福島第一原発観光地化計画の哲学(1) 私はなぜ丹下健三に学ぶのか(前篇)|藤村龍至+東浩紀

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初出:2014年2月15日刊行『福島第一原発観光地化計画通信 vol.7』

東浩紀 このインタビューは、「福島第一原発観光地化計画の哲学」と題し、研究会委員のみなさんに、この計画に参加した動機や、発表した計画の裏側にある意図、今後の展望について、あらためてお話しいただこうという企画の第1弾です。話を掘り下げるためにも、今日はまず、藤村さんが建築家を志した動機からうかがいたいと思います。

藤村龍至 丹下健三の影響もあり、大学に入る前までは、建築よりも都市計画を志していました。しかし1996年に大学に入った頃には、すでに建築家は国家や都市を構想するのではなく、狭小住宅の時代となっており、壮大な都市計画の時代は終わり、ひらがなのまちづくりの時代だということになっていました。

 藤村さんは1976年生まれです。大学に入った1990年代中盤には、すでに丹下の影響力もかなり低下していたと思うのですが、なぜ彼を意識されていたのでしょう。

藤村 1991年には都庁移転もあり、まだまだ存在感がありました。それに加えて、私が小中学生を過ごした1980年代には、ポートピア81(神戸ポートアイランド博覧会)やつくば '85(国際科学技術博覧会)などの博覧会が盛んで、ニュータウンの建設も続いていた。なにもないところに街をつくるような大規模開発に憧れてそういう仕事をしたいと思っていたんです。

なぜ福島か


 ぼくと藤村さんが親しくなったきっかけは、『筑波批評』という同人誌に掲載された記事でした。藤村さんはぼくの情報理論における仕事を参照しながら、匿名化した大衆が暮らす都市のアーキテクチャを考えるという観点で活動されていて、これは非常に興味深いものでした。そこで『思想地図β』やその前身である『思想地図』で寄稿をお願いすることになった。観光地化計画もその流れのなかにあります。

 あらためて、藤村さんにとって東日本大震災は、どういう重みを持った体験でしたか。

藤村 建築家としてより強い衝撃を受けたのは、1995年の阪神・淡路大震災の方です。安全神話が崩壊し、強い喪失感が広がった初めての経験だったからです。東日本大震災の後まもなくは、父の言葉をよく思い出していました。父は神戸の出身で、17歳で広島で被爆も経験しているため、子どもの頃から戦争経験をよく聴かされてていました。震災直後に陸前高田を訪れた際、父が言っていた広島の焼け跡の光景というのはこういうものだったのだろうかと、初めて経験を共有できたような気がしました。

 いずれにせよ、最初は原発事故よりも津波の被害に関心がありました。転機になったのは、東さんから誘われた被災地取材ですね。

 2011年の4月に、浪江町や陸前高田市を回りました。

藤村 出発前から「『思想地図β2』で復興計画を発表して欲しい」という目的は共有していたものの、どの地域をどう復興していきたいのかはあまり明確ではありませんでした。しかし、福島の沿岸部を歩き、詩人の和合亮一さんにお会いしているうちに、東さんが「福島について考えるべきなんじゃないか」とおっしゃったんですよね。じつのところ、私は陸前高田市など岩手県の被災地域の復興計画について提案しようかと思っていたのですが、そこで難しい課題を投げかけられてしまいました。

 建築家にとっては、阪神・淡路大震災がより巨大なインパクトで、3.11でもまず津波の被害により関心が向いたというのは興味深い話ですね。確かに、阪神・淡路大震災のときには、建築家たちが敏感に反応し、さまざまな提案や発言があったと記憶しています。それに比較すると東日本大震災に対する建築家たちの反応はいささか鈍い。なぜでしょう。

藤村 建築家の場合、形のあるものが壊れている状態に対してはスキルが活かせるのですが、福島については見えない問題があまりにも多く、想像力がうまく働かなかったというのが実際のところではないしょうか。おそらく、直接福島にかかわっていない大半の建築関係者は、福島についてどう考えればいいか見当もつかない。わたしも、『思想地図β』vol.2のプロジェクトで福島をテーマにしていなければ、いまだに掴めていなかったかもしれません。

 他方、先日福島第一原子力発電所に取材で入った際★1、藤村さんは、廃炉作業はいま日本で最大の建築現場であり、とくに燃料棒を取り出すためのクレーンは、最近ではなかなか見られない巨大建築だとおっしゃっていました。建築的な観点から見て、現在進んでいる廃炉についてはどう考えていますか。

