「それでもやっぱり変わらない」を生きる──『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』刊行記念対談(後篇)|宮台真司+東浩紀

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初出:2013年10月1日刊行『ゲンロン通信 #9+10』

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チェルノブイリ、福島に続く災害のための「記憶」


 福島の事故は、「戦後社会の節目」といった言葉で、ずっと日本国内の問題として語られ続けてきました。それはそうなのですが、グローバルに見れば、これはやはりチェルノブイリに続く2番目の事故なんですよね。だとすれば、3番目の事故が世界のどこかで起きてもおかしくない。原子力災害にしても津波の災害にしても、ひとつの国のなかでは100年に一度かもしれないし、1000年に一度かもしれないけれど、地球全体の規模で見ると数十年に一度のことで……。

宮台 だいたい10年に一度です。スリーマイルが1979年、チェルノブイリが1986年、ジェー・シー・オーが1999年、フクイチが2011年ですからね。

 ウクライナと日本が同じ問題を抱えているだけでなく、同じような問題を抱える可能性のある国は世界にはたくさんある。こういう国々が連帯していかなければいけないのに、連帯の絆を日本は作れていないと思ったんです。たとえば、東日本大震災では津波で甚大な被害が出た。でもその前にはスマトラ島の地震でも大津波が起きている。そしてその震源地に近いインドネシアのバンダ・アチェという街がどうなってるかというと、大きな津波博物館ができているんですね。博物館には日本もかなり協力していて、館長は東日本大震災後に何度も来日している。内部の展示には阪神・淡路大震災の教訓も生かされている。

 今回の取材で訪れたキエフのチェルノブイリ博物館も、強く福島との連帯を打ち出していました。入口にはウクライナ語と日本語で展示があって、東日本大震災の映像が流れている。けれど日本にはこういうことがあまり伝わってこない。災害が地球規模で連鎖しているということを、日本人が一番意識していない。国境を越えた連帯が発想として出てこないところは、日本が弱いところなのかなと思いましたね。

宮台 うん、それは弱い。原発ほどの巨大プロジェクトにもなると、どの原発推進国もすでにそう簡単にはやめられない構造的前提を抱えます。ウクライナならロシアとの関係だし、日本ならアメリカとの関係です。近隣諸国と紛争状態にあるインドやイスラエルやイランであれば、なおさらです。こういう場合、構造的前提をいじらないと、脱原発化の達成は無理です。どこもそういう問題を共有しているんです。

 ところで、この本の話に戻りますが、東さんの前書きを読んでちょっと微妙だなって思ったのは、「どのようなテクノロジーも、リスクとともにある」というポール・ヴィリリオ(フランスの思想家)を引用していた箇所。書いてあることは正しいと思うし、ぼくはその立場を取らないにしても、気持ちはわかります。確かにあれこれリスクが顕在化してきたからこそ、対処を通じて、安全な自動車やダムが作れたわけです。

 だから、「リスクが顕在化するたびにヤメてたんじゃ、 安全な原発なんて永久に作れない」という理屈には一理あります。でも、フクイチ事故後の日本では通りませんよ。もちろん感情的な批判もあるけれど、フクイチ事故後、昔は社会学者しか知らなかったウルリッヒ・ベックのリスク社会論を多くの日本人が知ってしまったのが大きいと思います。

 要は「保険を手当てできる一九世紀的リスク=規定可能なリスク」と「保険を手当てできない二〇世紀的リスク=規定不能なリスク」の区分です。 原発事故のリスクは「予測不能・計測不能・収拾不能」で、遺伝子組換作物の花粉の開放系への放散と並び、「規定不能なリスク」の典型です。「規定不能なリスク」については「安全な自動車に到達するには、リスクに満ちた自動車の段階が不可欠だ」は通りません。

 ぼくの前書きは反原発の人から批判されそうだということでしょうか。確かにぼくもそういう可能性はあると思いながら書きました。問題の箇所は序文の最後にあるので、実はほとんど書かなくていい文章でもあるし。

