中心地が「レンタルビデオ屋」だったことが関係していると二村はいう。ビデオ屋でまとめてレンタルされる作品に「使えない」ものがあっても、ユーザーはそう困らない。実用性から離れた作品は、レンタルビデオの仕組みが支えていた。
90年代になると、AVは個人が直接買うものになった。どの作品を買うかじっくり選ぶようになると、実用性が重視されるようになっていく。二村がAV監督になったのは、ちょうどそんな時代だった。自分だけでなく、たくさんの監督が様々な工夫をこらして「ユーザビリティ」を向上させていったと二村は振り返る。
最大多数の最大射精――濱野は、現代のポルノのあり方をそう言いあらわした。字面が示しているとおり、ひじょうに男性中心主義的な理念だ。
しかしひとたびAVを離れれば、実際にはすべての男性が健常に射精できるわけでもない。セックスと射精は切り離せないという思い込みから解放されたほうが、わたしたちは楽になれるのではないか。濱野はそう問いかけた。ポルノを基準にした性の規範は、男性自身に対する呪縛にもなりうる。
とはいえ、AVが射精を重視するのには理由がある。二村は、AVにとっての射精は英文におけるピリオドのようなものだという。それがないと作品を終えることができない記号。これを使わずに作品を閉じるには、いままでのAVとは違う文法が必要になる。
射精の神話から解放されたとき、ポルノはどのように物語を終えるようになるのだろうか。
イベント後半からは、VRのアダルト作品を多く手がける秋山メメ監督(ソフト・オン・デマンド)が議論に加わった。
秋山も射精をゴールとするAVのあり方には疑問を感じてきたといい、濱野に共感を示した。それに対する抵抗のひとつが、「口元」や「足の裏」といった特定の部位をズームアップするようなフェティッシュな作品。モザイクがいらないのも強みで、VR技術を活かした新しい作品のなかには、爆発的な人気を獲得するものも出てきた。
秋山はVRの特徴として、「空間全体を撮影すること」を挙げた。従来のAVでは、撮影したカットのつなぎ合わせでひとつの作品がつくられていた。細切れにされフレームで区切られた映像は、その外側にあるものへの想像力をかきたて、映像の世界に人々を没頭させる機能があった。そのぶんVRには、想像力にたよらない工夫が必要とされるのだと秋山は語った。
VR技術を使えば、仮想空間でセックスすることもできる。濱野が可能性を見いだしたのは、アバターによって役割を自由に変えられるセックスだ。ときによって男性になったり女性になったり、動物になってもいい。そうすれば、自分の身体に対する嫌悪感を持っているひとも、セックスをポジティブに楽しむことができる。
もしかすると現実世界のセックスこそが、じきに変態的なものと見なされるようになるかもしれないーーポルノの最先端を走ってきた二村は、いま、そんな未来をイメージしているという。
VRポルノが十分に普及したとき、わたしたちの性に対する感覚はどう変わっていくのだろうか。いまはまだ過渡期にある。(國安孝具)
ゲンロン中継チャンネルでは、番組をタイムシフト公開中(10月23日まで)。都度課金1000円で、期間中は何度でも視聴できます。
VRならば、じっさいにセックスをしているかのような体験ができる。すると、いままでのポルノがとても奇妙なものに思えてくる。三次元に生きるわたしたちが、なぜ二次元の平面を見て興奮できていたのだろう?
笑いとエロ
イベントの前半では、二村のライフヒストリーを濱野が聞きだしていった。
少年時代、二村がエロと出会ったのはマンガだった。吾妻ひでおの『やけくそ天使』や永井豪の『イヤハヤ南友』といった作品は、ギャグマンガなのにエロかった。そのとき二村少年は「ひとは笑いながら勃起できる」ことに気づいた。その感覚は、AV監督の仕事にも活かされている。エロの感覚は、ほんらい様々な感情とごちゃまぜに結びついているものなのかもしれない。
ユーザビリティの向上
80年代には、たんにエロを供給するだけでなく、ひとを考えこませるようなAVも多かった。これは当時、AV消費の中心地が「レンタルビデオ屋」だったことが関係していると二村はいう。ビデオ屋でまとめてレンタルされる作品に「使えない」ものがあっても、ユーザーはそう困らない。実用性から離れた作品は、レンタルビデオの仕組みが支えていた。
90年代になると、AVは個人が直接買うものになった。どの作品を買うかじっくり選ぶようになると、実用性が重視されるようになっていく。二村がAV監督になったのは、ちょうどそんな時代だった。自分だけでなく、たくさんの監督が様々な工夫をこらして「ユーザビリティ」を向上させていったと二村は振り返る。
ポルノの功利主義と射精の神話
最大多数の最大射精――濱野は、現代のポルノのあり方をそう言いあらわした。字面が示しているとおり、ひじょうに男性中心主義的な理念だ。
しかしひとたびAVを離れれば、実際にはすべての男性が健常に射精できるわけでもない。セックスと射精は切り離せないという思い込みから解放されたほうが、わたしたちは楽になれるのではないか。濱野はそう問いかけた。ポルノを基準にした性の規範は、男性自身に対する呪縛にもなりうる。
とはいえ、AVが射精を重視するのには理由がある。二村は、AVにとっての射精は英文におけるピリオドのようなものだという。それがないと作品を終えることができない記号。これを使わずに作品を閉じるには、いままでのAVとは違う文法が必要になる。
射精の神話から解放されたとき、ポルノはどのように物語を終えるようになるのだろうか。
VRとフェチの可能性
イベント後半からは、VRのアダルト作品を多く手がける秋山メメ監督(ソフト・オン・デマンド)が議論に加わった。
秋山も射精をゴールとするAVのあり方には疑問を感じてきたといい、濱野に共感を示した。それに対する抵抗のひとつが、「口元」や「足の裏」といった特定の部位をズームアップするようなフェティッシュな作品。モザイクがいらないのも強みで、VR技術を活かした新しい作品のなかには、爆発的な人気を獲得するものも出てきた。
ポルノの脱フレームと個人化
秋山はVRの特徴として、「空間全体を撮影すること」を挙げた。従来のAVでは、撮影したカットのつなぎ合わせでひとつの作品がつくられていた。細切れにされフレームで区切られた映像は、その外側にあるものへの想像力をかきたて、映像の世界に人々を没頭させる機能があった。そのぶんVRには、想像力にたよらない工夫が必要とされるのだと秋山は語った。
VR技術を使えば、仮想空間でセックスすることもできる。濱野が可能性を見いだしたのは、アバターによって役割を自由に変えられるセックスだ。ときによって男性になったり女性になったり、動物になってもいい。そうすれば、自分の身体に対する嫌悪感を持っているひとも、セックスをポジティブに楽しむことができる。
もしかすると現実世界のセックスこそが、じきに変態的なものと見なされるようになるかもしれないーーポルノの最先端を走ってきた二村は、いま、そんな未来をイメージしているという。
VRポルノが十分に普及したとき、わたしたちの性に対する感覚はどう変わっていくのだろうか。いまはまだ過渡期にある。(國安孝具)
ゲンロン中継チャンネルでは、番組をタイムシフト公開中(10月23日まで)。都度課金1000円で、期間中は何度でも視聴できます。