ドン.キホーテ論──あるいはドンペンという「不必要なペンギン」についての一考察(中)|谷頭和希

ゲンロンα 2020年7月21日配信
まずはこの曲を聞いてほしい。
これは、ドンキのテーマソング「ミラクルショッピング」だ。店内で流し続けられている曲なので、耳にしたことがある人も多いだろう。「ドンドンドン〜」と店名が連呼されるサビの部分ばかり目立つが、曲をよく聞くと「気分は宝探し」、「激安ジャングル」、「真夜中過ぎても楽しい」などドンキの特徴をよく表す言葉で埋め尽くされていることが分かるだろう。
前回はドンキホーテのキャラクター「ドンペン」について考えながら、それがドンキにおいて果たす役割を考えてきた。その過程で私たちは、ドンキの内部について考えていくことになった。そこでは「ドンキは、周囲の環境との一致がその外装だけではなく内部にまで及んでいる」と論はまとめられたわけだが、実はその内実を見るときにこの曲が示唆するものは非常に大きいのだ。
ドンペンから考えるドンキ論、第2回は「ミラクルショッピング」を聞きながら読んでほしい。
ドンキは、どのように周囲の環境との一致が内部にまで及んでいるのか。まずは「ミラクルショッピング」の歌詞をふまえて、ドンキの内部構造の特徴をまとめておこう。同曲の歌詞では「ジャングル」や「宝探し」といった他の小売店では考えられない言葉が並んでいる。こうした単語はその店舗構造の複雑さを表している。ドンキのフロアマップを見てみよう。

【図1】ドンキのフロアマップ。通路は入り組み、目的地までなかなか到達できない(ドンキ練馬店)
このように曲がりくねった通路を持つ店舗構造は回遊型の店舗構造と呼ばれている。この店舗構造は、スーパーなどの他の小売店のフロアマップと比較してみるとさらに際立つ。

【図2】一般的なスーパーの店内マップ(スーパーサンシいくわ店のホームページより[★1])。目的地まですぐに行ける。
Amazonの巨大倉庫や、マンハッタンの街区をも思わせるスーパーの店舗構造は、目的の品までどう行けばいいのかが一目で分かる合理的なものだ。そう考えると、いびつで不規則なドンキのフロアマップはますます不合理に思えてくる。なぜドンキは、あのような不合理な店舗構造を作り出すのか?
これは、ドンキのテーマソング「ミラクルショッピング」だ。店内で流し続けられている曲なので、耳にしたことがある人も多いだろう。「ドンドンドン〜」と店名が連呼されるサビの部分ばかり目立つが、曲をよく聞くと「気分は宝探し」、「激安ジャングル」、「真夜中過ぎても楽しい」などドンキの特徴をよく表す言葉で埋め尽くされていることが分かるだろう。
前回はドンキホーテのキャラクター「ドンペン」について考えながら、それがドンキにおいて果たす役割を考えてきた。その過程で私たちは、ドンキの内部について考えていくことになった。そこでは「ドンキは、周囲の環境との一致がその外装だけではなく内部にまで及んでいる」と論はまとめられたわけだが、実はその内実を見るときにこの曲が示唆するものは非常に大きいのだ。
ドンペンから考えるドンキ論、第2回は「ミラクルショッピング」を聞きながら読んでほしい。
「ミラクルショッピング」からドンキの内部を考える
ドンキは、どのように周囲の環境との一致が内部にまで及んでいるのか。まずは「ミラクルショッピング」の歌詞をふまえて、ドンキの内部構造の特徴をまとめておこう。同曲の歌詞では「ジャングル」や「宝探し」といった他の小売店では考えられない言葉が並んでいる。こうした単語はその店舗構造の複雑さを表している。ドンキのフロアマップを見てみよう。

このように曲がりくねった通路を持つ店舗構造は回遊型の店舗構造と呼ばれている。この店舗構造は、スーパーなどの他の小売店のフロアマップと比較してみるとさらに際立つ。

Amazonの巨大倉庫や、マンハッタンの街区をも思わせるスーパーの店舗構造は、目的の品までどう行けばいいのかが一目で分かる合理的なものだ。そう考えると、いびつで不規則なドンキのフロアマップはますます不合理に思えてくる。なぜドンキは、あのような不合理な店舗構造を作り出すのか?
その答えはすべて、歌詞の中にある。鍵は「衝動的でも得したね 今夜は何があるのかな?」という部分だ。ここで歌われているのは「衝動買い」、つまり予期せぬ品物の購入だ。ドンキでのショッピングは宝探しの途上で、まったく別の宝を見つけることもあるわけだ。1つの品物まで直線で進むことのできるスーパーとは違い、ジャングルのような店内を周遊することで客は目的以外の品物も見る。それが結果として客の予期しなかった買い物(=衝動買い)につながる。ドンキを利用する人ならば、身に覚えがあるかもしれない。
そして衝動買いをさらに効率よく行わせるために生み出されたのが「圧縮陳列」という手法だ。これは、1つの棚に多数の商品が詰め込まれる陳列手法で、ドンキの代名詞にもなっている。