宮台 そう。わざと書いていらっしゃるのは理解しているんです。確かに、フクイチ事故前ならこういう文章が「なるほど」と受け入れられるような土壌があって、その上で最適選択や許容選択を議論できたでしょうが、今はもう無理ですよ。だから、こういう書き方だと、読者の間口を狭めてしまいかねないな、と危惧するんです。

 わかります。ただ、原子力技術についての話を完全に抜きにして序文を書くのも、また欺瞞というか嘘になるかなと思いました。最後につけ加えようと思ったときに、ウクライナの人達に話を聞いたときの感覚に一番近かったのが、あの文章だったんですよね。

宮台 ならば、代替的な提案をすると、先ほど国境を越えてグローバルな前提を共有することが大事だっておっしゃったでしょ? ぼくが日本の議論からこぼれ落ちがちなので気になるのが、原発事故を収束させたり原発を廃炉に導くのに不可欠な技術をどう受け継ぐかという問題です。長い目で見れば原発は廃れゆく技術ですが、現時点で研究コミットメントが失われると、原発の危険性が上がってしまう。

 東さんがかわりにそのことを御指摘になっていたら、「えっ?」と引っかからないで済んだのですけれど。

 宮台さんは、今後原発がなくなるとお考えですか?
宮台 むろん、なくならないでしょう。さっきも言ったことだけど、アメリカを除く先進国では新規原発建設がないので原発が早晩廃れるのは間違いありませんが、軍事外交上の政治力学のただなかに置かれたウクライナや日本やインドやイスラエルやイランや中国とアメリカは、原発が技術的に合理的だから選択しているわけじゃないので、政治力学が変わらない限りは原発が永久に残るでしょうねえ。

 ぼくは、この問題はこう考えています。エネルギーは政治と深く関係している。ぼくたちはいま国民国家というシステムを採用している。そうすると、ある領域国家のなかでエネルギーを自給しなければならない。そして、そんな領域をこの狭い惑星のうえに100以上作ってしまっている。 そうなると絶対に自国領域内で資源が足りないところが出てくるので、これは原発に頼らざるをえなくなる。別の言い方をすれば、国民国家の単位は小さすぎて、資源配分の最適化ができない。

 もし国家の単位がすごく大きくなれば、原子力技術を手放すこともできる。日本だって、中国やロシアとひとつの国になって、もっと大きな国家としてエネルギーを決定できるんだったら、こんなプレート沿いの列島に原発を建てるわけがないんです。建てるにしたってもっと別のところに建てる。でもそうはいかない。

グレーゾーンのなかに生きる


宮台 ぼくも同じことを申し上げているんです。反発を承知で言えば、現在の国民国家システムを前提にした政治的なつば競り合いが続く限り、「原発は技術的に合理的ではない」という「緑の党」のような運動は、どのみち一部の先進国にしか通用しません。歯がゆい言い方になるけど、「脱原発運動が正当だったとしても(技術面)、原発推進派が間違っているというふうにはならない(政治面)」んですよ。

 ジョン・ロールズ(アメリカの哲学者)的な仮定になるけど、もしもぼくが生まれ変わって統治側に立つ可能性を想像したらどうか? 周辺国との戦争の恐れがあり、仮想敵国のエネルギー政策や資源政策次第で右往左往せざるをえないので主権の持続可能性が危ういというとき、たまたま前政権からの原発プラント計画があり……といった状況があれば、技術的安全面だけを考えた原発政策中止の決定は無理です。

 当然そうだと思います。

宮台 人文社会系の学問訓練を積み上げた人にとってはそれって当たり前だけど、日本に限っては人文社会系の学者においてすらそういう思考が珍しく、「脱原発が正しいってことは、他方原発推進は間違っているはずだ」という陳腐なトートロジーに乗っかりがち。世の中がどう回っているかわかっていないんです。まずは、「原発推進が間違っていると言い切れる政治的環境を作ること」が先決です。

