内容紹介
エモさが報道の未来を壊す!?
旧弊なメディアに正面から疑問符を突きつけ、激震を引き起こした「エモい記事」論争。苦境にあえぐジャーナリズムを救うべく、大手全国紙に提言を行った著者だったが、返ってきたのは驚くべき反応だった──。
著者の書き下ろし論考に加え、江川紹子、大澤聡、大治朋子、武田徹、外山薫、山本章子、東浩紀との対話を通して、この国の報道の未来をタブー無しで考える。話題沸騰の社会学者が切り込んだ、巨大新聞社との戦いの記録。
日本の新聞がなぜ終わりつつあるのか。あらゆる面から言い尽くされていて圧巻すぎる。
目次
- まえがき
- 第1章 提言──「エモい記事」は必要か
- その「エモい記事」、いりますか?
- エモさが壊す「トラストな情報基盤」
- 第2章 反響──「エモい記事」の根本問題
- 日本人は言葉を手放す瀬戸際にある +大澤聡
- いま、新聞を読む理由はどこに? +武田徹
- 民主主義を支える報道の多様性 +山本章子
- 第3章 総括──「エモい記事」に未来はあるか
- エモさの起源とジャーナリズムの未来 +東浩紀+大澤聡
- 伝統メディアに明日はあるか +江川紹子+大治朋子+外山薫
- あとがき
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まえがき
この本を手に取ったあなたは物好きだ。
本書を手にしたということは、何らかのかたちでマスメディアや報道に関心がある人のはずだからだ。
メディアは大きく変わりつつある。それは確かなのだが、その将来は急速に色褪せ、輝きを失っている。
つい10年ほど前には、5年後メディアがどうなるかといったような本がそれなりに売れ、話題になったわけだが(例えば佐々木紀彦『5年後、メディアは稼げるか──Monetize or Die?』、東洋経済新報社、2013年)、最近はとんと聞かない。
なぜか。「勝者」はインターネットであり、AIであることが自明になったからだ。
インターネット広告費はマスコミ4媒体(新聞、テレビ、雑誌、ラジオ)の合計を上回り、新聞の平均閲読時間がゼロになる世代も出てきた。テレビはまだ視聴されているとはいえ、明確に年長世代の視聴時間が長く、若い世代になるほど短くなっている。同時に年長世代のネット利用と視聴も活発になるばかりで、選挙の出口調査での回答を見てみると、「もっとも参考にしたのはネットとSNS」という時代になったのである。
勝敗は決したのである。
短期的にはいろいろなことがあるかもしれないが、長い目で見れば時計の針が戻ることはない。そして「勝者が決まった世界」のことは考えてみたところで、それほどおもしろくないというのが相場だ。ネットのなかでは、ひとつのコンテンツになってしまう報道も「勝敗の例外」ではいられないだろう。
それなのに、あなたは『エモさと報道』などというタイトルの書籍を手にしているのだから、よほどのことである。
筆者も筆者だが、あなたもたぶん少しおかしい。
本書はマスメディアをめぐって起きた、ある「論争」の経緯をまとめた本である。詳細は本文に譲るが、ここではその発端である「エモい記事」について、筆者の念頭にあった問題意識を記しておくことにしたい。
かつて「好きな媒体を、好きなときに、好きに見る」ことは「理想」だった。現実には人々は数えられる程度の選択肢のなかから特定の新聞を読み、数えられるほどのチャンネルのなかから見たい番組を選び、数えられる程度の雑誌のなかから読む記事を選んでいた。そのような条件の下でメディア企業はコンテンツ制作に多額のコストをかけ、磨き抜いた。書き手や話し手、出演者は、激しい競争を勝ち抜いたスターたちだった。
それがマスメディアの世界の論理である。
文字通り、メディアとコンテンツは輝いていたのだ。だからこそその在り方や将来には、多くの人が関心を向けたものだった。
しかし、かつての理想を可能にするメディアの条件が揃うと、同時にメディアそのものに対する関心が薄れていったように思われる。
「理想」は叶えば急速に色褪せ、当たり前のものになってしまう。
メディアは今ではただのインフラになりつつある。言うまでもなくそれらは社会にとって重要だが、提供している企業に関して人々が話題にすることは少なく、熱く語ったりすることもまずない。
