斎藤環(聞き手=吉川浩満)「コロナ禍はこころと社会をどう変えたのか――倫理・トラウマ・時間」イベントレポート
ゲンロンα 2020年6月9日配信
書き換わる身体
斎藤は、noteで発表した「コロナ・ピューリタニズムの懸念」で、疫病は倫理観を書き換え、COVID-19は親密さの定義を書き換える、と記している。COVID-19によって、体液(エアロゾル)を交換することこそが、新たな「親密さ」と再定義されてしまったのだ。 斎藤はロンドン大学教授Graham Medleyによる「あなた自身がすでに感染している前提でふるまいなさい」という提言を引用し、この発言の裏にはキリスト教の原罪意識があるのではないかという。このコロナ・パンデミックでインストールされた新たな倫理観は、身体レベルで根を下ろしてしまうかもしれない。これをかつての清教徒主義になぞらえたのが、「コロナ・ピューリタニズム」の概念だ。
適切な外傷化
続いて斎藤は、コロナ・パンデミックは社会的なトラウマになりにくいのではないかと指摘する。実際に過去の文芸作品を見ると、大量死を起こしたはずのスペイン風邪への言及は多くない。 斎藤は、トラウマの語りの構造を、噴火後に周囲に土地ができる環状島の構造にたとえている。爆心地に位置する被災の当事者たちは、その傷の深さゆえ、語る言葉を失くす。しかし、その周辺の人々は、かえって比較的饒舌に語る。社会で災害を語り継ぐためには、この構造こそが重要なのだという。 だが、すべての人が当事者のコロナ・パンデミックには爆心地がない。社会のみなが語る言葉を喪失してしまうと、自然と忘れ去られていくだろう。目に見えるかたちでは、不可逆的な変化も残りづらい。 COVID-19をいかに記憶していけばいいのか。斎藤は、社会に適切にトラウマを残すことが必要だという。デジタルな遺構で傷跡を残すのもひとつの手だ。たとえば、WHOが終息を宣言した日を記念日にするのは有効かもしれない。祭祀化し、人々が終わりを認識することで、COVID-19は初めて社会に記憶されるのではないだろうか。
クロノス時間とカイロス時間
斎藤によれば、COVID-19はわれわれの時間感覚すらをも変えてしまった。時間には2種類ある。客観的なクロノス時間と、主観的なカイロス時間だ。いま、後者の多様性が急激に社会から減少している。週末のイベントや旅行がなくなり、個々人のカイロス時間は失われてしまった。「不要不急」の抑圧が時間感覚の平板化をもたらし、人々は感染者数の増減を見ながら、極力シンプルな生活を行うようになった。単純なコロナ時計に同期してしまったのだ。 しかし、それは人間にとって幸せなのだろうか? 斎藤、吉川ともに、カイロス時間を取り戻すために、いままで棚上げしていたことに取り組んだり、読書の時間を持つなど、内向きの「不要不急」に取り組むことが必要だと口を揃えた。
臨場性の再検討
第二部では、斎藤の最新note記事「人は人と出会うべきなのか」が話題に上がった。斎藤は目の前に人がいることを「臨場性」と呼ぶ。実際に集まると話が早く進むのは、そこに臨場性の暴力があるからだ。ここでいう暴力とは、他者への力の行使一般のことを指す。人を目の前にしたときの圧や緊張感も含まれる。斎藤は優しさすらも暴力であり、どんなに平和的な行いですら、そこには暴力性が介在するという。 生活から臨場性が失われたいま、わたしたちは自らの欲望すらも保てなくなっている。なぜならば、欲望は他者によって喚起されるものだからだ。社会を駆動させるためには、欲望は欠かせない。暴力なしに、人間には意欲が生まれないのだ。