 日本の場合でいえば、日米関係の質を変え、そのためにアジア諸国との関係の質を変えることですね、昔から言っているように……って冒頭の話に戻ってしまいました。

 人間は複雑ですよね。ぼくがチェルノブイリに行って感じたのは、端的に言えばそういうことです。その複雑さをシンプルに表現したいと思いつつも、なかなかこれはシンプルに表現するのが難しい。チェルノブイリに行ったと日本で述べて、まず尋ねられるのは、要は安全なんですか? みたいな話なんです。でも大事なのは危険か安全かという話じゃないんです。ただし、ツアーで行くのは全然問題ないはずですけどね。なにせぼくたちは今、世界一放射能に対するリテラシーが高い国民です。ガイガーカウンターの数字を見ただけで、一瞬にして放射能レベルがわかってしまうという特殊能力を身につけている。

宮台 たしかにぼくにも特殊能力がありますね(笑)
 だからプリピャチごとき、今の日本人ならほとんど怖くないはずですよ。でも、それを絶対に「安全」か問われれば、それは口籠もらざるをえない。ぼくは別に専門家ではないし、ホットスポットとか実際あるんだろうし……。ただひとつ言えるのは、福島も多分そうなるということ。 安全と危険の間にあるグレーなゾーンが膨らんでいき、そのなかでいろんな選択、いろんな人生がある。これこそが今後福島にやってくる現実です。ぼくたちの計画に対しては、よく「問題も収束していないのに観光地化なんて」といったお叱りがあるんだけど、今回の事故に関してはおそらく収束は半永久的にないんですよ。「被害の実態もまだ判明していないのに」と言われても、その実態がはっきり判明することもないわけです。

宮台 まあ、抽象的な危険感覚ではなく、具体的な知恵を集約する形で、共同体が対処することが必要だとは言えますよ。知識がないと、柳がおばけに見え、おばけが柳に見えてしまいますが、ポイントは、知恵の集約は個人では無理で、知識社会化した共同体が必要不可欠ということ。個人のライフスタイルを超えて、共同体のソーシャルスタイルに踏み込まないと、グレーゾーンの縮小ができません。

 ええ。ただその知恵というのは、数字だけでもない。いくら統計をとっても解釈の問題が残る。たとえばベラルーシでは、チェルノブイリの事故の後、明らかに小児甲状腺がんの発生率が上がっている。でもなぜ上がってるのかというと2通りの解釈があって、ひとつは内部被曝の影響。でももうひとつ、そもそも事故前はまともな調査なんてやっておらず、事故後はじめて調査をしたんだから数字が増えてあたりまえだという意見もあるわけです。これはこれで「なるほど」と思ってしまうわけで、統計データというのは、一事が万事この調子なんですよね。

宮台 そう。「一事が万事この調子」だからこそ、ぼくは、「エネルギーの共同体自治」や「食の共同体自治」を梃子にした、個人化されたライフスタイルならざる、共同体的なソーシャルスタイルの選択を、推奨してきたんです。さもないと「またグローバリストが是々非々を論じるしかないんだとか言いながらトンデモナイものを肯定していやがるぜ」という話になっちゃうでしょ?

 ベックが「再帰的近代における市民政治」を推奨するときも、それを念頭に置いています。高度技術につきものの巨大技術は、グレーゾーンとステイクホルダを拡げて「一事が万事この調子」にしてしまいます。この巨大システムへの依存自体を、共同体自治を通じて別のテクノロジーで回避する以外、選択肢がないんですよ。共同体自治がどんなに困難でも、それが論理的な帰結だから仕方ありません。

シリアスと娯楽を分割してしまうという病


 「観光地化」や「ダークツーリズム」といった言葉には、いまでも反発があります。そこでちょっと話を拡げたいのですが、2010年に宮台さんと東京工業大学で「日本的想像力の未来」というシンポジウムを行いましたね(東浩紀編『日本的想像力の未来』、NHKブックス、2010年)。その時に「無関連化」というキーワードを出しました。それが今回の話ともつながると思っています。

