映像はリアルな空間とどう関わるか──大山顕+佐藤大+東浩紀「人間は見ることを取り戻せるのか」イベントレポート(下)|ゲンロン編集部
ゲンロンα 2020年6月1日配信
コロナウイルスの肖像と「敵認定」
大山によるプレゼンではまず、前回のイベントでも話題になった「コロナウイルスの肖像写真」が再度取り上げられた。「コロナウイルスのイメージ画像はスマホで撮ったポートレートの顔に似ている」というのが前回からの大山の主張だが、この画像をつくったイラストレーターへのインタビュー記事がその後ネットで公開され、その内容が非常に興味深いものだったというのだ。 まず、記事内ではコロナウイルスのイラスト化について「この手法の主眼は複雑かつ抽象的なものに形を与えること。私たちはウイルスに『顔』を与えたのだと言える」と語られており、これは人間にとって「顔」がどのようなものであるかを端的に言い当てていると大山はいう。さらにこのインタビューのなかで、コロナウイルスの色について「(事態の重大さを伝えるために)あまり明るい雰囲気にはしたくなかったが、かといって恐怖感を与えることも望ましくない」と語られている部分にも大山は注目し、「コロナウイルスの肖像写真」は指名手配写真のようなものなのではないかと指摘した。 さらに大山はこの問題について、いつもなら「コロナたん」のようなキャラ化がただちに行われそうなものなのに、それがあまりなされていないということにも今回のコロナ禍をめぐる空気がよく表れているという。大山はそこから「しかしウイルスはほんとうに敵なのだろうか」と問うた。 東はこの大山の問いに対して、たとえば震災時の放射能の問題と今回のコロナ禍の違いのひとつとして、この「敵認定」の問題を挙げることができるだろうと応える。ウイルスは本来、放射能などと同じく能動性や主体性を持たないものなのに、人々はあたかもウイルスに能動性があるかのように捉えている。そして、そのことが世界中で見られる「ウイルスとの戦争」や「ウイルスに打ち勝つ」といったメタファーにつながっているというのだ。
ライブ・コンサートと映像の関係、そして新たな建築史へ
大山はプレゼンの最後に、「『新写真論』と関連して最近おもしろいなと思ったこと」として、ライブ・コンサートと映像にまつわる問題を取り上げた。 まず大山が指摘するのが、コンサートの盛り上がりを表象するものが「スマホでステージを撮影している観客」や「舞台から観客を背に自撮りするアーティスト」になっている、という事態である。このことは、つい最近まで禁止されていたステージの撮影という行為がいつの間にか推奨されるようになっている点で興味深いということに加え、「舞台と観客は向かい合って存在する」という古典的な舞台観をゆるがしかねないものでもあると大山はいう。 さらに大山が重要な問題として指摘したのは、今日のコンサートは「巨大なディスプレイに映った映像を見ること」である、ということだ。これは第1部で話題となった「四人称視点」と物語のあり方の問題とも密接に結びつくものであると大山はいう。 大山はこれに関連して、現代的な巨大ステージの形式を作りあげたステージ・デザイナーであるマーク・フィッシャーの重要性も指摘した。彼は前衛建築家集団「アーキグラム」とも関わりがあった人物であり、彼らが提唱した「ウォーキング・シティ」の実装を目指して「仮設」の都市・建築としてのコンサート会場設計に向かったという。さらにこのことは、ショッピングモールの設計で有名な建築家ジョン・ジャーディが1984年のロサンゼルス五輪で仮設都市を建設したことともつながる可能性があり、大山は現在そこに建築史を捉え直すための新しい線を探っているということだ。『新写真論』を刊行した大山の今後の展開からもますます目が離せない。
大盛り上がりを見せた今回のイベントにあって、残念ながら本レポートで触れることのできなかった話題も非常に多岐にわたる。軽く挙げるだけでも、日本語と英語の言文一致のあり方の違いとその帰結、ZOOM大喜利におけるタイムラグの問題、地球全体の通信をつなぐ海底ケーブルをめぐるエピソード、西洋と日本の主権観や顔認識のあり方の違い、アニメと社会をつなぎ続けてきた佐藤大という存在の重要性とアニメ史の問題など、いかにトークが縦横無尽に展開したかがおわかりいただけるはずである。議論の本筋と脱線が絡み合って新たな視野を切り開く、ゲンロンカフェの真髄を見せつけるかのようなイベントの全容は、ぜひ動画でお楽しみいただきたい。(住本賢一)