格調高き哲学とデリダの夜──鵜飼哲×宮﨑裕助(+東浩紀)「後期デリダ、『生き延び』の哲学」イベントレポート
ゲンロンα 2020年8月5日配信
生とは「生き延び」である
イベントは、宮﨑によるプレゼンから始まった。デリダのプロフィールや活動歴と『ジャック・デリダ――死後の生を与える』(以下、宮﨑本と表記)の論点を紹介する内容である。 宮﨑によると、デリダのキャリアはおおまかに5つの時期(初期・前期・中期・後期・晩期)に分かれる。そのなかで宮﨑本が焦点を当てたのが、「来たるべき民主主義と生き延びの肯定」が中心的なテーマとなる「晩期」である。1930年生まれで2004年に没したデリダが病と闘いつつ活動した晩年、2000年代に入ってからの時期にあたる。 では、「生き延び survie」とはなにか。宮﨑は以下のように解説する。 デリダは、最晩年のインタビュー『生きることを学ぶ、終に』で、「生とは、生き延びです」と語った。これは通常の意味での、たとえば「大きな事故を乗り越えて生き残る」といった事態を指す言葉ではない。デリダによると、生そのものが「生き延び」である。それは、「死の後に生きること」でもあり、生がつねに死の契機をはらんでいる(「私」は、私とつねに食い違う存在である)ということでもある。 宮﨑によると、ここでの「死後の生」は「来世」のような宗教的な意味ではなく「この生をどう生きるか」の問題であり、ハイデガーの「死に臨む存在」への批判的な応答としても解釈できる。さらに現代の問題に引きつけると、医療技術の進歩で生まれた「死ねない時代」への問題意識(村上陽一郎)、その事態を楽観視する「ホモ・デウス」の議論(ノア・ハラリ)、さらには近代の「『生かされる』生政治」の概念(フーコー)とも関連させて読めるという。
ドラッグの時代と現代思想
宮﨑のプレゼンが終わると、鵜飼による宮﨑本への応答が始まった。交わされた議論は多岐にわたりとてもすべてを紹介しきれないが、いくつか印象的な論点をピックアップしてみよう。 まず、デリダによるドゥルーズへの応答。宮﨑本の第7章で取り上げられた、晩期デリダの講義録『獣と主権者』における動物論の問題だ。 鵜飼はまず、「デリダ vs.ドゥルーズ」のような単純な構図ではなく、ド・マンやラカンを射程に入れて議論を追うことが重要だと指摘した。さらに、晩期のデリダが動物論として読んだドゥルーズの「愚かさ bêtise」の概念(『差異と反復』)を、フーコーがかつてドラッグの経験と結びつけて解釈していたことにも注意を促す(1970年のドゥルーズ論「劇場としての哲学」)。ドゥルーズの動物論そのものがもっていたそのような背景を考慮し、議論を再構築することでより多くのものが見えてくるのではないかと言う。 この指摘は、「政治の季節」のあとの1970年代にデリダを読み始めたという鵜飼と、ニューアカの熱が残る1990年代に現代思想に触れたという宮﨑との、世代の違いを浮き彫りにするものでもあった。 ドゥルーズとデリダの問題については、番組の終わり近くの質問コーナーで、視聴していた國分功一郎からも質問が寄せられた。デリダのドゥルーズ評価をどう捉えるか、鵜飼、宮﨑のふたりと終盤に登壇した東浩紀がどう答えたのか、関心のある方はぜひ動画でチェックしていただきたい。
デリダならコロナ禍をどう見たか
鵜飼の応答でもうひとつ印象深かったのが、「労働」についてのものである。宮﨑本の第4章で、デリダの小著『条件なき大学』の実質的な主題として議論される問題だ。 現代社会における「労働のヴァーチャル化」と、それに対抗するデリダの「プロフェッション profession」の概念(「職業」でもあり、ある種の公的な言語行為でもある)を扱うこの章の議論を、鵜飼は高く評価する。そのうえで、鵜飼はこれをコロナ禍下の労働問題と結びつけて論じた。 まずはテレワークの問題。自宅と職場が同一化して新しい「家内工業」が生まれてしまった現在の労働空間は、私的なものと公的なものの区別の不安定さを問題にしてきたデリダ的な状況そのものだ。 次に挙げられたのがエッセンシャル・ワーカーの問題。デリダが従来の労働運動を刷新する新しい発話のかたちを「プロフェッション」という表現に託していたとするなら、現代に生きる我々は、この問題提起を「エッセンシャル・ワーカーの声をどのように組織化し公的なものとするか」という問いに変形するべきだ、と鵜飼は言う。 コロナ禍と公的/私的なものの問題をめぐっては、番組終盤で東がふたたび鋭く掘り下げてふたりに問いを投げかける場面もあった。
書くことと生きること
対話を聴講していた東が登壇することになったのは、東のデリダ論『存在論的、郵便的』に話題が及んだからである。 『存在論的、郵便的』で中心的に論じられた中期デリダの著作『絵葉書』には、哲学者のシルヴィアンヌ・アガサンスキーに宛てたラヴレターを含むとされる、書簡の断片集が収められている。デリダとアガサンスキーの関係は、宮﨑本の終章にあたる家族論でも触れられている。 鵜飼は、宮﨑本における結婚や家族の議論に応答するかたちで「歓待」について語り、そのなかでデリダの妻・マルグリットや彼らのよき友人でもあったジャン゠リュック・ナンシーと鵜飼自身の知られざるやり取りを披露した。 東はデリダに惹かれた理由として、『絵葉書』に示された「手紙の断片のようなかたちでしか自分について書けない」というスタイルを挙げた。そしてそれは「生き延び」の問題とも重なるはずだという。『存在論的、郵便的』で『絵葉書』を読んだとき、すでにアガサンスキーの存在を知っていたことも明かした。 宮﨑は東の議論を受けて、デリダの著作は「生きることそのものをテクスト化する」という真摯な試みの結果ではないかと語った。そこに見られるのは、「『私によって発された言葉』と『私』が戦争状態にある」という宮﨑本で論じられた構造そのものであり、そこで問われているのこそが「生き延び」の問題である。 この記事で紹介した論点は全体のほんの一部である。豊かな議論の全容はぜひ動画でお楽しみいただきたい。(住本賢一) こちらの番組はVimeoにて公開中。レンタル(7日間)600円、購入(無期限)1200円でご視聴いただけます。 URL=https://vimeo.com/ondemand/genron20200731