【図3】圧縮陳列が施されているドンキ店内。見通しが悪い(ドンキ横浜西口店)
これが圧縮陳列だ。写真からも分かるように、各棚からは商品が飛び出していたり、かと思えば通路となるような場所に段ボールが置かれてもいる。この陳列手法がドンキの「ジャングル」性、「宝探し」性を生み出しているのだ。そのことは、一般的なスーパーの商品配列と比べれば一目瞭然であろう。

【図4】一般的なスーパーの店内写真。見通しが良い
こうすることによってドンキは客の衝動買いを誘発し、売上の増加を狙っている。これらは実際にドンキの創業者でもある安田隆夫が自著で繰り返し述べている手法であり、ドンキのジャングルらしさを作る一つの要因になっている。事実、ドンキの店内には私たちが欲するものがなんでもあり、それは普通のスーパーではほとんど扱われることのないアダルトグッズ(ラブグッズ)の取り扱いにも表れている。

【図5】この奥にラブグッズが
ミラクルショッピングで歌われている「今夜は何があるのかな」や「真夜中過ぎても」といった「夜」が強調される部分は、性的なコノテーションも多分に含んでいる。
一見すると、ドンキの店舗構造は不合理だ。しかしその裏には、多種多様な商品を客の目に触れさせて「衝動買い」を促し、売り上げを増収するという非常に経済的な目的が潜んでいた。ここでは合理的な目的意識が不合理な店舗構造を作り上げているのだ。
不合理な空間構造が、最終的には合理的な目的に適合するという議論は珍しくはない。
例えばポストモダニズム都市論の論者であるクリストファー・アレグザンダーが『都市はツリーではない』の中で語る「セミ・ラティス」型の都市はまさにドンキ的な複雑さを持ったものだといえよう[★2]。「セミ・ラティス」型の都市とは、本来なら全く関係を持つことのない事物同士が別の事物を媒介として複雑に結びつき関係性を形成する都市である。アレグザンダーは、様々な都市は古来からこのように出来上がっていると語る。
そして衝動買いをさらに効率よく行わせるために生み出されたのが「圧縮陳列」という手法だ。これは、1つの棚に多数の商品が詰め込まれる陳列手法で、ドンキの代名詞にもなっている。

これが圧縮陳列だ。写真からも分かるように、各棚からは商品が飛び出していたり、かと思えば通路となるような場所に段ボールが置かれてもいる。この陳列手法がドンキの「ジャングル」性、「宝探し」性を生み出しているのだ。そのことは、一般的なスーパーの商品配列と比べれば一目瞭然であろう。

こうすることによってドンキは客の衝動買いを誘発し、売上の増加を狙っている。これらは実際にドンキの創業者でもある安田隆夫が自著で繰り返し述べている手法であり、ドンキのジャングルらしさを作る一つの要因になっている。事実、ドンキの店内には私たちが欲するものがなんでもあり、それは普通のスーパーではほとんど扱われることのないアダルトグッズ(ラブグッズ)の取り扱いにも表れている。