 日本は、ハレとケというか、シリアスと娯楽をはっきり分ける傾向がすごく強い。追悼式と言われれば正装して真面目な顔で黙祷する。観光ならTシャツに短パンで温泉に行ってお酒を飲む。でもその中間がない。「観光をしながらシリアスな歴史を学ぶ」という、シリアスと娯楽を混ぜる発想に対して、生理的な反発があるような気がします。

宮台 その反発っていうのは、観光に限らず、昨今のサブカルチャーやネットコミュニケーションにおいても多々見られますね。ぼくは「新住民的な潔癖症」と呼んでいますけれど。特権叩きや、有害コミック規制や、終夜営業規制なんかと、根っ子は同じですね。

 そうですよね。このあたりは宮台さんの方がお詳しいと思いますが、この国のアートについて考えるとわかりやすいかもしれません。アートは、娯楽的でエンターテインメントでありながら、同時にものすごく社会的で、現実介入的な表現方法ですよね。その二重性こそがアートをアートたらしめるんだけれども、そここそが日本人にはピンとこないんじゃないか。最近そんなふうに考えるようになりました。この国でアートが根付かない理由とダークツーリズムが受け入れられにくい理由には関係がある気がします。

宮台 典型的にはメディチ家時代のイタリアン・オペラですね。醜悪な凡俗の中に聖性を見るという貴族的な感受性です。それがドイツに移植されると、中産階級が高尚なものだと勘違いして、自意識上のワンランクアップ・ツールとして使いはじめるようになったわけです。渋谷の東急オーチャードホールみたいにね(笑)。

 その点1960年代の全共闘時代は良かった。ギリシア古典主義を憧憬する三島由紀夫がキッチュなヤクザ映画を褒めたり、末井昭のいう「ヤクザ映画やピンク映画みたいなドカタ・メディア」に高尚な哲学を読み込む「裏目読み批評」が席巻していたしね。「ネタなんだけど、実はホンキ」っていう二重性。1990年代に援交を論じてきたぼくや、ゼロ年代にゲームを論じてきた東さんは、正当な後継者かもしれない。でも、援交ブームが終焉した一九九六年以降、あるいは「新しい歴史教科書をつくる会」ができた一九九七年以降、そうした二重性が消えました。だいたいが二重性を気取っているくせに学問的知識がない輩が大半だからねえ。あと、二重性というと思い出すのが、ぼくが育った京都を含めた関西ですね。関西にはボケとツッコミの文化があって、真面目な話をしているときでも絶えず笑いを挟みます。京都ってすごく講演がやりにくい場所で、どんなお題でも、最前列の聴衆が「ほな、お手並み拝見やな」とふんぞり返っています。この場合、まず冒頭で笑いを取らないといけないんですね。さもないと「イケズやな」で終了。実際、主催者から「つかみだけはお願いしますよ」って言われたりします(笑)。

 なるほど。今回の事故が東日本で起こったのが不幸だった。これは新説ですね(会場笑)。あれが西日本だったら大丈夫だった。
宮台 大丈夫かどうかは別にして(笑)、真面目な話、もしあれが関西で起こっていたら、その後のコミュニケーションはずいぶん変わっただろうと思いますよ。311以降の日本って、非常に複雑なことが次々と起こり、外から見るとわけがわからないことが増えましたよね。関西の人って一般に、自分たちが持っている常識や前提を外の人たちは持っていない、というふうに強く思っているんですよ。たとえば、かつてのテレクラ・ナンパが典型で、他の地方だったら「東京から出張してきた」って言うとすごくナンパしやすくなるのに、大阪や京都は全く反対で、「東京から来た」って言った瞬間にガチャ切りが当たり前。「東京のヤツらにはウチらのことわからへんし」ってね。だから東京発の真面目な話は「話半分」になりがちで、それが「大飯原発再稼働でええやん」にもつながりがちなんです。

共感はインフレを起こしている


 せっかく宮台さんとお会いしているので、最後に政治思想の話もさせてください。ぼくはこのところ、リベラリズムというのは、少なくとも日本では、共感ではなく「放置」に根拠づけられるべきなのではないかと考えています。説明がなかなか難しいんですけど、ひとことで言えば、相手の気持ちをわかる、相手の身になるべきというリベラルの命法って、実はとても実現が厳しい。