藤村 日本の建築関係者にとって福島第一原発は「廃炉作業の現場こそが最大の建築現場である」という、とてもアイロニカルな存在ではないかと思います。10兆円を越えると言われている費用は中央リニア新幹線の建設費よりも高く、4号機の上空に組み立てられた構造物はかつてない大きなスケールのメガストラクチャーです。

 ただ他方で私は、根本祐二さんが『朽ちるインフラ』で主張されている通り、いま日本では、高度経済成長期に整備されたインフラがいっせいに耐用年数を迎えつつあり、統廃合を進めなければ行けない現状をみると、3.11が起きなかったとしても、近いうちに廃炉や縮小に向かい合うことが必要だったことは間違いない。震災によってタイミングが早まったことで、これから日本で取り組まなければいけないインフラの更新や縮小、撤去という作業のイメージに、先鞭をつけることになったと捉えられると思います。

 藤村さんが鶴ヶ島市で試みられているような、公共事業を縮小し畳む課題とつながっているということですね。しかし他方、『福島第一原発観光地化計画』では、「ふくしまゲートヴィレッジ」という巨大な「ハコモノ」のプランを提案している。もちろんこれは研究会の総意に基づくものですが、それを統合して形態に落とし込んだ藤村さん自身の思いや思想について、あらためてご説明いただけないでしょうか。

藤村 このプロジェクトでは、自分は「広島における丹下健三」の役割を演じることに徹しました。1945年、広島の廃墟を前に、いまと同じように、多くの建築家が立ち尽くしていたはずです。そこに丹下がモニュメントを設計し建設することで、広島という都市が持つ意味が書き換えられ、平和都市として国際的な影響力を持つ政治都市になっていった。わたしは、「ふくしまゲートヴィレッジ」をそういうものにしたいと思っています。

 東さんから話をいただいたとき、わたしは36歳でした。これは、ちょうど丹下が広島平和記念公園のコンペに取り組んだのと同じ年齢です。その頃の丹下は一介の助教授にすぎなかったものの、これをスターティングポイントとしてキャリアを築いていくことになります。そう考えて、ふくしまゲートヴィレッジも、現時点では滑稽な計画に見えるかもしれないけれど、丹下も同じようなところからスタートしていて、そのわずか25年後には大阪万博までを設計することになると考えると、あながち遠い話でもない気がしたんです。 だからあえてこういうものを発表することで、若手の建築家の「どうせ我々はもう公共事業を設計できない」、「我々は国家のことを考えてはいけない」という諦めの風潮に対して、カウンターのメッセージになればと思いもあります。
 計画の発表後、建築家や学生たちの反応はいかがでしたか。

藤村 一番多いのは「エネルギーに圧倒された」というような声なんですが、一方で、とくに若い建築関係の学生などから、こんなハコモノはインテリのお遊びだよね、というような反応もあります。これは単なる想像力の欠如だと思います。廃炉作業というのは10兆円単位のプロジェクトで、それに対して500億円のハコモノは、それこそ消費税分くらいの規模でしかない。単体で聞くと巨大プロジェクトに聞こえるけれど、長期的に続く廃炉作業のことを考えると、そのくらいの投資があってもいいはずです。そういう想像力が失われてしまったということだと思います。

 丹下健三になりきるという言葉がありましたが、彼の業績にも功罪があります。藤村さんは「列島改造論2.0」(『日本2.0』思想地図βvol.3所収)で、田中角栄の日本列島改造論や丹下健三の国土計画をポジティブに評価していますが、高度経済成長期の公共投資を肯定的に評価する議論はあまり一般的とは言えません。建築界では、藤村さんの立場はどう捉えられているのでしょう。

藤村 批判も賛同もどちらもあると思います。官僚主義末期の暗澹たる雰囲気を記憶している一定以上の世代からは、内容以前の拒否反応を頂いてしまうこともあります。ただ、わたし自身は公共がそうした強力な権力を持っていた時代の空気をほとんど知らないんです。むしろわたしの感覚では、官僚はコントロール権を持っておらず、むしろ市民主義の台頭によって、どんな公益性の高いプロジェクトであってもちょっとした反対運動が起これば議論の機会もなくストップしてしまう、というのがいまの状況だと思います。そういうネガティブな社会を打ち破りたい。これは世代によるところが大きいのでしょうが、いまはボトムアップ型の弊害がかなり大きくなってきていると感じているので、一度トップダウン型のモデルを再評価したいと考えています。だから、あえて意図的に角栄や丹下を肯定的に参照しているところもあります。