ミラクルショッピングで歌われている「今夜は何があるのかな」や「真夜中過ぎても」といった「夜」が強調される部分は、性的なコノテーションも多分に含んでいる。
ドンキはツリーで「も」ある
一見すると、ドンキの店舗構造は不合理だ。しかしその裏には、多種多様な商品を客の目に触れさせて「衝動買い」を促し、売り上げを増収するという非常に経済的な目的が潜んでいた。ここでは合理的な目的意識が不合理な店舗構造を作り上げているのだ。
不合理な空間構造が、最終的には合理的な目的に適合するという議論は珍しくはない。
例えばポストモダニズム都市論の論者であるクリストファー・アレグザンダーが『都市はツリーではない』の中で語る「セミ・ラティス」型の都市はまさにドンキ的な複雑さを持ったものだといえよう[★2]。「セミ・ラティス」型の都市とは、本来なら全く関係を持つことのない事物同士が別の事物を媒介として複雑に結びつき関係性を形成する都市である。アレグザンダーは、様々な都市は古来からこのように出来上がっていると語る。
一方で彼が「セミ・ラティス型」に対比させる構造として、「ツリー型」の都市と呼ばれるものがある。これは1つの目的を最短距離でなしえるためにできる限り余計な要素が街から取り除かれた街である。彼はル・コルビュジエが『輝く都市』や『ユルバニスム』で目指した合目的的な都市がツリー型の都市であるとした上で、セミ・ラティス型の都市こそ人間の生態に最も適した変化を遂げた都市であって「都市はツリーではない」と強く主張する。
この観点からドンキのフロアマップを見るなら、一般的なスーパーはツリー型で、ドンキはセミ・ラティス型だといえるだろう。すでに確認したようにその店舗内では圧縮陳列や、回遊型の通路によって商品との予期せぬ出会いが演出されており、そこでは本来関係を持つはずではなかった商品と人間が運命的な出会いを果たすことがしばしばだ。つまり、「ドンキはツリーではない」。
しかしここで、決定的にドンキとアレグザンダーの議論を分かつものがある。
ドンキはたしかにセミ・ラティスの構造を強く持つ。しかしその一方で、店舗によってはかなり分かりやすくツリー構造を持つ場合もあるのだ。
その一例を、MEGAドンキ渋谷店に見ることができる。この店舗は都内でも有数の大規模店舗だが、その地階はドンキらしからぬ非常に見通しの良い空間になっている。これは、私たちがドンキの店舗と比較してきた、目的地まで最短距離で進めるスーパーの店内そのものであり、アレグザンダー風にいうならツリー型の構造を持っているということだろう。

【図6】MEGAドンキ渋谷店の地階食料品コーナー
アレグザンダーがセミ・ラティス型の都市を強く志向したように、一見するとドンキはそのような複雑さへの執着があるように見える。
しかし、その複雑さはドンキにとっていつも必要なわけではないのだ。このことは我々がドンキを語るときに非常に重要だ。結局のところ、ドンキはアレグザンダーが語ったような複雑さだけを目指しているのではない。彼が『都市はツリーではない』で打ち出した都市像は、俗に「ポストモダニズム都市」と呼ばれるが、ドンキはこのポストモダンな都市も、そしてアレグザンダーが否定しようとしたコルビュジエのモダニズム都市とも違う「なにか」なのだ。
では、ドンキはいったいどのような原理で、店の内部構造を変えるのだろう。この問いにこそ、前回私たちが確認し、そして今回考えようとしている「ドンキは内部までもが周囲の環境に溶け込んでいる」という言葉の意味がある。
ドンキは多様な店舗構造を持つ。そして、その多様な店舗構造は、ドンキの内部が周囲の環境に溶け込んでいることと密接に関係しているのだ。どういうことか。
この観点からドンキのフロアマップを見るなら、一般的なスーパーはツリー型で、ドンキはセミ・ラティス型だといえるだろう。すでに確認したようにその店舗内では圧縮陳列や、回遊型の通路によって商品との予期せぬ出会いが演出されており、そこでは本来関係を持つはずではなかった商品と人間が運命的な出会いを果たすことがしばしばだ。つまり、「ドンキはツリーではない」。
しかしここで、決定的にドンキとアレグザンダーの議論を分かつものがある。
ドンキはたしかにセミ・ラティスの構造を強く持つ。しかしその一方で、店舗によってはかなり分かりやすくツリー構造を持つ場合もあるのだ。
その一例を、MEGAドンキ渋谷店に見ることができる。この店舗は都内でも有数の大規模店舗だが、その地階はドンキらしからぬ非常に見通しの良い空間になっている。これは、私たちがドンキの店舗と比較してきた、目的地まで最短距離で進めるスーパーの店内そのものであり、アレグザンダー風にいうならツリー型の構造を持っているということだろう。