宮台 おっしゃるとおりです。

 リベラリズムの根拠には共感がある。別の言い方をすれば、できるだけ相手の気持ちになろうとする「交換可能性」の感覚がある。だからマイノリティの不利益を許さない公正な社会を作れる。ロールズの背後にあるのはそういう理論構成だと思います。それは多民族国家のアメリカでは決定的に重要だったと思うのですが、日本では逆の効果をもってしまったのではないか。大前提として、現代日本では人々のライフスタイルが非常に似ていますね。みなが同じように主体で、同じ言語を使い、同じ価値観を共有している。同じようにコンビニに行き、同じようにネットを利用している。経済格差ほどはライフスタイルは離れていません。そういう環境で、まずは相手の気持ちを考えるべきだという命法を与えられると、コミュニケーションがインフレを起こすと思うんですよ。具体例を出せば、例の在特会(在日特権を許さない市民の会)のヘイトスピーチのような現象です。ひとむかしまえは「あいつら在日なんだからしかたない、生き方ちがうんだよ」で切断して終わりだったはずが、「在日も同じ人間で、同じようにアニメを見て同じようにコンビニ弁当を食っている。だからこそ、彼らの特権を許すわけにはいかない」に変わる。

宮台 だからこそ、先ほどの関西の話のように、相手と自分を分けて「どうせアンタらにはわからへん」「アンタらのことよう知らんねん」と放置する必要が出てくる、というわけですね。

 そうです。いままでそういった「差別」はネガティブにとらえられてきたし、それは当然悪いことなのだけど、同時に、一定の範囲でコミュニケーションを切断することによって、逆に共存を守るという効果はあったのかもしれない。これはおそらく、関西的な知恵なんでしょうね。関西は共生の知恵が発達しているけれど、同時に差別が残る地域でもある。

宮台 そう。ただ、大阪維新の会や在特会のルーツにある組合や同和や在日への「特権叩き」を見ると、昨今は「共生の作法としての無関連化」も失われています。関西の小学生だった頃、ぼくも訳がわからないまま在日や部落の差別に加担したけれど、若いときに『パッチギ』みたいな闘争を生きた敵と味方が、長じて酒を酌み交わすようになるっていうのが、関西流だったわけです。これをぼくは「差別と一体になった旧住民的な包摂性」と呼んでいます。対照的に、チーム関西から始まった在特会による「特権叩き」は、「同じ住民なのになぜだ!」みたいに噴き上がる新住民的なものです。途中から街に来た新住民も、個室化ゆえに旧住民的ネットワークから外れて新住民的になった若い連中も、両方含んでの話です。有害コミック規制問題やクラブ終夜営業規制問題を含めた「クレージークレイマー問題」も、中国人や在日は出て行けみたいな「ヘイトスピーカー問題」も、社会に反応するというより自意識に反応して噴き上がるという意味で、所詮は「ヘタレ新住民の自家中毒」です。昨今では何事につけ「不公正に対する過剰反応問題」の根っ子にあるのが「新住民問題」で、「公正を持ち出すからこそ反公共的」なんです。