要するに、電線や電柱と変わらなくなったのである。
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そのインフラのうえでは誰でも発信が可能で、他人と同じコンテンツをみる必然性はどんどん薄らいでいる。各人が各人の「別の現実」を探している。
コンテンツを「作り込む」という言葉の意味も変化している。マスメディアの時代のアナウンサーたちは「標準化された話し方」の技術を磨いたものだが、動画の世界では「あー」や「えー」といったフィラーや言い間違えも、うまくハマれば個性と評価される。テレビの時代には「言いたいことを短く収める」技術が求められたが、ネット動画の時代には「尺」(動画コンテンツの配信や収録の時間)も柔軟に調整が効くので、ダラダラと酒でも片手に、延々と話し続けられる技術も重要だ。逆にぱっと撮影したなんでもない動画が、一気に広がることもある。
急速にマスメディアの「当たり前」が当たり前でなくなりつつある。
そんな世界においては、新聞やテレビ、ラジオといったかつてのマスメディアとその行く末など、多くの人は知ったことではないだろう。人々が新聞を読まず、テレビを見ておらず、ラジオを聴いていないとすれば、それでもさほど「困らない」からである。XとYouTube、TikTok、ポッドキャストがあればそれでよい──そう考えている人が、恐らくは社会の多数派になった。
そうであればその「現実」を直視するほかないはずなのだが、皮肉なことにメディア業界もまた「別の現実」を見ながら、今なお「新聞(紙)は大事だ」「放送は重要だ」などということを、十年一日の如く言い続けている。壊れたレコードのようだ。
この滑稽さに早く気づくべきだ。
無論、新聞も放送も大事だろう。だがそれは、メディアの重要性が自明であった時代、つまりマスメディアが名実ともに「マス」足りえた2010年代までに発信するべきだったことなのであって、メディアを取り巻く「標準」が変わってしまったいま、そのようなメッセージは説得力を失い、逆効果ですらある。
2025年になって全国紙各社が横並びで本腰を入れ始めた「ファクトチェック」や「土曜の夕刊一斉廃止」もそうだ。それらは2010年代に打つべき手だったであって、ほとんどの人は関心すら示していないか、そもそも認識していないだろう。すでに新聞それ自体を読んでいないか、(夕刊が配られない)統合版地域が増えているのだから、土曜の夕刊どころか夕刊自体が廃止されても多くの人は気にもとめまい。でも、前例踏襲、横並び主義で、夕刊それ自体を廃止する「大胆な決断」はできないのだ。
かつて人々はニュース(情報)を求めていた。マスメディアが報じる良質な情報はとくに貴重だった。したがって報道も重宝された。
メディア企業はそのことをわかっていたから、「良質な情報」を制作し、独占し、自社で流通させようとした。
だが、それは情報が少なかった時代の話である。
今や情報は溢れかえっている。
古典的ジャーナリズムの根幹にある「メディアと権力は対峙し、メディアは人々の味方である」というナラティブすら通用しなくなりつつある。
「メディアの特権性」を人々は嫌悪するし、記者の正当な取材が非難されることも珍しくなくなった。
このようなメディアの時代状況への対応が、物語によって「エモさ」に訴えることで、果たして本当によいのだろうか。
一言でいうなら、これが本書を通底する問題意識である。
本書に記すように、いろいろな論戦を様々な媒体で展開してみたのだが、筆者の問題意識は当該新聞社のみならず新聞業界にはほとんどといってよいほど届かなかったし、結果として議論することすら叶わなかった。
そこで最後に本書を幅広い読者に届けてみることにしたい。
本書で描かれるのはそんな時代の「現実」と「物語」の関係を問う、そのままでは記録されなかった提言の「記録」である。
その「記録」が伝統メディアの反転攻勢に活かされるのか。
それとも最末期の徒花と終わるのか。
読者諸兄姉も本書を一読のうえ、日本における将来のメディアとメディア環境、そして報道の在り方を展望してみてほしい。
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