アレグザンダーがセミ・ラティス型の都市を強く志向したように、一見するとドンキはそのような複雑さへの執着があるように見える。
しかし、その複雑さはドンキにとっていつも必要なわけではないのだ。このことは我々がドンキを語るときに非常に重要だ。結局のところ、ドンキはアレグザンダーが語ったような複雑さだけを目指しているのではない。彼が『都市はツリーではない』で打ち出した都市像は、俗に「ポストモダニズム都市」と呼ばれるが、ドンキはこのポストモダンな都市も、そしてアレグザンダーが否定しようとしたコルビュジエのモダニズム都市とも違う「なにか」なのだ。
では、ドンキはいったいどのような原理で、店の内部構造を変えるのだろう。この問いにこそ、前回私たちが確認し、そして今回考えようとしている「ドンキは内部までもが周囲の環境に溶け込んでいる」という言葉の意味がある。
「権限移譲」が多様性を生み出す
ドンキは多様な店舗構造を持つ。そして、その多様な店舗構造は、ドンキの内部が周囲の環境に溶け込んでいることと密接に関係しているのだ。どういうことか。
ここで取り上げたいのは、ドンキが独自に採用する「権限委譲」というシステムだ。創業者である安田隆夫が「ドンキを今のような成功に導いた最大の要因」と語るこのシステムは、各店舗の経営を一任された店長に、その店舗で置く商品の種類や量、そして配列の仕方を決定する権限を与えるものである。これによって各店長は、店舗がある地域のニーズに合わせて、置く品物や配列を独自に決定できるのだ。つまり権限移譲とは、徹底的に地域の姿を反映する仕組みなのである。全国に店舗を展開するチェーンとしてはきわめて珍しいシステムだが、この仕組みこそが、ドンキの多様性を生み出している。
前項で私たちは「MEGAドンキ渋谷店」の地階が通常のスーパーマーケットのようになっていると指摘した。実はこれもまた、このドンキの立地ゆえなのだ。MEGAドンキ渋谷店は、背後に松濤という高級住宅街をひかえ、ファミリー層が多く居住する場所でもある。実際、オープン時のプレスリリースを見てみると「ファミリー層や、地域の飲食店の仕入れ需要」に対応した店舗を目指していると書かれている[★3]。
同時に、渋谷は多くの若者が集う街として知られている。そうした需要にも同時に答えるべく、上の階では渋谷に来た若者向けの商品も置かれている。象徴的なのは5階に堂々と展開される「TENGAコーナー」だ[★4]。このスペースと地階のスーパーの雰囲気が異なることはいうまでもない。

【図7】MEGAドンキ渋谷店のTENGAコーナー
TENGAコーナーを始めとするMEGAドンキ渋谷店の上階は、通常のドンキと同じく回遊型の店舗構造になっている。同じドンキの店舗内にいわば、セミ・ラティスの構造とツリーの構造が垂直に同居しているのだ。アレグザンダーはこんな都市を考えただろうか? しかもこれは決して複雑な事情でできたのではない。単純に、そこに来店する客層にマッチした商品選定と商品配置がこの形を生み出したに過ぎない。この意味で私たちは、ドンキはその内部空間においても周辺の環境を取り込んでいると主張するのだ。そこでは店舗が位置する都市の性質がその内部にまで延長して取り込まれている。つまり外部と内部が攪乱されているのだ。

【図8】そんなMEGAドンキ渋谷店にも、もちろんドンペンがいる
私たちは、ドンキがその外観においても、あるいは内部構造においても近隣環境に溶け込み、その土地に特有のドンキが生み出されていることを確認した。そこでは『ラスベガス』でヴェンチューリが主張したことが、その外装だけでなく内部空間においても成し遂げられている。それはまさに、私たちが最初に考えたように、ドンペンが「内と外」を攪乱させるパワーを持っているのではないかという仮説を裏付けるかのようだ。
前項で私たちは「MEGAドンキ渋谷店」の地階が通常のスーパーマーケットのようになっていると指摘した。実はこれもまた、このドンキの立地ゆえなのだ。MEGAドンキ渋谷店は、背後に松濤という高級住宅街をひかえ、ファミリー層が多く居住する場所でもある。実際、オープン時のプレスリリースを見てみると「ファミリー層や、地域の飲食店の仕入れ需要」に対応した店舗を目指していると書かれている[★3]。
同時に、渋谷は多くの若者が集う街として知られている。そうした需要にも同時に答えるべく、上の階では渋谷に来た若者向けの商品も置かれている。象徴的なのは5階に堂々と展開される「TENGAコーナー」だ[★4]。このスペースと地階のスーパーの雰囲気が異なることはいうまでもない。

TENGAコーナーを始めとするMEGAドンキ渋谷店の上階は、通常のドンキと同じく回遊型の店舗構造になっている。同じドンキの店舗内にいわば、セミ・ラティスの構造とツリーの構造が垂直に同居しているのだ。アレグザンダーはこんな都市を考えただろうか? しかもこれは決して複雑な事情でできたのではない。単純に、そこに来店する客層にマッチした商品選定と商品配置がこの形を生み出したに過ぎない。この意味で私たちは、ドンキはその内部空間においても周辺の環境を取り込んでいると主張するのだ。そこでは店舗が位置する都市の性質がその内部にまで延長して取り込まれている。つまり外部と内部が攪乱されているのだ。