 共生と差別が裏表の関係にあることを、リベラルはもう少し認識すべきです。それはアメリカでも同じだと思う。アメリカの多民族社会は、別に互いの美しい尊重によって成立しているのではなくて、多様な民族集団がそれぞれお互いを差別的なジョークで蔑み、コンフリクトを起こしながらも維持されている。それはテレビドラマを見ていてもわかる。けれども日本の場合、ある段階で文化的にきわめて等質になってしまったので、相手の気持ちをわかる、相手の身になるというプログラムが暴走を起こしているところがあり、そしてそれが逆に過剰なまでの他者の排除につながっている。つまり、こういうことを言うとたいへん怒られると思うけど、逆説的に言えば、いま在特会に必要なのは、韓国人、中国人への適度な「差別」だと思うんです。「韓国人や中国人は嫌い」と切り離すことができれば、面と向かって「死ね」なんていうデモまで行かないのではないか。同じことは夫婦別姓や同性愛などあらゆることに言えると思うのですが、「他人の生活に無関心になる」「他人の価値観に無関心になる」という命法をいちど取り入れたほうが、日本はよりリベラルになるかなと思っているんですね。これは一般のリベラル知識人の発想とずいぶん違うのだけれど……。
宮台 いえ、おっしゃるとおり。アメリカの思想史を見るとそうなっているでしょ? ヨーロッパではリベラルというと、「権威主義」の反対概念で、「参加主義」という善い意味。アメリカでは違って、リベラルというと「自助主義」「共助主義」を侵害する「公助主義」「国家再配分主義」という悪い意味になるわけで、むしろ「権威主義」の意味で用いられるんですね。リベラリズム的なフェアとは、ロールズのいう「無知のヴェール」に覆われた(自分の社会的立場や財産について知らないのでどんな制度が自分の得になるかわからない状態に置かれた)人が下す判断の性質でした。その場合、人は、「俺が最悪の弱者の立場に立っても耐えられるか」というふうに、相手との立場の入れ替え可能性をベースに「最悪事態の最小化」を図るとされています。でも、これは成員同質性の高い社会でだけ自然な仮定でしょう。普通の近代社会なら「俺は俺、お前はお前、何事も」が自然です。それがロールズのいう「負荷なき自己」に対するサンデルの「条件づけられた自己 situated self」ですね。でも、社会主義に抗って福祉国家政策を採用する必要から、そうした自然な社会を諦めるための「断念の思想」として、アメリカ流リベラリズムが出てきたんです。これと違って、ヨーロッパのリベラリズムは「反権威主義」としての「参加主義」で、「参加による自治を通じて共同体的前提を再帰的人為的に導入維持しよう」という発想です。昔のぼくはこちらの意味でリベラリスト(欧州的リベラル)を名乗っていました。ちなみに(笑)。アメリカ社会だと、リベラリズムが「〈フェアネス厨〉による国家介入願望」を意味しますが、ヨーロッパであれば「参加による自治を通じて共同体的前提を再帰的人為的に導入持しよう」という「参加主義×分権主義=市民主義」こそがリベラリズム。アメリカ的思想区分でいえばコミュニタリアニズムに近い。ぼくの考えでは、アメリカ流「リベラル」より、ヨーロッパ流「リベラリスト(ドイツ語)」の方が優れています。

 まさにそうですね。そこらへんから、もういちど日本風にリベラル・コミュニタリアニズム論争を読み直したり、ロールズとローティの関係について議論したりと話を進めたいところなのですが……、残念ながら、もう時間も来てしまったようです。

 今日の対談は、『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』の刊行記念でありながら、肝心の本がまだ刊行されていないというテイタラクになってしまいました。にもかかわらず、宮台さんには、ゲラを丁寧に読んで準備していただき、深く感謝しています。宮台さんとは一年に数回ぐらいのペースでお会いしているのですが、最後の話題については、理論的にも実践的にも重要な問題で、またぜひ別の機会にお話しできればと思います。今日はどうもありがとうございました。


2013年6月22日 東京、ゲンロンカフェ

構成=宇野浩志 
撮影=編集部
本対談の前篇は、本誌掲載に先立ってデジタルコンテンツ配信プラットフォーム「cakes」で『欲望される現実へ――チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド発刊記念対談』として公開し、その後再編集を加えたものです。


チェルノブイリの「現在」から、日本の「未来」を導きだす。

チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β vol.4-1』 2013年7月10日刊行 B5判並製 本体160頁 ISBN:978-4-907188-01-6 ゲンロンショップ:物理書籍版電子書籍(ePub)版 Amazon:物理書籍版電子書籍(Kindle)版

宮台真司

1959年3月3日、宮城県仙台市生まれ。 社会学者。東京都立大学教授。麻布中・高校卒業後、東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。『社『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(幻冬舎文庫)、『14歳からの社会学』(ちくま文庫)、『日本の難点』(幻冬舎新書)など著書多数。

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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