【図1】


市民こそが権力


 ふくしまゲートヴィレッジについては、ネットを中心に、「予算がつかない」、「実現できるわけがない」という意見が寄せられています。藤村さんの考えでは、行政が、廃炉を含めた事故処理のプロジェクトの一部としてファンディングするべきだということでしょうか。

藤村 国と福島県、そして東電が力を合わせて進めるべきだと考えます。福島第一原発の取材で印象的だったのは、東京電力の広報の方々が、みな自分たちのやっていることをまっすぐに伝えたい、というポジティブな思いを持っていることでした。事故後の東電には内発的に透明化を求めている人もたくさんいる。しかし、メディアの構造や情報環境などいろいろな障害があり、メッセージが断片化され、曲解され、本当の意図が伝わらない。観光地化計画は、そういう内側からの声に応えるプロジェクトだと思うんです。もしかすると、東電の広報活動の一部としてスタートしてもいいのかもしれない。国や県でも同じことが言えると思います。その情報公開のモチベーションをもとに、それぞれ協力して進めていくという設定もあり得ると思います。

 一般には市民こそが情報公開を求めていて、国や東電はそれを隠そうとしていると言われています。しかし藤村さんは、その逆だと捉えている。だからこそ、観光地化計画は東電の広報活動としてスタートしてもよいとおっしゃる。しかし、「お前は東電の手先になるのか」と非難されそうです。

藤村 実際のプロジェクトに携わっていると、行政側は財政状態や利権の構造など、すべてを洗いざらい公開して物事を決めていきたい、と思っているケースでも、それを阻むのは受け手である、一部の市民です。彼らのあげ足取りのような抵抗に対する警戒心で、行政が情報公開を自主規制してしまっている。つまりいまのパワーバランスでは、市民を巻き込んで明確に合意形成できない限り、公益性の高いプロジェクトであっても動かないことがある。それは不健全な状態だと思います。

 もちろん、かつて行政側が権力者だったことは確かです。しかしいまはかなり弱体化しており、市民の権力を前に、積極的な政策が打てなくなってしまっている。だからわたし自身は、アーキテクトとして、公益性の高いプロジェクトであると思えればそれを推進する立場に立って、そちらをサポートするほうに力を注いでいきたいと思うんです。

 力強い意見表明です。とはいえ、行政や東電の側に立つにせよ、なぜそこでハコモノが必要なのかという疑問は残ります。どう答えますか。

藤村 ハコモノが無目的に必要だからではなく、人々をその場にどうやったら動員できるかを考えたいだけです。そのためにどういう装置がいるかと考えたときに、はじめてハコモノが必要になってくる。

 建築の根源的な力は、ひとを動員して、その場所でいろいろなものを見せたり、体験させたりすることにあります。たとえばバブルの前、1975年から翌年にかけて、沖縄県の本部町で沖縄海洋博(沖縄国際海洋博覧会)が開かれました。いまこの会場跡地には「沖縄美ら海水族館」がありますが、それはこのとき博覧会を開き、那覇空港から入った観光客がみないったん沖縄中北部の本部町まで出かけ、帰りに周辺に立ち寄ったり、リゾートホテルに泊まって観光を楽しむようなルートが確立されたから生まれた交通です。それによって島内の南北、東西の格差解消という効果も多少はあったのではないでしょうか。この投資は妥当で、かつ有効だったことも明らかです。しかしそういう事例は、いまは非常に過小評価されてしまっている。

 日本ではバブル崩壊とともにハコモノやインフラは諸悪の根源のようにあげつらわれていますが、必要な投資は惜しむべきではないし、動員が重要な意味を持っていることも変わっていません。にもかかわらず、ハコモノ=悪という短絡がまかり通っていることについては、反論していきたいと思っています。


2013年12月20日 東京、藤村龍至建築設計事務所
構成=編集部
後篇はこちら

★1 2013年12月5日の福島第一原子力発電所、第二原子力発電所取材のことを指す。

藤村龍至

1976年東京生まれ。東京藝術大学美術学部建築科准教授。RFA主宰。2008年東京工業大学大学院博士課程単位取得退学。主な建築作品に「鶴ヶ島太陽光発電所・環境教育施設」(2014年)。著書に『批判的工学主義の建築』(NTT出版)、『プロトタイピング——模型とつぶやき』(LIXIL出版)、『ちのかたち』(TOTO出版)。 撮影:新津保建秀

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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