私たちは、ドンキがその外観においても、あるいは内部構造においても近隣環境に溶け込み、その土地に特有のドンキが生み出されていることを確認した。そこでは『ラスベガス』でヴェンチューリが主張したことが、その外装だけでなく内部空間においても成し遂げられている。それはまさに、私たちが最初に考えたように、ドンペンが「内と外」を攪乱させるパワーを持っているのではないかという仮説を裏付けるかのようだ。
生・ドンキ・死
ドンキの内部は、権限移譲のシステムによって地域固有の姿を持つ。このことから推測できるのは、ドンキが現代においてある種の「地元」を作り出しているということだ。
2000年の大店法撤廃をきっかけに国道沿いには多くの大規模小売店が生まれた。その動きの中で、三浦展らによって地元の消滅が声高に語られ、こうしたチェーンの小売店は大きな批判の波に晒された。そんな時代にあって、ドンキは旧来の地元とは異なる新しい地元を作り出しているのではないか。例えばそれは、2010年代半ばに現れた強力な「地元志向」を持つマイルドヤンキーたちとドンキがセットで語られること[★5]や、「[ドンキの]一番のライバルは近隣の地場スーパー」と書かれていること[★6]からもわかるだろう。もちろんドンキは、地域の個人商店のように厚い歴史を持っていない。その意味では郊外型チェーンの最たる例ともいえる。しかし一方で、完全に土地から疎外されたチェーンでもない。何度も書くように、ドンキはそれぞれの土地に合わせて変化しているのだから。ある意味でドンキは地元化しているのである。
どうしていま、ドンキの地元化を語るのか。そこにこそ、私たちはドンキが行うもう一つの攪乱のきっかけを見ることができるからである。
擬似的な地元に関しては興味深い先行研究がある。吉見俊哉の『都市のドラマトゥルギー』だ[★7]。ここで吉見は、1920年代における浅草と1960年代における新宿という2つの街が、日本全国から集まってきた労働者や学生にとって「擬似的な地元」になっていたと書く。そして吉見はそうした「擬似的な地元」の特徴として以下の4つを列挙する。
1、強烈な消化能力
2、先取り的性格
3、変幻自在さ
4、共同性の交感
この4つの特徴、なんともドンキらしい特徴ではないだろうか?
ひとつずつ考えてみよう。ドンキは地域住民の声やその街の環境、そしてドンキという企業が企業として行いたいことを強烈に消化する(1)。その結果として、一般的なチェーンのように固定的な店舗が各地域にコピーされるのではなく、それぞれの地域に最適化されたドンキが常に新しい形として(2)、変幻自在に(3)生み出される。
そしてこれら(1)〜(3)の特徴を支えているのが、(4)の「共同性の交感」だ。ドンキ創業者の安田隆夫の自伝を読むと、ドンキが地域住民や社会との対話を続けながら、それぞれの店舗を生み出していったことが分かる。例えばそれは、1999年、周辺住民からの申し出によって当時のドンキ五日市街道小金井公園店(現・ドイトプロ小金井公園店)の営業時間が夜11時までに変更されたことの例などに顕著だろう[★8]。24時間営業を売りにしているドンキにとってこの決定は痛手に違いなかっただろうが、住民や行政との対話がこの決定をもたらした。ドンキにおいては企業側と客・地域側の対話のプロセスが、それぞれの店舗を生み出しているのだ。
しかしより重要なのは、吉見がこれらの要素からさらに思考を飛躍させて、新宿・浅草的な盛り場の特徴を、渋谷や銀座といった都市との比較を通して「触れること」つまり「接触」にあると強調することだ。
そして、今まで私たちがドンキの大きな特徴であると考えてきたことの多くが、この「接触」という単語と密接に関わっていることは驚くべきことだろう。圧縮陳列による店舗構造は狭い通路を生み出し、そこでは直接的に人と人の身体が触れる可能性が高いこと。そして性的接触のツールにもなるアダルトグッズをほぼ全店にわたって取り扱っていること。また、2017年10月に「ドンキホーテグループが提案するGMS(総合スーパー)再生の最新モデル」として誕生した「MEGAドンキ豊橋店」のコンセプトの一つが「触れる」という単語であること[★9]。
明らかにドンキは、「接触」という単語と密に関わっている。
もう少し話を進めてみよう。浅草という盛り場が古来より「死」という要素と連関があったように、接触は「死」という単語と密に関わっている。これらの盛り場においては、性風俗が盛んであり、そこで行われる「接触」の行為は新たな生命を生み出すだけでなく――「エクスタシー」(=昇天)という言葉が否応なく「死」を喚起させるように――「死」に触れる行為でもある。つまり、「死」という局面と近い存在として、ドンキを捉えることができるのではないか[★10]。
あるいはここでドンキのファサードに置かれることの多い「水槽」(=水)を指摘してもいいだろう。日本では古来より「水」の風景がある種の異界(=死の世界)を喚起しており、浅草も「川向こう」にあることが死の世界である異世界を象徴していた。ここに、ドンキと「死」の結びつきを見出せるのではないか。

【図9】ドンキの入り口に置かれる水槽
一方で、ドンキは生活に必要な物資を買う場所、つまり「生」の空間であるはずだ。「生」の空間を考えた結果、いつの間にか「死」の空間に行き着く。あたかもメビウスの輪のように、生の平面をたどっていくと気が付かないうちに死の平面にたどり着く……。
いつの間にか「死」へたどり着く?
この言葉を私たちはどこかで耳にしたことがある。
そう、ドンペンの分析においてなのだ。
私たちがドンペン分析の結論として考えたのは、ドンペンの形象がレヴィ゠ストロースが指し示す「2つの世界を攪乱させる」形象と合致することだった。砂時計型形象は中沢新一の解釈によれば「出産」という契機を表していて、「生」と「死」を攪乱する象徴性がそこにある。そこで生と死は分断されておらず、相互に浸透しあい、繫がっている。
つまりドンペンとは、今まで見てきたようにドンキの内/外だけでなく、生/死をもつなぐ攪乱の象徴なのである。
生と死を撹乱するドンキ。しかしどうしてドンペンは砂時計型形象のように、2つの異なる世界を撹乱できるのだろうか。
それを考えるために、ショッピングモールについて語る東浩紀の言葉を引用しよう。
ショッピングモールにおいても「死」が重要なのだ。しかしそれは、東が語るようにショッピングモールは絶対的な生の空間としてイメージされているがゆえである。ゾンビという死者の国からの来襲を受けるのは、逆に言えば、通常そこで生と死が絶対的に分断されていることの顕れである。
あるいはここでドンキのファサードに置かれることの多い「水槽」(=水)を指摘してもいいだろう。日本では古来より「水」の風景がある種の異界(=死の世界)を喚起しており、浅草も「川向こう」にあることが死の世界である異世界を象徴していた。ここに、ドンキと「死」の結びつきを見出せるのではないか。

一方で、ドンキは生活に必要な物資を買う場所、つまり「生」の空間であるはずだ。「生」の空間を考えた結果、いつの間にか「死」の空間に行き着く。あたかもメビウスの輪のように、生の平面をたどっていくと気が付かないうちに死の平面にたどり着く……。
いつの間にか「死」へたどり着く?
この言葉を私たちはどこかで耳にしたことがある。
そう、ドンペンの分析においてなのだ。
私たちがドンペン分析の結論として考えたのは、ドンペンの形象がレヴィ゠ストロースが指し示す「2つの世界を攪乱させる」形象と合致することだった。砂時計型形象は中沢新一の解釈によれば「出産」という契機を表していて、「生」と「死」を攪乱する象徴性がそこにある。そこで生と死は分断されておらず、相互に浸透しあい、繫がっている。
つまりドンペンとは、今まで見てきたようにドンキの内/外だけでなく、生/死をもつなぐ攪乱の象徴なのである。
現実の複雑さを象徴するドンペン
生と死を撹乱するドンキ。しかしどうしてドンペンは砂時計型形象のように、2つの異なる世界を撹乱できるのだろうか。
それを考えるために、ショッピングモールについて語る東浩紀の言葉を引用しよう。
ぼくはテーマパークやショッピングモールを考えるうえで、「死」というテーマは欠かせないのでないかと思います。[…]たとえば、ショッピングモールに潰されそうな商店街について考えたとき、そこで想像されるのはたいていおじいちゃんやおばあちゃんですよ。簡単に言うと、「死に近い人たち」です。それに対してショッピングモールというのは、死から遠く離れた、絶対的な「生」の空間としてイメージされているのでしょう。でもだからこそ、ゾンビ映画ではそこに死を持ち込もうとする[★11]
ショッピングモールにおいても「死」が重要なのだ。しかしそれは、東が語るようにショッピングモールは絶対的な生の空間としてイメージされているがゆえである。ゾンビという死者の国からの来襲を受けるのは、逆に言えば、通常そこで生と死が絶対的に分断されていることの顕れである。
そのことはショッピングモールが外/内を完全に分断していることともパラレルだ。一般的なショッピングモールの外装は驚くほど淡白で、外観や周辺の地域には目が向いていない。

【図10】イオン石和店の外装
そのことは、建築家のレム・コールハースが指摘した、ショッピングモールを特徴づける「エアコンの常時稼働」にも顕著だろう。エアコンが常に稼働していることによって、ショッピングモールの内部空間は「モール気候」ともいえる独特の温度帯が維持され続けている。その徹底された温度管理を可能にするのが、外部と内部の遮断である[★12]。
一方でドンキはどうか。

【図11】ドンキ横浜西口店
その入り口の多くは外部空間に開け放しになっている。もちろんドンキが空調を付けないはずはないし、換気を強く意識しているわけでもないだろう。しかしそこでは、突然私たちがその空調の気候を体感するのではなく、徐々にその空間の温度に慣らされていくというグラデーションが作られる。
ショッピングモールがファサードにおいて、人工的に気温を操作しているとするなら、ドンキのファサードには、内と外を完全に分離することができない現実空間の気温の複雑さが反映されている。この「現実の複雑さ」こそ、ドンペンが二項対立を撹乱する空間を作る上で、非常に重要なことだと思うのだ。
これまで見てきたように、ドンキは周辺住民(東がいうところの「死に近い人」も含まれる)との対話のうちで変化し、多様な形になりうる可塑的で複雑な空間を持っていた。MEGAドンキ渋谷店の例で見たように、異なる空間秩序が垂直に重なることさえある。それは、ある意味でその地域の姿を反映しているのであって、こうした空間はドンキが地域の現実に目を向けているからこそ生まれるのだ。
先ほど引用した東の「生」や「死」という言葉は、本人たちも同書で述べている通り、推測を含んだ「no evidence」なものである。ここでも「no evidence」であることを承知の上で、あえてこういってみたい。つまり、ドンキは絶対的な生の空間でも、絶対的な死の空間でもない。生/死の境目が厳密には確定できないように、ドンキの各店舗もまた、現実のあらゆるグラデーションを反映しながら存在しているのではないか。その意味で、東と大山が語るショッピング・モール論のような視座でドンキを語れるのではないか。
世間で「ドンキらしい」といわれるとき、圧縮陳列やPOP文字の洪水のような印象だけがドンキらしさであるかのように語られる。けれども現実のドンキはそのような一面的なものではなく、もっと複雑で、様々な形をしている。
ドンペンはそうした現実の複雑さをこそ象徴している。このキャラクターは内/外、生/死という単純な二項対立を超えて、両者が混ざり合ったはるかに遠い地点を見つめているのではないか。あらゆる二項対立を排してただ現実を見据えるドンペン。それは、権限委譲のシステムに沿って、現実のように複雑で多層的な空間を作り続けているのだ。
さて、ここで我々は「ドンペンとはなんなのか」という問いにひとまずの結論を出し終えた。ドンペンとは、現実の複雑さを反映する、ドンキの姿勢の象徴なのである。だからこそ、そこには二項対立を撹乱する砂時計型形象やサンタクロースのモチーフがある。そして実際、私たちは様々なドンキに訪れながらそのことを確かめてきた。ドンキは決して一つの固定的で絶対的な形を持たず、可塑的に変化する。それもすべて、ドンキが権限移譲のシステムによって地域の現実に目を向けるからである。
ここまでで、ドンペンについての謎を私たちはあらかた解き終えたかのように思える。しかし、最後にもう一つだけ疑問を提出したい。それは「なぜドンペンはペンギンなのか」という問いである。そしてこの問いは、権限移譲によって多様性を生み出すドンキのシステムをさらに鮮明に浮かび上がらせることになる。それは一体どういうことか。一体ドンペンとは何者なのか。
後篇はこちら
そのことは、建築家のレム・コールハースが指摘した、ショッピングモールを特徴づける「エアコンの常時稼働」にも顕著だろう。エアコンが常に稼働していることによって、ショッピングモールの内部空間は「モール気候」ともいえる独特の温度帯が維持され続けている。その徹底された温度管理を可能にするのが、外部と内部の遮断である[★12]。
一方でドンキはどうか。

その入り口の多くは外部空間に開け放しになっている。もちろんドンキが空調を付けないはずはないし、換気を強く意識しているわけでもないだろう。しかしそこでは、突然私たちがその空調の気候を体感するのではなく、徐々にその空間の温度に慣らされていくというグラデーションが作られる。
ショッピングモールがファサードにおいて、人工的に気温を操作しているとするなら、ドンキのファサードには、内と外を完全に分離することができない現実空間の気温の複雑さが反映されている。この「現実の複雑さ」こそ、ドンペンが二項対立を撹乱する空間を作る上で、非常に重要なことだと思うのだ。
これまで見てきたように、ドンキは周辺住民(東がいうところの「死に近い人」も含まれる)との対話のうちで変化し、多様な形になりうる可塑的で複雑な空間を持っていた。MEGAドンキ渋谷店の例で見たように、異なる空間秩序が垂直に重なることさえある。それは、ある意味でその地域の姿を反映しているのであって、こうした空間はドンキが地域の現実に目を向けているからこそ生まれるのだ。
先ほど引用した東の「生」や「死」という言葉は、本人たちも同書で述べている通り、推測を含んだ「no evidence」なものである。ここでも「no evidence」であることを承知の上で、あえてこういってみたい。つまり、ドンキは絶対的な生の空間でも、絶対的な死の空間でもない。生/死の境目が厳密には確定できないように、ドンキの各店舗もまた、現実のあらゆるグラデーションを反映しながら存在しているのではないか。その意味で、東と大山が語るショッピング・モール論のような視座でドンキを語れるのではないか。
世間で「ドンキらしい」といわれるとき、圧縮陳列やPOP文字の洪水のような印象だけがドンキらしさであるかのように語られる。けれども現実のドンキはそのような一面的なものではなく、もっと複雑で、様々な形をしている。
ドンペンはそうした現実の複雑さをこそ象徴している。このキャラクターは内/外、生/死という単純な二項対立を超えて、両者が混ざり合ったはるかに遠い地点を見つめているのではないか。あらゆる二項対立を排してただ現実を見据えるドンペン。それは、権限委譲のシステムに沿って、現実のように複雑で多層的な空間を作り続けているのだ。
ドンペンはなぜペンギンなのか
さて、ここで我々は「ドンペンとはなんなのか」という問いにひとまずの結論を出し終えた。ドンペンとは、現実の複雑さを反映する、ドンキの姿勢の象徴なのである。だからこそ、そこには二項対立を撹乱する砂時計型形象やサンタクロースのモチーフがある。そして実際、私たちは様々なドンキに訪れながらそのことを確かめてきた。ドンキは決して一つの固定的で絶対的な形を持たず、可塑的に変化する。それもすべて、ドンキが権限移譲のシステムによって地域の現実に目を向けるからである。
ここまでで、ドンペンについての謎を私たちはあらかた解き終えたかのように思える。しかし、最後にもう一つだけ疑問を提出したい。それは「なぜドンペンはペンギンなのか」という問いである。そしてこの問いは、権限移譲によって多様性を生み出すドンキのシステムをさらに鮮明に浮かび上がらせることになる。それは一体どういうことか。一体ドンペンとは何者なのか。
★1 URL = http://www.supersanshi.com/ikuwa/ikuwa_access.html
★2 クリストファー・アレグザンダー『形の合成に関するノート/都市はツリーではない』、稲葉武司、押野見邦英訳、鹿島出版会、2013年。
★3 URL= https://www.donki.com/updata/news//170428_02_9Zybb.pdf
★4 歓楽街など、若者が多く集う街にあるドンキには、このように特設のTENGAコーナーが置かれる場合が多い。
★5 マイルドヤンキーについては、熊田曜平『ヤンキー経済』(幻冬舎、2015年)を参照。
★6 『月刊 激流』2017年12月号、34ページ。
★7 以下の記述は、吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』、河出文庫、2008年、281-286ページを参照。
★8 安田『安売り王一代』、文春新書、2015年、108-114ページ。この決定は大規模小売店舗審議会によって半ば強制的に決定されたが、この決定を受けてドンキは地域の環境問題を店舗作りに反映させる方向へ本格的に舵を切ることとなった。
★9 『月刊 激流』、2017年12月号、32-33ページ。
★10 盛り場と「死」を接続させて捉える言説は、例えば中沢新一『アースダイバー』(講談社、2005年)などにも見られる。
★11 東浩紀・大山顕『ショッピングモールから考える ユートピア・バックヤード・未来都市』、幻冬舎、2015年、196-197ページ。
★12 五十嵐太郎「レム・コールハースを読む」(五十嵐太郎・南泰裕編『レム・コールハースは何を変えたのか』、鹿島出版会、2014年所収)を参照。


谷頭和希
1997年生まれ。早稲田大学教育学術院国語教育専攻に在籍。国語教育学を勉強しつつ、チェーン店やテーマパーク、街の噂について書いてます。デイリーポータルZにて連載中。批評観光誌『LOCUST』編集部所属。ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾3期に参加し、『ドン.キホーテ論』にて宇川直宏賞を受賞。